冥府

日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣

生と死の極限に生きて




日中戦争参加




病気に病気、またも病気。湿性肋膜炎は不治の病気である。
この病気で石井上等兵も死んだ。
そて多くの戦友が内地へ送還された。
若い体を翻弄する。
また生涯にわたって後遺症を背負うことになる。
よくぞ生きられたもの。
どうせ死ぬならば戦争で死ぬことだ。
病気では死にたくない。


『昭和十二年八月十八日應急派兵下令、九月二十五日支那事変参加のため駐屯地一面坡出発同二十八日満支国境(山海関)通過十六日より内長城線付近の会戦に参加中源平鎮付近に於いて戦闘の際右臀部手榴弾破片創を受け原平鎮関東軍第二衛生班に入班、十月十六日張家口野戦病院事故退院同十七日所属部隊復帰同月十八日より十一月二十一日まで太原会戦に参加』
(以上戦時名簿記載事項。事故退院とは全治しないで退院すること)


赤痢で猛烈な下痢に悩まされているとき既に本隊は山西省の前線で戦っていた。
一刻も早い退院と本隊への追及を急ぎたい。
第二中隊長菅原大尉も赤痢で入院しておられたが私は若いだけ治りが早かったので先に退院することが出来た。
菅原大尉は、ゆっくり静養をして行ったらよい、と言ってくだされた。
大尉も淋しかったのであろうが、私の気持ちはそれどころではなく急がれた。
連隊はそれぞれ各所にわかれ分屯していたが、本隊が北支に出動後は留守要員を全部集めて江坂中佐が指揮をして穆稜站に移駐した。

退院後は、ハルピンから穆稜站の江坂中佐の指揮下に入った。
幾度となく戦場への追及を江坂中佐にお願いをするのだが、「お前は下士官候補者として仙台の陸軍教導学校に入校しなければならない」という一点張りである。
第二中隊の新津出身の同期である志田清君も退院をして同じ立場であるが、志田君は指示どおり先代の教導学校入校のために内地に帰った。
実は、その頃の私は、赤痢は治ったが湿性肋膜炎を羅病していた。
自覚症状がはっきりと感じられる。

あれだけ大勢の戦友が肋膜炎のため後送内地送還されている。
どうせ死ぬなら病死はしたくない。
戦場で堂々と死にたい。
そのために病気のことは隠して前線参加することを考えていた。
従って仙台教導学校は辞退した。
時期は到来した。

召集兵が内地から穆稜站に到着した。
引率者は豊栄市尾山の宮川関次郎准尉であった。
ここで江坂中佐も私の熱意に許可をしてくれた。
病状は午後になると発熱があり、胸の鈍痛からしても湿性肋膜炎の症状である。
そんな体調でも健常者と行動を共にして戦線に到着することが出来た。
万里の長城を越えて原平鎮を目標に進んだ。

張作霖の出身地であり激戦が予想された。
原平鎮は、四周を高い土塀に囲まれた街であった。
この土塀の前面は畠で高粱(コーリャン)が栽培されており、その高粱は折り曲げて輪状に結ばれていた。
城壁に等しい市街に向かって突撃をしたが、その高粱に引っかかって倒れる。
そこを土塀上から狙撃される。
第一中隊長三田清四郎大尉は十月六日早朝、ここで負傷された。



大同野戦病院 原平鎮で負傷した三田中隊長(半起きの人)。
後年新潟県知事になった君健男軍医もここに従軍した。


昭和十二年十月六日朝八時、後方位置より三分間の援護射撃の計画があり、それに先立って私と飯田耕造君(佐渡出身)が内城の偵察を命ぜられ潜行した。
飯田君は佐渡中学を出た頭脳明晰な青年で、どうしたことか私とどこか通ずるところがあった。
行軍中の疲れているときでも、歩きながら面倒くさそうな話題をもちかけて口論をする男であった。
その後、大東亜戦争になり私がジャワ島のバンドン市に転進したときも度々訪ねてくれた。
彼は私達と別れてから憲兵に転属していた。
彼らしい進路を選んだものだ。
私にも「歩兵部隊にいたら命が幾つあっても足りないよ、憲兵隊に転属しろよ」と説得をしてくれた。
しかし事態はそう簡単にゆかない。
信頼と尊敬に結ばれている源大隊長、それに誓い、助け合った兄弟以上の戦友。
しかも連隊は間もなく重大任務を命ぜられんとしている。
断った。

