日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣
生と死の極限に生きて
大東亜戦争---ガダルカナル
ガダルカナル島マタニカウ河 この向こうにルンガ飛行場がある。
習志野出発
『昭和十七年一月十六日第一次移駐地習志野出発、一月十九日宇品港出帆、二月二十五日仏印カムラン湾に於いて四十五隻の船団集結、戦闘攻撃命令下達、二月二十八日泊地進入、三月一日爪哇島「バンタム湾」敵前上陸、三月二日より同月九日迄バンドンに向かう前進及び追撃戦闘に参加、三月十日より「バンドン・バタビヤ」付近の警備、自三月二十五日至九月十五日「バンドン」付近の警備並びに接収業務』
宇品港(広島県)出帆の一月十九日は真冬であった。
広島も寒かったが、特にここで夏服に着替えしたことで格別に寒かった。
船が随分と揺れたのは台湾海峡であった。
戦後、この付近を何回か飛行機に乗って懐かしい海を見ることができ、今昔の感にうたれるものがあった。
乗船三日目、随分と蒸し暑さを感ずるようになり、船が停止した。
甲板に出てみても暖かい空気がふわぁふわぁと体を包む感じだが、どこなのか分からない。
下船命令があり上陸をして初めてここが台湾の高雄港であることが分かった。
当時日本では滅多に食べることがないバナナや珍しい果物がたくさんある。
使える銭はないから手拭いやタオル、衣類などとの物々交換である。
戦争や戦場を知らない兵達は海外旅行にでも来たような気分にんっている。
高雄港を出帆してから船室は蒸し暑く、熱帯夜である。
南の空に初めて見る南十字星は感動的であった。
一月二十五日、甲板上に出て見て驚いた。
輸送船が無数に海上を埋めている。
印度支那カムラン湾である。
日露戦争のときロシアのバルチック艦隊が集結した湾だという。
なお奇しくも我々が終戦になり、内地へ帰還するときもこの湾の聖雀(サンジャク)港から出発した。
ここで初めて我々の攻撃目標命令が下された。
十六連隊は、十六軍で、軍司令官は陸軍中将の浜村均である。
今村中将は仙台生まれで、新発田中学校卒業(現新発田高校)であった。
奇しき因縁であった。
そして第一大隊長、陸軍少佐、源紫郎が司令官の乗船・龍城丸の輸送指揮官となり、私が書記となった。
この龍城丸は日本で一隻だけの作戦用輸送船であるとのことである。
その船で日本の名将として数々のエピソードを残した今村閣下と同乗できた。
命令書が下りた。
攻撃目標はジャワ島である。
一路ジャワ島を目指して船団は更に南下した。
カムラン湾出帆後のことである。
第二中隊乗船から「船体の状態悪し、我れ船隊よりおくれる」との打電あり。
輸送船は日本郵船をはじめ民間各社から用立てしたもので老朽船も総動員したのであろう。
南国の海は静かである。
時たまイルカの大群が船を追うように飛び交って従いてくる。
猛毒を持つという海蛇が海面に姿を見せ、船べりについてくる。
薄気味が悪い。
大東亜戦争の原因になった仏領印度支那へは既に日本軍が進駐している筈である。
また各海域には海戦が行われていることであろう。
十二月八日の真珠湾攻撃から一ヶ月余りを経た時期である。
バンタム湾上陸
二月十八日、いよいよ泊地・バンタム湾に侵入した。
陸地が見え、湾内に入った頃、湾内には米巡洋艦とオランダ艦隊が待ちうけていたのであろう、猛烈な艦砲射撃戦が始まった。
夜間の海に明るい閃光がひらめく。
海中に傾いて沈没してゆく船の様子が見える。
そんな状況を目撃しているうちに海戦も比較的静かになったかと思われた瞬間、私共の龍城丸がドカンという音響と同時に我々は飛び上がる衝撃を受けた。
何が起こったか分からなかったが、船体が急速に傾いてきた。
船は全速で陸地をめざし、擱座させることができた。
敵の魚雷攻撃を受けたのである。
軍司令部の機能である自動車をはじめ通信器材等を積載しているので船内を移動することは危険である。
