冥府

日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣

新発田歩兵第十六連隊は     斯くして結成され、斯くして消えた

仙台第二師団 新発田歩兵第十六連隊顛末記



まえがき

戦後六十有余年の歳月を経た今日、新発田歩兵第十六連隊について語り残されたる人は少なくなった。
消してはならない越佐の歴史である。
越佐健児の国を護る固い絆で結ばれた戦闘集団であった。

生存帰国者の多くは逝くなり、或いは老齢に伴い生気も薄れてくる。
加えて敗戦という傷心と時代の変化は過去に触れられなくなった。
私は、時代が最も激変の初期、昭和十一年に徴兵令第七条による志願兵として新発田歩兵第十六連隊に入隊をした。

入隊を待ち兼ねた如く、時代は動いた。
部隊は、臨時編成下令、渡満、満州事変後の満州における粛清任務であった。
私は、爾来一刻も連隊から離れず、昭和二十一年解隊まで在隊した。

現在は、九十二歳という年齢となり過去を振り返り、特に六千四百五十九名の戦傷病死者御霊のためにも連隊という戦闘集団として如何なる行動を取ったか記録を残しておきたく筆をとった。
但し、戦闘の詳細は別版として「生と死の極限に生きて」に既に記述をしてある。

従って本編は連隊としての終始を遺しておきたい為に綴ったものである。
従って新発田歩兵十六連隊の組織創立から解隊までの経緯を綴りたいと考え筆をとった。


時代背景

我が国は古代よりアジア大陸の東南に細長く伸びた位置を占めた島国である。
この国を日本と命名して神代と云われた古代からの歴史を積み重ね単一民族を誇りとして国体を維持して今日に至っている。
この間永い年月にわたり多種多様な浮沈動揺があった。

明治四十五年までは類例のない皇室体制のもとに武家政治によって鎖国政策を執り、多少の東洋文化は伝わったが異文化の導入もなく古代よりの神佛の伝導や民族固有の知識等によって歩みを続けてきた。
明治末期に至り他国よりの干渉や交流を迫られ、国際化の刺激が加わり、政治体制も大きく改変され急速に国家体制が刷新された。

反面国際化に伴って国家の主権にも拘わる種々の問題が提起されて、国際的な事変、戦争にまで及ぶ状態が発生し対応を迫られた。
従って明治維新ら伴って国内法は勿論、国際法の整備が迫られる状況となった。
同時に国民意識も大きく変化せざる得なくなった。
特に、外交の複雑化に伴ってその背後においで国家の経済、戦力が伴わなければ外交の対応が出来得ない実態が明らかになった。


新発田歩兵第十六連隊の創立

国家の運用が国際的に拡がりこれが背景に必要とする軍備は当然急がれた。
従って明治当初全国組織の中で新発田歩兵第十六連隊は仙台管轄のもとに組まれ創設され、明治十七年八月宮中において軍旗の親授が行われ急速に軍備も近代化となった。
当初我が国を取り巻く情勢は、長い海岸線が国家防衛の先端にあり、しかも既にS国の南進政策情勢等にも対応する必要に迫られておったという。

従って日本海域北方は瀬波海岸以北は岩石が多く、瀬波以南に防衛の前線を迫られ、新発田歩兵第十六連隊に防衛要件の駐屯地創設の要衝と定めたと聞いた。
爾来新発田連隊は仙台師団の管轄の下、戦闘単位の歩兵連隊が常置された。
従って、部隊の編成要員は、兵役義務らよって徴集される越佐健児であった。
自賛であるが過去の戦歴からして全国で最強の精鋭部隊との名声が高かった。

しかし、大隊長以上の幹部には九州方面の出身が組み合わされ、明治維新後の政策人事の流れ、人脈布陣であったように思われた。
しかし、不思議にも違和感もなく俗に云う「ウマ」が合った。

