日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣
生と死の極限に生きて
ノモンハン事変出動
当時の宮崎繁三郎連隊長
昭和十四年七月十六日、応急派兵下令、八月二十七日ノモンハン事変参加のため穆稜站出発』
八月二十七日、この日北満は初秋であったが、暑い日差しが営庭を照らしていた。
応急派兵とは戦線に出動することである。
若干の留守要員を残して完全軍装で営庭に整列した。
連隊長、宮崎繁三郎は整列中央に駒を進め、馬上から次のような命令を口頭で自ら下達された。
これは珍しいことである。
通常は各中隊単位の命令受領者を集め、重要な命令は各中隊長を集め下達する。
「只今より命令を下達する。連隊はこれより暴虐ソ連を膺懲のためホロンバイルの草原に出撃する、前進。」
命令はこれだけである。
連隊長としては既にノモンハン事変の現況は具に掌握されておられたことと思う。
というのは、宮崎大佐は後の大東亜戦争においてビルマ・インパール作戦において第五十四師団長のあと、烈兵団(第三十一師団)歩兵団長としてビルマ攻略戦に武勲をたて、ついで烈兵団の撤退に際しては、僅か五百名の手兵を率いて後衛となり、孤軍奮闘の任務を達成した勇将である。
また高田連隊では蒋介石と同期生であったという。
このように将来を嘱望された宮崎連隊長のことであり、当然本事変の本質を知っておられたことと思う。
そもそもノモンハン事変とは何が原因でどうなったのであろうか。
不毛の草原を舞台に一万八千余名の犠牲者を出したのである。
我々がノモンハンの悲劇で学ぶものは何か。
我が連隊にあっても第二大隊が全滅をしている。
これら戦友の名誉のためにも明らかな確証を得たいと思う。
その全容を書いたら膨大な紙面を要する。
この点はほかに刊行書が出ているので概要にとどめる。
ノモンハン事変、それは戦術とか装備とか、また指導の巧稚ではなく、関東軍の考え方そのものによる。
事の発端からボタンを掛け違えていたところに問題がある。
即ち、島国日本人は陸地における国境というものについて正しい認識を欠いて、そしてそこに気付かないまま泥沼のような戦場に多くの将兵を送り込んで凄惨な近代戦が行われた。
日本側はノモンハン事変と言っているが、モンゴル人民共和国の呼稱ではハルハ河戦争という。
しかし出陣にあたっては何のために、の説明がない。
我々は命ぜられたところ黙々と行動をするだけだ。
仮に説明されても自分の判断で自分の行動を左右する裁量の余地は与えられていない。
この日、営門を出た約七百名は再び、この営内には帰らなかった。
ホロンバイルの草原で三百台の敵戦車に踏みにじられ、赤い血で草原を染めて消え去ったのである。
我が十六連隊がノモンハンに出動を命ぜられたのは事変が末期的な状況になったため、急遽の出動であった。
従って、すべてが息つく間もない急々の行動である。
ノモンハン事変は短い期間の戦闘であった。
僅か一ヶ月足らずで一大隊が全滅し敗退したその意義は何であったのだろうか。
『八月三十日興安北省境通過、同月同日ハロンアルシアン着、九月七日より同月九日迄ドロト湖西南方地区の戦闘に参加、十月四日原駐地帰還のため興北省境通過、十月七日原駐屯地牡丹江省穆稜站着』
国境最北の駅ハロンアルシアン駅は軍部の資器材でごった返しになっていた。
下車するや否や荻洲立兵軍司令官命令で「一人でも二人でもよいから全速でノモンハン・ハルハ河畔戦場に到着せよ」という厳命である。
ノモンハンへ急行軍の休憩光景
七日到着、同時出発の強行軍である。
夜通し二晩、一睡もしない。
休憩をとって出発の声をかけると夢遊病者のようにフラフラし、とんでもない方向に歩き出す。
ハンダカヤに到着すると分隊員の半数は未だ着いていない。
二日目の夜半になってようやく全員を掌握できた。
私の分隊に島倉辰二、一等兵がいた。
彼は射撃をやっても剣術をやっても、鉄棒はぶら下がりっぱなし、何をやっても人並みの訓練が上達をしなかったが、この緊急な行軍には終始分隊の先頭に立って歩いた。