自分の船室でしっかり、しがみついていた。
夜が明けるにつれて周辺の様子が分かってきた。
まず今村閣下が海中に飛び込んだこと。
その他多くの兵達も飛び込んで救助された。
船は海辺から三〇〇メートル程度のところで乗り上げていた。
私には書類の入った公用行李がある。
大隊の陣中日誌、戦闘詳報、戦時名簿、考課表等、複製の出来ない重要書類である。
上陸をすると、今村閣下は頭から重油を被って、全身黒々となっていた。
白い歯を出して「源君は海に入らなかったようだね」とニヤニヤ笑っておられた。
源大隊長は、私は船内で傾いた船体にしがみついていましたよ、と言い、お二人で笑っておられた姿が今でも目に浮かぶ。
この情景については『今村均回顧録』、改題をして私記『一軍人六十年の哀歓』(五三六頁の大冊、芙蓉書房出版)の中に今村閣下自身が詳しく述べられている。
激戦前のひと駒である。
夜が明けると共に海辺に現地の人達がぞくぞくと寄り集まって来た。
人懐っこい顔をした笑顔で、右手の親指を立てて「ジョンポール」と連呼して迎えてくれた。
敬愛と尊敬を表す所作であるという。
配属の長野県伊那郡出身の通訳、村松良平氏が説明してくれた。
水もなくなり喉が渇いて仕様がない。
現地の青年達が海岸に生えている椰子の木に手と足だけで腹をつけないでスルスルと登って巧みに椰子の実を落としてくれた。
初めて見たインドネシア人であり、生まれてはじめて飲んだ椰子の水は甘酸っぱくて、とてもおいしかった。
擱座した龍城丸の船体から積荷一切を舟艇で運ぶなどして約一日を海岸で費やした。
四十六年後、このメラク海岸(地名はボジョネゴロ)を訪れたとき、多少船体は波にさらされ小さくなっているが往時を偲ばせた。
私がジャワを訪れたのは昭和六十三年、戦後四十三年の歳月を経ていた。
我が聖籠町の新潟東港に建設したエネルギー基地の発電所はエル・エヌ・ジー(LNG)、即ち液化天然ガスを燃料として、インドネシアのスマトラ・アル基地から導入していた。
この供給先である国営バタビアで石油、ガスの生産会社であるアルペック社を訪問のためであった。
同社の社長サイディマン氏と面会した。
私は戦争の話はタブーにしようと思っていたが、面談の最後にサイディマン社長からガスの受け入れ基地である聖籠町長のインドネシアに対する所見はどうですか、という質問が出された。
これは答えざるを得ないと思って、実は、私は四十六年前バンタム湾に、社長さんもご存知の今村閣下と共に上陸をし、戦争では大変ご迷惑をお掛けいたしました。
私の立場からも深くお詫びを申し上げます。
あの当時、貴国はオランダの植民地として国民の皆さんは大変その桎梏(しつこく)に苦しんでおられましたが、独立をして営々といそしんでいる姿を見て感動いたしました。
と申し上げたら、サイディマン氏は、
「実は私も当時陸軍少将で日本軍から作戦指導を受け、武器や資材を貰い、そのお陰で独立することが出来て感謝しています。どうぞガスでも石油でもどんどん使ってください」
とおっしゃった。
思いがけない好意に満ちた言葉に同行の皆さんも喜んだ。
サイディマン氏は英国の大学を卒業された紳士である。
軍人であり、宗教家であり、哲学者であり、政治家であり、さらにスポーツマンという万能なお方で、大統領にもっとも近い実力者とのことであった。
聖籠町では、日本海エル・エヌ・ジー株式会社が立地、二十年間で二九〇万キロリットルの液化天然瓦斯を受け入れて、約四六〇万キロワットの発電所で専焼している。
このように貴重なエネルギー資源のなにもない我が国に安定供給を願っていることは、実に有難いことである。
この資源確保が大東亜戦争の目指す目的のひとつでもあったと考える。
それにしても四十六年後、あの戦争を生き抜いて再び宿縁の地を表敬訪問できたこと、しかもこの手記の十六連隊本部所在地ボイテンゾルグにも訪れることができたことは望外の幸せであった。
