日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣
生と死の極限に生きて
原駐地新発田に帰還
部隊とともに原駐地新発田に帰還する。
『昭和十五年十月十八日内地帰還のため駐屯地牡丹江省穆稜站出発同月十九日挑戦国境通過同月二十日羅津港出帆同月二十六日大阪港上陸、同月二十八日衛戍地新発田着』
約四年ぶりで懐かしい故郷に帰った。
同じ聖籠村出身の田辺良策准尉と一緒に故郷へ帰った。
みんな温かく迎えてくれた。
四ヵ年の歳月で両親の白髪と皺がめっきり多くなったのには驚いた。
聖籠村では眞野集落の加藤繁雄君が支那事変で、大夫興野の横山悟君はノモンハン事変で戦死し、再び故郷の土を踏むことがなかった。
何もかも壮大な大陸の自然からみると故郷の山河等すべてが小さいように見えた。
大阪から列車で新発田駅に着いたその日は冷雨が降っており、営庭の松の木が震えながら迎えてくれたようで、今もあの光景は忘れない。
しかし、それは昭和十六年十二月三日まで約一ヵ年の束の間の原隊生活であった。
原隊における訓練は明らかに違っていた。
仮想敵国が違っている。
我々にはその意図は全然分からない。
国際情勢も教えられていない。
訓練は、宮城県石巻海岸に行って舟艇乗船、あるいは上陸であり、新発田城の城壁に縄梯子をかけて昇降する等、全く異質の訓練、演習である。
我が大隊の週間訓練予定表を組むのだが、連隊本部より示される訓練予定の大綱はどこの国を目標にしているのか皆目見当がつかないものであった。
国内でも戦時色が濃くなり、石巻演習の帰りの列車に乗るときホームいっぱいに、セーラー服を着た学生だから中学生であろうか、女子学生が見送りに来てくれた。
美しい学生さんから人形も頂いた。
このようにして新発田の町中でも軍人さんと言って大切に接してくれる。
こんな雰囲気が若者の純真な感情を刺激して、愛国心を燃え立たせていた。
確かに近い将来、何かがあることし感じていたが、僅か一年以内に日本の存亡をかけた太平洋戦争に発展しようとは思わなかった。
こうした状況の中で、十六連隊と既に編成された中支戦線に戦っている百十六連隊の補充兵の大量召集が行われた。
聖籠村からも多くの人が招集され、近所の横山○(言べんに忠で一文字)君が私の本部行李班要員として入隊した。
砂山石蔵、遠藤謙蔵、羽賀長一君のような年輩者も招集されて、それぞれ他部隊要員として出発した。
習志野進駐
次いで十六連隊に、次の命令が下達された。
『昭和十六年十月九日臨時編成下令、十月十三日編成完結、十二月三日移駐のため新発田出発、同月四日習志野着、昭和十六年十二月八日対米英宣戦布告(大東亜戦争)同日大東亜戦争勤務に従事』
以上は戦時名簿の記載事項であって、一挙にこれらの事項が事前に発表されたわけではない。
昭和十六年十二月三日の習志野(千葉県)移駐は、既に臨時編成下令によって人事編成、準備完結を持って移駐命令が下令されたものである。
特に今時の出発は隠密裏のうちに行動したのである。前日に新発田駅からの乗車区分(貸切列車であった)が示され夕刻各隊に伝達された。
家族との面会は勿論、事前の連絡も許されない。
私の部下で近所から召集された横山○(言べんに忠で一文字)君には一歳の幼子がいた。
私は横山君が新発田町西ヶ輪の提灯屋さんの親戚であることを知っていたから、そこに呼び、出発のとき密かに駅前で会わせる手順をとってやった。
おおぜいの部下の中にはまだ家族に会わせてやりたい人達もあったが私にはそれが精一杯のことであった。
横山君は幸いに生還をした。
今でも私のお陰だと言って野菜や果物を持って来てくださる。
また横山君は我々がフィリピン移駐中、ガダルカナル島の連隊戦死者二千七百名の遺骨送還者として命を受けた私に代わって内地送還の任務に当たってもらった。
ガダルカナル島を撤退後、生還をしたといっても殆どの兵が入院したのである。
連隊で責任者として事務にあったのは私一人であったからである。
フィリピンに南方総司令官の寺内閣下が巡視された際、堺連隊長が私のいる前でそのことを閣下にお話されたところ、寺内閣下は私を内地へ還してやりなさいと言われた。
感謝の限りであった。
しかし私は断った。
あのことは忘れられない光景であった。
ガダルカナル島の遺骨は撤退に際し、一体も収集出来る状況ではなかった。
ラバウルに転進後、そこで塔婆をつくり各人の名前を書いて読経し、供養をしてその灰を遺骨代わりに送還をしたのである。
当時はこれが精一杯の措置であった。
お許しを迄いたい。
話が先のことになったが、習志野ではこれといった訓練演習も無く、各部隊毎に宮城遥拝のための上京を許した。
私は初めての東京であった。
私だけでなく大方の戦友がそうであったようだ。
大震災は私が六歳のときであったが随分と復興をしており、以前の東京は分からなかったが、大きい都市であることには驚いた。
「捧げ銃」の礼式でお別れの遥拝であった。
当時、私は二十三歳、支那事変、ノモンハンを経て次なる戦場があのように過酷悲惨で敗退する戦争になろうとは夢にも思わなかった。
習志野の仮兵舎で宣戦布告とハワイ攻撃の放送を聞いたとき、米英軍とどこにどのような戦闘になるかも全然分からない。
勿論開戦の理由も分からない。
戦勝気分で習志野に待機をしていた。
滅多に面会人などこないのに珍しく遅々が横山○(言べんに忠で一文字)君の父と一緒に来た。
どこにも出たことのない二人がよく千葉の習志野まで来られたものだと驚いたり感心したり。
容易なことでなかった筈である。
寡黙な父であったが、このときばかりは嬉しそうであった。
戦場でもあのときの父親の顔が思い出された。
用件の一つは、慰問袋で結ばれた村上市の娘さんとの結婚のことで、承知をしたということであった。
実は、満州から帰還したとき、娘さんは実家のある村上市から新発田まで迎えに来られたので、私は同家にお邪魔をして一泊した。
その際、前にも書いたが娘さんの父親から、「不束な娘だが良かったら」とお許しをいただいたところであったが、家に帰って話をしたところ、あまりに良い家庭なので、といって親達は確答しなかった。
私としても既に出動が決まって生還出来るかどうかわからないことでもあるし、日時もなく手紙で懇にお断り申し上げておいたのだが、親としては結婚を許してやることが出陣するに際し、せめてもの励ましになるとの精一杯の子供への思いやりであったのであろう。
折角遠い所まで来てのことであり、分かったという程度にしておいた。
後年村上市のご本人と親御様には軽々なことをしたと申し訳なく考えていたが、お訪ねする勇気もなかった。
二十歳代、ただ一回の恋愛であったが手も握らない恋であった。
戦争という現実に消え失せた青春の一齣と言うべきか。
しかし、このことは生死の戦場では心の灯となって燃え続けて生きていた。
戦後、娘さんは幸せな結婚をし、子供さんも大学に進学して立派に成長していると聞いて安心した。