どんなに技術や頭脳が優れていても命ぜられた時間に、戦場に到着をしなければ戦力にはならない。
彼の行動は大きな教訓となって、それからの兵の管理に役立たせることができた。
一望千里、まさに緑の地平線、ホロンバイルの草原である。
十六連隊がノモンハンの戦線に到着したときは既に先着部隊はハルハ河において死闘を繰返していた。
我が青葉兵団(十六連隊の防諜名)の任務は先ずソ連軍をハルハ河以北に阻止することにあった。
穆稜站は残暑で暖かい陽が照っていたが、ここは北緯五〇度だから一〇度の緯度差があり、既に初冬に近い気候になっている。
到着後最初の攻撃目標は九九七高地である。
ノモンハン ハンダガヤ
夜間攻撃のため日暮れを待って接近し、一挙に突撃する計画である。
その直前、軍司令官からのものだとする魚のみりん漬けと焼酎という今までに経験のないご馳走が渡された。そして午後九時頃、突撃の前進をした。
何しろお酒を飲んでいるので呼吸が荒く静粛行進にならない。
頂上に達したが幸い敵は早々に退散していて白兵戦には至らなかった。
私は翌日、次の命令をうけた。
「第一中隊第一分隊長、長谷川栄作は兵三名と共にハルハ河の橋を爆破すべし」
早速準備を整えて出発しようとするころに、第四分隊長で私の同期である佐渡郡岩首村豊岡出身の中村諦一郎軍曹が、「長谷川、お前は退院後で体力的に無理だから、俺が代わって行く」と言ってきた。
命令を受けたのは俺なんだから、途中どうなろうとも行かねばならない。
そんな押し問答の末、中隊長の決裁で中村軍曹が交代することになった。
幸いにも出発直前に敵の戦車が既にハルハ河を渡り前進中との斥候からの報があって爆破行は中止となった。
決して手柄争いではなく、あくまでも中村軍曹の戦友を庇ってのことであった。
それにしても死ぬかもしれない危険な作業隊である。
俺が代わって行くと言ったあの中村軍曹の友情は、入隊以来起居苦楽を共にしてきた生活の中から育ったものである。
このとき私は、いつかの戦場で中村軍曹に恩を償って返さねばならないと決心をした。
その後、大東亜戦争、そしてジャワ作戦を経て共にガダルカナル島作戦に参加、ヘンダーソン飛行場奪回も空しく敗退、沖川の線に撤退したとき、私と中村諦一郎曹長、中村勤軍曹、飯塚軍曹の四人が久しぶりに陣地の安らぎを覚えるような静かな陽のあたる樹間に座って、食べ物、冷たい水等のことを楽しく話をしていると、突然敵の迫撃砲が射ち込まれ、中村諦一郎君は即死、飯塚綿作、中村勤の両君は負傷、なぜか私だけ無傷で助かった。
これも運命の定めか。
残念なことに命をかけて決死隊を代わってくれた中村君には何の恩返しもしないでしまった。
機会を失ったことを悔やんでも中村君は帰ってこない。
このことは生涯私の脳裏から消え去らない貴重な財産であり、尊い想い出である。
私の身代わりを主張した中村諦一郎君
中村君のことをさらに述べたい。
平成六年八月三十日、現在の住所は佐渡郡両津市豊岡と変わっている諦一郎君の墓前を私は訪れた。
幸いに良い弟さんに恵まれていたことが何よりと安心した。
兄弟は他人の始まりというが、諦一郎君は諦二郎さんという兄思いの弟さんご夫妻がおられた。
しかも諦二郎氏は両津市の市役所職員を一昨年定年退職されると、どうしても兄が戦死したガダルカナル島に慰霊巡拝をしたいと、行ってこられた。
私は同行できなかったが、いろいろアドバイスを申し上げた。
私はお墓をお参りした際、私が死んだ場合、分骨を是非、諦一郎君の墓にも入れて貰いたいとお願いをしたところ、諦二郎さんの心よりの御理解を賜ってきた。
このことは遺言として認(したた)めておきたいと思う。
ことある度に美しい友情を思い出すとき、今生の苦しみも、死に対する考え方にも何の拘りがなくなる。
我がいのちいつ果てるも悔いはなし
戦さに逝えし友を想えば
七十七歳辞世の覚り
そしてその後九九七高地を占領、我が第一分隊は同高地に布陣を命ぜられた。
陣地構築には、表面は草が生えて土のように見えるが中は板状の岩が重なり合ってスコップだけではなく十字鋤を使って掘らなければならないような土質だった。