さて当時に戻す。現地の人々の熱狂的な歓迎には驚いた。
いかに植民地という侵略によって前時代的な政策に虐げられ、苦しめられてきたかである。
国土があっても異民族に支配される国民はみじめである。
日本軍が捕虜のオランダ軍を使役している姿、自分達が対等では物も言えない、すべてを差別によって支配していたオランダ人を逆に支配している日本軍の姿は未だ見たことの無い光景であったであろう。
彼等の言うには、東の方から神の兵隊が来て自分達を救ってくれるという説が流れていたところに、それが現実のこととなって現れたのだから驚いたに相違ない。
映画館も食堂もみんな区別されており、未だに現地の人たちの映画館は無声映画であった。
入ってみた、「透明人間」のフィルムが何ヶ月も継続しているという。
現地の人達はマラリアに冒され、椰子と竹でつくった小屋に等しい家に住んでいる。
道路の向かい側にはオランダ人の白亜の洋館があり、原色の花に埋もれ、その家の中で御馳走を食べている生活である。
十八世紀初期に侵略され、約三世紀にわたる植民地生活である。
原住民はマラリア、皮膚病、その他何らかの病気に冒されている。
美しい国土、温暖で作物の育つ国、国民がこの自然の恵みを享受できないことは悲しいことである。
搾取の恐ろしさである。
現在この国家も民族意識に目覚めて発展途上にあることは我々の力も無意味ではなかったのではなかろうか。
喜ばしいことである。
もしもあのような刺激がなければどうであったか、と考えさせられる。
さて上陸後、我が源大隊は輸送指揮官としての役目も果たしたが、なお方面軍司令官の直轄部隊となり、広安梯団(十六連隊主力)とは別な行動をとった。
主力部隊はレウリアンの戦闘が主戦場であった。
入隊以来満州でもお世話になった長野県出身の伊藤今朝長大尉は惜しくもレウリアン戦で戦死された。
この戦闘で連隊は三十六名の犠牲者を出した。
この伊藤中隊長は潔癖で、正しい発音の言葉で話される謹厳な武人であった。
決して越後弁の我々に押し付けるようなことはなかった。
我が第一大隊は軍司令官と共に「バンドン」に進攻するため更に南下した。
バタビア〜ボゴール〜スカブミ〜バンドン間は立派な舗装道路であった。
オランダは産業振興に繋がる投資を積極的に行ったらしい。
椰子の並木が暑さを防いでくれる。
両側はバナナやパパイヤ、ランブタンの実が甘酸っぱい香りを漂わせてくれる。
上陸後、オランダ軍の軍用装備を整えたトラックの多いのには驚いた。
日本軍の装備といえば自転車部隊を編成しての行軍である。
このように機動力に優る近代装備をしたオランダ軍はなぜ簡単に降伏をしたのだろう。
オランダ軍将兵を収容したとき、彼等の収容所にオランダ将校で神戸の商船学校を卒業したという人が上手な日本語を使って「日本は米、英、オランダ、フランス、中国、これらの国を敵として勝てる道理がありません。
世界の大局を誤って見ていませんか」、と昂然と胸を張って明言していた。
ジャワの戦闘を考えてみると、オランダ軍は無駄な抵抗はしないが最期には勝つんだというような降伏のやり方のように感じられた。
我々には世界の大局など読めるものでもないし、あっけない戦闘で戦勝気分になっている。
植民地における戦争で本腰を入れてなかったのかとも思えた。
これが本国の戦闘であれば様相は自ら違っていたことは事実であろう。
バンドンはジャワ島の避暑地でもあり、大変綺麗な市街地であった。
女子高校の校舎を第一大隊本部の宿舎とした。
我々がジャワ島に駐留していた五ヶ月、各所の戦況は刻々と危機的様相となっていた。
ジャワにあっては、軍政を布いて司令官が原住民に対し、オランダの植民地政策に代わって秩序を保持した行政が行われた。
言葉をはじめ日本人的な教育が行われると共に、自立を促す為に現地の若者が徴用され、日本軍に編入、教育訓練をした。
第一大隊にも本部直轄として約三十名の兵が配属された。