従って団結力は強大なものとなり戦力は増幅して部隊行動は見事にとれた。
斯くして編成された新発田歩兵第十六連隊は息つく間もなく数多くの戦線に向かった。
戦った戦闘のことについては別記刊行されてあるので、部隊として参加をした主戦場を主体として列記する。

明治時代にあっては国運をかけた、日清戦争、日露戦争、大正・昭和にはシベリア・台湾出兵、私が入隊した昭和十二年、臨時編成下令、同時に渡満、満州事変後の粛清に参加、その後支那事変に参加(北京・天津・太同・原平鎮・太原攻略)その後昭和十四年にはノモンハン事変、休戦協定後、昭和十五年十一月、新発田原駐地帰還、昭和十六年十二月大東亜戦勃発するや、宇品港出発、芝中出身の今村均司令の直轄部隊となって、爪哇(ジャワ)作戦に参加、次の作戦はガダルカナル島戦参加、(多くの戦傷病戦友を遺し)中国雲南作戦、バーモー作戦次いでビルマイラワジ河畔の会戦(英印軍第二十四師団・指揮官・マウトバッテン伯爵)

次いで急遽命令あり、ベトナムに転進、攻撃目標なし、但しマンダレー道路を進まず、シャン高原地帯を徒歩にて前進のこと、敵の攻撃を避ける手段らしい。
黙々とシャン高原地帯を歩いた。
ビルマに居られた民間人も一緒に歩いた。
まさに撤退の様相である。

途中シャム国を通過、ベトナムに転進ホンカンに到着、途中シャン高原を越えるのに同地の人たちから大変お世話になった。
昭和二十年八月十五日迄における新発田歩兵第十六連隊の戦傷病死者の累計は六千四百五十九名となった。
但し、ガダルカナル島戦撤退時における生死不明者・終戦時ホーチミン軍に合流した人々等が不明確である。

昭和二十年八月十五日待てども攻撃命令は出ず。
何かの命令を待っていたが、遂に晴天の霹靂の如き事態が起きた。
師団司令部より中継電話であった。

一方では炎天の陽日の中で故障したかと思われるようなラジオの放送が繰り返された。
天皇陛下の放送であった。
明確に全容が伝わらない。
最後のお言葉で「万斛(こく)の涙を呑んで」だけが明瞭に聞こえたが他の内容は不明確で、みんなまさか敗戦の宣言だとは考えなかった。


敗戦宣言

翌日師団司令部に確認したところ、やはり敗戦の宣言放送であることが判った。
これを聞いて全員はまさに茫然自失言葉も出ない。
救いようのない、人生を含め、国家の運命を断たれたら民族は、国家はどうなるのか、前途の凡てを断たれ、祖国を遠く離れて、その衝撃は言いようがなかった。

どうしてよいやらわからない。
強いて云うならば死刑の判決を受けたような衝撃にかられた。
みんな部屋の中をうろうろしている。
連隊長はどうされる、みんなどうする。

故郷は、親兄弟、姉妹は、自分はどうすればよいのか、考えても結論は出ない。
冥府に行った友は知らないのだ。
我々を拘束している前面の敵であった英軍は戦勝国として我々の生殺与奪の権利を握っているのだ。 一方において人間至るところ青山あり、みんなそんなことを考えて希望と諦めを考えているのでは。 こんな状況の時英軍は次のような指示を出した。

当然国際法に従って処理されるはずである。
我々は鬼畜米英と教わって敵愾心を持たせられてきた。
しかし英軍は騎士道を自負して対応してくれた。

例えば帯刀本分者には格別自国の功績のあったものを選び、我が軍の帯刀者に献刀式という処置によって対応された。
当を得た処置といえよう。
その他の軍備は国際法に従って一定の場所に集結をさせられた。
終戦直後は、仏軍が我が軍の拘束に当たったがサイゴン市で我が国の一般民間人から不当な扱いを受けているという報告があって、我が方としては見逃すわけにいかない。