九月九日のこと、故郷の鎮守様の宵宮の晩だろうなあと思って壕の中に入っていた。
寒さが身に沁みる夜半のことである。
歩哨が壕の中の様子がおかしいと報告に来たので早速調べてみると分隊全員が眠りこけ、おかしい臭いが鼻をついた。
予め配った木炭の中毒であった。
壕の上には携帯天幕を張って、壕の中で墨を焚いたためのガス中毒であった。
分隊員全員を壕外に出して服を開いて、草原に降り積もった雪を胸の上において手当てをした。
佐渡郡八幡村出身の後藤俊策は苦しみながら「お母さん」と呼びつづけた。
後年になって思い出話になると恥ずかしがっていた。
終戦後、私は佐渡の後藤氏を訪ね、お母さんにお会いもしたが、助けを求めるにふさわしい立派なお母さんであった。
氏が八幡村の助役当時のことである。
後藤氏は五十三歳で早逝された。
その翌日は寒い日和であった。
ハルハ河方向からソ連軍の戦車が続々と前進して来るのが見える。その数三百輌ともいわれ眼下に布陣していた第二大隊に襲いかかった。
我が方には防戦する機械化部隊も何もない。
歩兵部隊が展開しているだけである。
九月十日は、轟音と号砲に包まれた草原の地獄絵である。
こんなことが、こんな無策な戦術があってよいものか。
終日の猛攻によって日が暮れて残るのものは静けさだけ。
目口をあけられない敵戦車の猛攻に対し、次から次へと包囲攻撃を繰返す装甲の厚い敵戦車に対し、我が軍の三八式歩兵銃、九七式機関銃、数少ない大隊砲だけでは何も出来なかったであろう。
第二大隊の布陣地は、私達の分隊陣地から一キロ位離れていた平坦地帯であり、九九七高地の眼下にあった。
対戦車砲も飛行機も対戦する戦車も何もない。
昼日中、敵の思いのままの戦いを眼下にしながらどうにもならない。
手の施しようのない魔の一日であった。
我が陣地にも時折、地面すれすれの低空でミグ戦闘機が飛んで来たり、砲弾が射ち込まれるだけだが、第二大隊の攻防を見ていると自分達が攻撃されているようで痛々しい。
夕方から日暮れに残った静けさは全く死の静けさである。
おそらく第二大隊陣地は戦友の屍で埋もれていることだろう。
結果は全滅であった。
こんな無謀な戦闘があってよいものか。
敵は第一陣を突破すれば必ず第二陣である我々の陣地にも殺到するものと考えていた。
あれだけの飛行機が偵察をして、砲弾も射ち込まれている。
我々の陣地は手にとるように分かっている筈である。
しかし、敵は深追いをしないままハルハ河対岸に撤退をした。
その頃、関東軍は既に戦車、航空兵力は無く、従って制空権も地上火砲力もなくなっていたという。
どうしてそれが分かっていながら無謀な作戦行動をとったのか。
こまことについては『元満州国外交官の証言・ノモンハン』(北川四郎著)に詳しく書いてある。
ノモンハン997高地
右から二人目が宮崎繁三郎連隊長
九月十六日午前二時、日ソは停戦合意した。
従って敵戦車の撤退をした頃はノモンハン紛争発生地域の「満蒙国境確定混合委員会」において交渉体制が発足、既に指令が出ていたらしかった。
停戦に伴って九月二十七日、満州里と向かいあっているソ連・マッフスカヤに於いて、藤本少将を団長とする捕虜交換を行うことになった。
最初は源少佐も行かれる予定であったが背丈が低いということで第二大隊の小野口少佐が加わった筈である。
連隊で三名の捕虜該当者があったが、原隊には戻らなかった。
その後我々に知らされることはなかった。
ノモンハン捕虜交換 其の一
平成四年二月二十三日、ノモンハン事変より五十四年後のことになる。
ソ連崩壊後初めて東京のホテルで開催された「ノモンハン・ハルハ河戦争シンポジウム」で、ソ連の戦史研究所のワタルノフ部長(大佐)によって同戦争の捕虜の様子が明らかにされた。
それによると、十六連隊関係では「ワタナベ兵長」という捕虜名簿が発表されたが、名前までは触れていない。
当時本人の実名は登録されてなく、全部偽名であったことは聞いていた。
捕虜については当時武人のもっとも恥ずべきものと教育され、本人の意向もあり他部隊に転属されたものと思う。