預かってみると性格は従順であり、しっかり我々と同化して立派な戦力となる。
我々がガダルカナル島に出動するときは解隊したが、後年インドネシアの独立軍の中核となって大いに役立ったという。
村松良平氏はジャワ島に残り、スカルノ大統領直属の通訳として活躍、これらの人々と人脈をつくり独立後も国賓待遇で感謝されたという。
人情に国境はない。
これらの若者との別れにはみんな涙した。
昭和四十六年に前記のボイテンゾルグを訪れたとき、当時の人に会うことが出来た。
彼は王宮のある植物園の近くに住んで日本人が来ると進んで通訳することを生き甲斐としているのだと言った。
我々十六連隊がジャワ島に駐留していた期間は軍律秩序は厳正に保たれて、現地人から厚い信頼を寄せられていた。
お世話になった日本人の老婆。
一大隊本部に毎日来てくれる日本人のお婆さんがいた。
前身はあまり語らなかったが、おそらくジャガタラお春さんであったのであろう。
日本語も多く忘れかけていた。
オランダ人と結婚して娘さえ一人いるという。
毎日来ているうちに自然と母国語を思い出して通訳の代用にもなった。
よく味噌汁をつくってくれた。
我々が「ガ島」に出動の後どうされたか知る由もない。
当時のインドネシア人は日本人を大変尊敬し、憧れていた。
そして日本人との結婚を希望していた。
欧米の植民地政策は、先ず現地の言葉を自ら覚え、その文化を理解するというが、日本人は逆に日本語を彼らに覚えさせるが、自らは現地の言葉を覚えないという違いがある。
それぞれ一長一短はあろうが短い期間では分からない。
それにしても三世紀にわたる植民地支配の中で果たしてオランダの文化がどれほど根付いたのであろうか。
あまり影響を与えていないのではないかと思えた。
日本の長崎に来たオランダ文化は、医術から産業、教育文化等、随分日本人は得たものがあったやに聞いている。
インドネシアの場合、あまりにもオランダは征服者という立場を強調し、同化が行われなかったのではないかと思う。
先ず服装は全然といってよいほど洋装化がない、食文化も洋食化していない。
宗教についてもインドネシア固有のもの、また血族的にも繋がっていない。
結局のところ受け入れなかったのか、与えてもらえなかったのか分からぬところ。
日本から見るとやはり遠く、風俗、習慣、気象、宗教などに相違点はあるが、相似点と言えば食文化であり、東洋民族として何がしかの繋がりがある。
歌や踊りにしても我々が共感できるものがある。
皮膚にしても黄色人種であり瞳にしても黒目である。
このようにして我々がジャワ島に上陸したのは、インドネシア民族を戦争の対象としてはいなかった。
従って侮蔑をしたり、被征服民族的な感情は働いていない。
若い兵達の間に親近感が出て恋愛感情が芽生えることは当然だと思う。
ましてや愛に国境はない。
それが証拠に戦後も彼の地に残った人が多くいる。
こんな日々が続いていると、戦争が終結するのではないか、二師団は内地に帰還をするやの噂も出た。
そろそろ土産の支度をする者さえあった。
ところがそうはゆかなかった。
嵐の前の静けさのようなものであった。
以下はガダルカナル島作戦陣中日記より記していくことにしたい。
九月一日 火曜日 晴れ
この日、各大隊長、中隊長は命令受領者を帯同して連隊本部のあるボイテンゾルク(ボゴール)に集合召集された。
涼しい朝風のバンドンを出発、オランダ軍より接収した貨物自動車で正午目的地ボゴールに到着した。
昼食を終えると、新しい作戦準備について指示された。
広安連隊長にも久しぶりにお会いした。
変わりない口髭、炯々たる眼光ながら、淡々として感情の変化のない口調で指達された。
ただし次期戦場はどこかの明示はないが、再び戦火の中に入ることになる。
当時のジャワ島ボイテンゾルグ駅。
九月二日 水曜日 晴れ
源大隊長と共に七時三十分ボゴール発、正午近くバンドンに帰る。