仏軍であれば竹槍戦法で対応できるということで、この旨英軍当局に話したところ、英軍としては早速拘留の責任を英軍が交替拘留業務を引き受けてくれた。
翌日から英軍と管理を交替しこれが為に大変な厚遇を受け仮兵舎の構築や食糧の供給はじめ日常生活に不自由や不安はなかった。
拘留の八ヶ月間は、英軍の干渉もなく、静かに送られ、我々の戦後処理事務や体力の回復に努めることが出来た。

次に鬼畜米英の問題で米国軍のガダルカナル島における我が軍の撤退時においての壕の中に置き去りにしなければならなかった傷病者戦友のことについて戦後調査したところ彼等に対する対応は鬼畜どころか温情をもって処置してくだされたとのことであった。
米国特有の文化「フロンティアスピリット」文化の見事な対応処置をしてくれたことに驚いた。

あの壕の中で身動きも出来ない人たちみんな壕から救い出し陣地〜ハワイ〜米国まで養生医療を施して健康体に戻して下されたとのことです。
鬼ではなく佛であった。
私は人事係としてこれらの人々は「戦死確認」という軍事手続きによって四(三?)ヵ年は戸籍を抹消しない処置としておいた。

さて、昭和二十一年五月二日愈々祖国帰還の命令が出された。
その前に私がやらねばならないことがあった。
ベトナムが佛国の植民地から離れて独立する為のホーチミン軍が、我が軍の兵を引き入れて強化したいとの誘いで訪れていた。
将来の見えない我が国の実態から離れて、将来のベトナムを目指そうとする若い兵士が相当離隊して、「ホンカン」北方の「クラチェ」に集結している。
愈々祖国帰還が決まった現在彼等に教えて戻さなければと考え、兵二名を連れて彼の地へ趣いた。

そこには私と同郷出身の本間民四郎君も居たのだが遂に帰らなかった。
これらの人々数人は戻ったが多くは帰らなかった。
残念ながら後遺症のように残ってしまった。

愈々乗船米船がカムラン湾に接岸したがどこからか戦犯探しの人達も顔実験にきていた。
我が連隊には該当者はなかった。
カムラン湾を出帆し祖国に向かう、夢でも見ているようで実感が涌かない、生と死のはざまを彷徨っている感じである。

出帆してフィリピン沖あたりに来たとき、船の帆柱の上から流暢な江差追分が流れて来た。
みんな祖国に想いが募ったことであろう、工兵隊の誰かが尺八を吹いたらしい見事な久しぶりに頭の洗濯ができた。
殺伐な戦場に心を痛めていた兵員の夢を掘り起こし、帰れなかった冥府の友への惜別の奏でもあった。

故国の港に到着

六ヶ年ぶりの故国である。
昭和二十一年五月二日サンシャック出帆、十一日大阪港入港である。
検疫を受けて埠頭に並んだ。
勿論誰も迎えには来ない。

「国敗れて、山河あり」これから先のことはわからない。
戦争に敗れた沈滞した意識のみが浮かぶ。
ところが、進駐軍が我々の面前に断っていきなり日本語で「この部隊のオフィスは誰か」と叫んだ。 僕ですというと、「あなたの持っている私物以外の書類を前に並べなさい」と命令口調で云われた。 突然ことで貴重なものであり渡すことを強硬に拒んだ。

すると彼等は日本の敗戦の結果であると云って譲らない。
公用行李(鉄製)のものであり五個並べたらいきなり全部封印をした。
将校の考課表、戦闘詳報、陣中日誌、功績書類、全員の名簿(認識票との照合用)その他重要な人事書類である。

しかしいずれは帰すものと考えたが、六十年余を経ても未だ返さない。
このときほど敗戦の惨めさを感じたことはない。
米国との交渉は未だ続けている。

この書類が手中を離れて悔いが残るのみでなく隊員および隊の重要問題の処理に支障を来たしてきた。 しかしいつかは奪還しなければならない。


新発田歩兵第十六連隊の解隊
     並びに隊員の解職

連隊は全員の上陸後所定の検疫、手続きが終わると埠頭の広場に整列した。
連隊長も兵員も全員が既に階級章をはずしている。
堺連隊長は隊列中央に立って、感情を押し殺し万感を胸に籠めてしばし言葉がでない。
ようやく例の甲高い声で、吐き出すようにおっしゃった。
目の奥には涙がにじんで居られた。