限られた一ヵ所の陣地で、しかみ短時日で六百名に近い戦死者と行方不明者多数という大敗北となった。
ノモンハン捕虜交換 其の二
この戦いに於いては少年航空兵出身の優秀なパイロットが殆ど壊滅的な打撃を蒙った。
少年航空兵出身の私の従兄弟もこの戦いで戦死した。
私はこの事変直後、第一大隊本部付となった。
第一大隊は、源紫郎少佐の指揮下である。
第一、第二、第三中隊、第一機関銃中隊、第一大隊砲をもって編成されている。
本部要員の渡辺春松氏が准尉に進級されて一般中隊付となったことによる移動である。
その後任には乙書記である今井重松曹長が甲書記に昇格、私が乙書記となった。
転出された渡辺准尉は温厚で大隊長に大変信任厚く、手離したくなかったとおっしゃっていた。
私も中隊当時渡辺准尉にはかわいがって貰った。
前歯に金の入れ歯があり、足は偏平足であった。
残念ながらガダルカナル島戦で戦死された。
原駐屯地帰還後、歩兵部隊にパイロットの補充要員を求めてきた。
私も航空兵として適切な素質があると奨められたが、源大隊長が許さなかった。
人の運命は分からない。
もしも航空隊に転向していたら恐らく生存することは不可能であったと思う。
ノモンハン事変は命令といいながら、このような惨敗をし、多くの戦死者を出した宮崎連隊長の胸中がどんなものであったか察せられるものがある。
後年ビルマのコヒマ攻略後の撤退作戦で見事な援護部隊を指揮されたとき、絶対に将兵を無駄死をさせてはならないと誓って名将の名で讃えられたが、脳裏には既にこの作戦があったことと思う。
終戦後十六連隊原駐地、新発田市のしまや料亭で御一緒したとき、それなのことに言及されていた。
ノモンハン片山兵団占領の誌石
さらばホロンバイル草原
厳冬を迎えるホロンバイル(モンゴル語では平和という意味だそうである)の草原を後にしたのは昭和十四年九月十四日である。
『九月七日より同九日迄「ドロト」湖西南方地区の戦闘に参加、十四日原駐地帰還のため興安北省通過、十月七日原駐地牡丹江穆稜站着、十一月二十三日第一大隊本部付、昭和十三年六月十一日より昭和十四年三月三十一日迄歩兵第十六連隊に於いて第一満州事変外国擾乱(じょうらん)地勤務に服し加算一年八月、昭和十四年四月一日より同年八月二十九日迄歩兵第十六連隊に於いて穆稜外国擾乱地勤務外国鎮戍に服務し加算八月、昭和十四年八月三十日より同年九月十六日迄歩兵第十六連隊に於いて「ノモンハン」事変に勤務し加算六月』
穆稜時代の内田孝行連隊長
このように当時の軍務年限は「内地勤務」「外国擾乱地勤務」「戦地勤務」というように危険度や環境等を基礎にした勤務区分に分かれていた。
従ってこの場合一年三月の実務に対し二年十月の加算がなされたことになる。
この加算年月が将来の恩給受給計算の基礎となった。
ちなみに私の実役年数が九年五ヶ月に対し、加算年数を加えると二十八年八ヶ月になる。
いうならば実年令三十歳とすれば加算年月を加えると五十八歳に達した体力(寿命)、年令になっているということである。
当時、内閣恩給局の統計によれば事実恩給者の生存率は加算年のある者より低かったそうである。
勿論戦後これらの制度は何にもならなかった。
ノモンハン事変から帰還した穆稜站は変わりなく平和な街であった。
あの事変が夢のようであった。
まさに九死に一生得た感じである。渡満以来二度にわたる戦闘を経験し、病気で生死の間を往復し、負傷の弾片を体内に残し、下士官として大隊本部付となった。
戦友も戦死・負傷・病気等で随分と少なくなってきた。
帰還後は補充兵を迎え、初年兵の現役兵も入隊、部隊の再建訓練を行って次期作戦に備えた。
昭和十五年十月、突如内地帰還命令が下った。
当時中支並びに南支方面の戦線はますます拡大をしている状況の中で、主力は帰還、一部は中支の郷土部隊(鏡部隊)で新発田十六連隊留守隊により召集編成をした百十六連隊に転属をする者に分けられた。
いずれも運命の分かれ道である。
中には召集解除者もいた。
私は既に職業軍人として軍籍に身をおいた立場にあり、満州定住を志したことは捨てなければならなかった。