午後示達に基づいて本部指揮班、行李班に伝達をする。
椰子の葉、梢から洩れる星が鋭く光る。
兵達は黙々と諸準備をする。
戦陣に望む心は早く戦場を知りたい様子。
奇しくもこの日、満州で慰問袋が縁となって文通していた新潟市上大川前の渡辺産婦人科医院の看護婦さんである渡辺美智子さんからの手紙が届いた。
内地では面識をしないままになっていたが、従軍看護婦としてジャワ島に行くので会えることを楽しみにしています、との内容であった。
乙女心の感傷であるとすればあまりに思い切った冒険である。
部隊の移動によって遂に会えないことになる。
九月三日 木曜日 晴れ
この日は、各隊に連絡した後、市内でおいしい中華そばを食べた。
満州や中国で食べたそばより大変おいしいそばであった。
今日も例のお婆さんが来て掃除をするやら洗濯をしてくれるやら。
我々には決して敬語は使わず呼び捨てである。
いいお婆ちゃんであった。
九月四日 金曜日 晴れ
天候は晴れと書いてあるがジャワ島は一日のうち、必ず洗い流すようなスコールがある。
激しい雨である。
この日突然、満州時代の同年兵で、前に平原鎮戦闘で一緒に戦った佐渡郡出身の飯田耕三君が訪ねて来た。
彼は立派な憲兵になっていた。
頭の良かった彼は憲兵に転向をしていたのである。
そして彼は「長谷川君、歩兵ではいつ戦死するかわからない危険があるぞ。憲兵は安全だ、憲兵に転向しないか」とさかんに勧めた。
飯田君には、たとえ憲兵であろうとも既に内示をうけている部隊の行動予定は軍事機密だから話すことは出来ない。
この時点では憲兵になりたいとは言えない環境だ。
「飯田君ありがとう僕はこの職を本分としてゆくよ」と言って断った。
生きていたらまた会うと言って・・・。
彼は終戦後多少戦犯として抑留されたが解放されて、新潟駅前のビルの興信所を経営し、親しく交際している。
ボイテンゾルグで元日本兵に使えた現地人と著者。
九月五日 土曜日 晴れ
大隊長より予め次期作戦行動に関する示唆あり。
西南太平洋のどこかの島に進攻するらしいこと。
今度こそ再び生きて帰れない戦いになるだろう。
戦闘準備を進めるようとのことであった。
兵達にも伝えて故郷への便りをとり纏めた。
九月六日 日曜日 晴れ
バンドンの仮寝の兵舎は洋風の白壁で、床はタイル張り、綺麗である。
女学校だったそうだ。
夜は白い蚊帳を吊って、心地よい眠りが楽しみだ。
上陸一ヶ月位で免疫性のない我々の殆どがデング熱(マラリアの前段で三日熱ともいう)に罹った。
あの暖かい気候でも体が浮き上がる程ふるえがきて、物すごい熱が出る。
概ね三日毎に症状が出るので三日熱ともいった。
アノフェレスという種の蚊が菌を媒介するのだという。
この蚊を防ぐためと、この蚊を食べるヤモリが天上や壁から落ちるのを防ぐために蚊帳を張るのである。
夜は涼しく、毛布一枚で充分である。
九月七日 月曜日 曇り
滅多にない曇りである。
こんな美しい豊潤な香りのする風、豊かな人情の地で、もっと暮らしてみたい気がする。
出動準備は殆ど終わり、残るは兵器の手入れ、点検のみである。
行く戦場はいずこぞ。
前歯に隙間があって話しにくかったので、今日は中国人の歯科医師に頼み、金歯を三本入れてもらった。
値段は三円であった。
その歯は今でも健在である。
九月七日から九月九日
お別れの味を街頭の屋台から椰子の葉っぱで包んだ焼きそばに求めた。
大変おいしい。
九月十日 木曜日 晴れ
大隊本部会報を伝える。
各隊命令受領者を集めて軍装、資材、梱包、輸送等、所要の指示を近藤副官に代わって伝達をする。
逐次各隊とも緊張の空気が伝わっていく。
広安連隊長が巡視に来る。
次期作戦場はニューギニア方面かソロモン諸島ということであった。
我が十六連隊がジャワ島攻略を任務として選ばれた理由は何であったのだろうか。
次のように述べられている。
欄印作戦の主目標は、油田の開発が最も進み、資源も豊富なジャワ島であった。