「本日をもって(昭和二十一年五月十三日)歩兵第十六連隊は復員完結、部隊は解散する。隊員は全員解職解散する。」と宣言された。

他の言葉はなく儀式的なことに簡潔に終わった。
しかし、温情ある堺連隊長のこと、万感胸に迫るものがありながら言葉に出ないものがあったに違いない。
全員が涙の出る別れ、お互いに胸中をよぎり名伏しがたい想いを胸に秘めての別れであった。

敗戦という苦しい悲しい終末であるだけにお互い心中堪え難い破局の別れであった。
隊員の多くは郷里を同じくしているので同じ方向の列車に乗るが、堺連隊長は九州であり別方向に行かれる。
ここにも二重の悲しみがあり目に涙が光っておられた。

徐々に感じが増幅する敗戦の悲しさ、悔しさ、空しさ人生三十歳代の出来事であった。
しかし、如何に敗戦という国家的な不慮不測の出来事と云っても、今後に生きる国民として戦勝国による占領政策という人権を超えた束縛には堪えられないであろう。
なんとしても礎かれた国家の尊厳は勿論、伝統、文化を消し去ることはしのびない。

昭和三十四年或る戦友の集いでこんな想いが募ってせめて生き残った我々に何かやらねばならぬことがあるのではという意見のもと結成されたのが新発田歩兵第十六連隊戦友会の発足であった。
当初は千二百名の隊員が居ったが、各地に分散して越佐に集った数は八百三十七名であった。
勿論法人団体ではなく任意団体である。

しかしこの会の結束は生死を共にと誓った盟友であり、軍隊当時と同様な絆に結ばれた。
慰霊行事は勿論、旧戦場の御遺骨収集、外地を含めて旧戦場の慰霊碑の建立や現地住民との交流等一般住民の御協力もいただき参加を求めた。
ところで平成二十年戦後六十年余の歳月はお互いに老齢や体力の衰退で戦友会の活動にも支障を来す様相となり多くの業績を残したが解散のやむなきに至った。
しかし時折は有志で声を掛け合うことを約束して解散となった。




新発田歩兵第十六連隊軍旗の行方

最後に明治十七年八月二十四日、宮中において親授された歩兵第十六連隊の軍旗のことについて述べておきたい。
明治以来隊員の絆の中心として、或いは連隊の表徴として護られてきた軍旗も基本的には昭和二十一年八月三十日までに焼却(奉焼)されたことの軍命であったが、次のように護られて現存している。

昭和二十年八月二十三日二回にわたり佛印ホンカンに於いて師団を通じて「全軍の軍旗は八月三十日までに焼却せよ、その結果を報告せよ」との命令が下達された。
境連隊長はその命令に基づいて早速軍旗を捧持する旗手と護衛兵並びに若干の幹部と共に郊外に出て焼却された。
但し一部を分割「石突」は連隊長自ら手にして他は幹部に渡し、故国に帰って指示することにして焼却式を終了した。

その遺品は私が会長になってから集めてS社にお願いして原形に近い形で復元をした。
この軍旗は、現在新潟護国神社にお願いして永久保存と展示をしてある。

越佐健児を主体とした新潟県の史跡でもあり、神社にお出かけの際はお目にとどめて戴きますようお願い申し上げます。
以上が、第二師団歩兵第十六連隊の顛末記であります。

いずれかの日、新潟県民皆様がこの顛末を知っていただき時代を回顧していただきたくお願いを申し上げて擱筆いたします。

 
新発田歩兵第十六連隊 本部 最後の人事係
         長谷川 榮作 記




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