南方作戦の最終目標であるため、敵の抵抗も強いと予期して、攻略兵力は最強の部隊といわれた今村中将の率いる第十六軍を選んだとしている。
我々は完全にその期待に応える自負をもっていた。
その任務を達成して、この地を去って新しい国家目的に向かわんとしている。
九月十一日 金曜日 晴れ
出発準備万端整う。
各隊共、一斉に軍装検査を実施する。
第十七軍司令官、今村均中将来る。
十七時三十分より富士館において離別と激励の言葉あり、参列した准士官以上感動す。
続いて十九時より同館において招宴あり。
ジャワ最後の晩餐であった。
私は曹長であったが、本部書記ということで准士官待遇で席上に参加した。
九月十二日 土曜日 晴れ
午前十時より源大隊長の軍装検査が行われた。
私物の整理やら心の準備をする。
佐藤泉曹長と最後のバンドン市内に出て、中華料理店で夕食をして帰る。
佐藤曹長はガダルカナル島で戦死、私に囲碁を教えた神林村出身の同期で気持ちの良い人だった。
九月十三日 日曜日 晴れ
故郷は九月十日の鎮守様のお祭りも終わり、初秋であろう。
今日は日曜日であるが、もう日曜日もない。
既に先発隊はバタビアの港タンジョンブリヨクへ向かって出発しているのだ。
九月十五日 火曜日 晴れ
出発の前日となる。
通訳官の村松良平氏、面倒をみてくれたお婆さん、体調の悪い人、懐かしい人との別れでもある。
午前十時、全員集合。
出発に対する注意、心得等を伝達する。
宣戦布告後、広島から乗船出発したときよりも新たな緊迫感を覚えた。
今度こそは万死に一生も得ることは出来得ないであろう。
これも予想戦場への思いからである。
こんなとき思い出させたのは、オランダ軍の捕虜収容所に行った際のことである。
オランダ軍は、昭和十七年三月九日無条件降伏をした。
そしてこの収容所に多くの将兵を収容したが、そこで神戸の商船学校を出たという大変日本語の上手な海軍将校がいた。
階級は中尉だったらしいが、こんな話をした。
「私はあえて申し上げます。日本のことについては私もよく知っているつもりです。
あの日本の国力をもってアメリカ、イギリス等の国を相手にして戦いに勝てる見込みは絶対にないと断言します」と。
これは村松通訳官を通じ私が聞いた話である。
インテリらしい将校であった。
オランダ軍にはチャルダ総督がおり、軍全般の指揮にはポールテン司令官が居た。
日本軍部の判断に依れば、強力な軍事力による頑強な抵抗を予想したが、この総督と司令官との意見の違い等もあったやに聞いている。
過去の中国軍、或いはノモンハン事変の様相とは、戦闘の質そのものが違った。
思うに植民地という特殊性があり、しかも本国領土ではないところに違いがあったのではないかと思う。
それにしても、あのオランダ軍将校の言った言葉の意味が、先々の戦場で頷けるものがあった。
この日も卵問屋の家へ行き、親切にしてくれた娘さん、家族の方の心の中で最後の別れを言った。
何も知らない皆さんはいつものように笑顔で見送ってくれた。
愛に国境はないというが、我々日本人は長い間の鎖国民族であったこともあって、他民族との同化は容易なことではない。
言葉、宗教、風習、環境、文化等、あらゆるものを超越して一つの愛情を柱として結婚するということは至難なことであろう。
仮に彼の地で終戦になったとしたら、あそこで、あの娘さんと結婚までゆけたかどうかは分からない。
しかし日本人的同化し易い最も近い人たちであったかもしれない。
九月十六日 水曜日 晴れ
朝早く、何事もなくいつものように愛らしい娘が籠を頭に載せて鈴の音のような声をはりあげて「ランブータン」を売りに来た。
この「ランブータン」という声には一種独特の音律があって、音楽を聴くようであり、毎朝の楽しみの一つであった。
八時三十分、バンドン駅に向かって出発した。
乗車開始十一時、十九時三十分にバタビア・タンジョンブリオクに到着。
日没になり倉庫などにそれぞれ宿営する。
明日からは海路。
潮の香りはメラク上陸以来、半年ぶりである。
タンジョンブリオクを出帆
九月十七日 木曜日 晴れ
早朝より全ての兵器弾薬資材の積み込みを開始。
港には我々の乗船する輸送船大井川丸、他六艘がそれぞれ積荷を急いでいる。
九月十八日 金曜日 晴れ
本日中に積み込み完了の命令が下達された。
船内に相当な混雑あり。
暑さのため蒸される如し。
このバタビアともお別れとなる夜のとばりがおりる。
兵達は黙々と積荷作業を行う。
甲板上に張った天幕の夜は更けてゆく。
私の隣に眠る飯塚綿作軍曹の寝顔があどけない。
満州以来、私の最も信ずる後輩で、南蒲原郡鹿峠村出身である。
九月二十日 日曜日 晴れ
ジャワ島よさらば。出帆する。
戦場において対空射撃警戒配置の命令を下達する。
陸軍部隊を乗せた全くの非武装の輸送船である。
僅かに重機関銃が対空防衛力である。
他は護衛駆逐艦のみが頼りの綱である。
海上における陸軍は全くの無力である。
九月二十一日〜十月五日
輸送船中なり。
ジャワ進攻作戦輸送中といっても護衛艦も少なく、常に危険海域を航行している。
無事に目的地に到着出来るかどうか不安なり。
航海中イルカの大群と競争する様子が幾度か見られ、或いは猛毒の海蛇をみる。
南海は静かな海であるが、全く敵状は知らされていない。
一日一回は必ず全員舟艇移乗演習を行う。
演習以上に真剣味が加わる。
時たま敵潜水艦らしきもの、敵飛行機らしきものの情報が入る。
しかし兵達は覚悟を決めているから決して動揺はしない。
戦争という実体に経験がないからであろうか。
恐ろしい海蛇は今日も船端を伝わって急上昇したり急降下をしたり、頭と尻尾も分からないノッペリとした形だ。
静かに更けていく南海の空。
輝く星が神秘的である。
じっと眺めていると、大自然、宇宙の規模に比べてみれば点にもならないような地球で、人間同志が争い、殺し合う愚かさを感じ、なんとか仲良く出来ないものだろうかなどと宗教的な考えに浸る。
我々は現実のこととして殺し合う場所に向かっている。
誰かを憎み、誰かを殺すことによって国家の安全、家庭の平和を守ることが出来るのだろう。
人それぞれに思いを凝らしていることだろう。
船は白波を蹴って進む。
午後には必ずスコールがある。
午後三時になると全員がタオルを持って待機している。
水は極力節約で配給制である。
わたしの任務である陣中日誌も戦詳報も書く必要の無い平穏な船旅が続く。
公用行李は閉めたままである。
十月六日 火曜日 晴れ
バタビア出帆以来よくも無事に航海ができたもの。
当時既に制空権は失いかけていた。
夜が明けて見れば、右舷近くに赤肌の山が聳え立っている。
いよいよ目的地らしい。
八時頃港外に停泊した。
この山は富士山に似た姿をしており、火山らしく噴煙も見える。
海岸線には緑の樹木が美しく繁っている。
ニューブリテン島ラバウルであった。
港は天然の良港であり、我が海軍の各種戦艦が多数停泊していた。
早々に上陸、大隊長に随行して師団司令部に命令受領に趣く。
決定された上陸戦場はガダルカナル島であった。
「その状況は深刻なり、日米の決戦場である。国運を賭けての戦闘であり、依って攻略なかりせば一兵たりとも生還を期すべからず」との決着を込めたものであった。
ジャワでもそれらしい示唆は受けたが、ここで現実のものとなった。
船に戻りし頃、夜となる。
港には対空警戒のため灯はなし。
十月七日 水曜日 晴れ
ニューブリテン島ラバウル出港。
九日ブーゲンビル島エレベンタ着(海軍呼称ブイン)。
エレベンタの海岸椰子林の中で次期戦場への出港の待機する。
この間、島の奥深く入って鳥獣を捕らえたり、魚をとり、束の間の休養となった。
ここで不要不急の荷物は残すことにして行李班七名を残置要員とした。
この中に私の近所から応召されて来た横山○(言べんの忠で一文字)君を残した。