復員後、彼は多少戦犯らしい取調べを受けたが釈放され、新潟駅前ビルの一室で興信所を経営しており、現在も交流している。
その飯田君と原平鎮の土塀の下を這って行った。
三メートルくらいある厚さの塀は銃眼をあけ、トーチカのようになっていた。
そんな土塀を伝って行くと敵は内側に大勢いた。
土塀を乗り越えて城内の家に入ったときである。
手榴弾が投げ込まれ爆破した。
伏せたが狭いところで死角がなく、尻に焼け付くような痛みと同時に血が足を伝った。

昭和十二年十月六日朝四時頃であった。
となりの部屋には敵がまだいる。
一時は捕らえられるのではないかと思う状況になった。
夢中で構えた。
幸いに友軍の砲撃と歩兵部隊が突撃する援護射撃がはじまった。
先程までガヤガヤしていた敵兵が潮の引くように去っていった。
その援護射撃が城内にいる私達の近くに落下するので、これも危険だ。

友軍が突入してして来たとき、よく生きていたと喜んでくれた。
初めて戦場という渦中に飛び込んで、あの殺気の中では人間同志ではない行動をすることを実感した。
相手を殺さなければ自分が殺される。
敵もそれと同じことを考えていると思う。
当時の我々は戦えば必ず勝つものだと思っていた。
この頃、我々は戦争の趣旨や軍部の意向等はわからない。
ただひたすらに国家同胞のため身命を賭して闘っている。
これが我々の教え込まれた教育でもあった。

特に私の場合、致命的な病気を持っていて戦死を覚悟で従軍をしていた。
だから随分と無茶な行動に走っていた。
負傷をして動けなくなったとき、援護射撃によって救われたが危ないところであった。
野戦病院に入隊し、手当てを受けたが、臀部に入った破片を抜き取るには時間がかかるのと病気が発覚する恐れがある。
本隊から離れたら大変だ。
一刻も早く退院して本隊に追及しなければならない。
歩けば歩けることを理由に病院長に頼み、事故退院(治癒退院ではないこと)を願い出た。

平時の場合と違ってそのあたりはおおらかであった。
そのため体内の弾片は抜き取らないまま白水村に布陣している本隊に原隊復帰をした。
その弾片は未だ体内にあり、死後の火葬には骨と一緒に拾うよう、レントゲンのネガを写真の額の裏に蔵ってある。
白水村付近は、土質の関係で住民の多くは土をくり抜いて家を造り、穴居生活の習慣があった。
ここでチャルメラを吹き鳴らして突撃をしてくる槍紅兵に出会った。
槍紅兵は槍の先に赤い布をつけて突撃する勇敢な兵である。
彼等は戦闘で戦死をすれば極楽へゆけるという神がかりのものであり、そのように洗脳されているのであった。

昭和十九年、ビルマ国境を越えて雲南省龍稜で闘った中国軍は殆ど勇敢な少年兵であり、選抜されたものだったらしい。
死体はあどけない十五、六歳で傘を背負っていた。
我々は入隊と同時に格闘技としての突撃訓練を受け、これが歩兵の本領として負けることはなかった。
しかしあの死闘場面は、平和な今日では想像することすらできない原始的な戦闘であった。
我が軍は遮蔽地形が無いので、断崖の場所を選んで壁状のところを刳り抜いて穴倉陣地を造った。
白水村の穴居陣地も静かに暮れていった。

ところが夜半になって地底より妙な声が伝わってきた。
「オーイ、オーイ」とくぐもった声が微かに聞こえてくる。
私が外に飛び出してみたら、隣の穴にいた分隊員全員の壕が全部陥没して生き埋めになっていた。
大急ぎで中隊全員スコップで掘るのだが、中の人を傷つけないように気をつけなければいけない。
結局七名全員を救出することが出来た。
陥没の原因は対陣間、退屈なものだから隣の穴と繋げて掘ったので上層部が弱くなって落ちたのであった。
私は繋げないでおいたので崩れなかった。

私のすぐ隣の壕にいた笹神村出身の大久保鉄君が崩れかかると同時に口に手をあてて精一杯の声を出して助けを求めたのが七名の命を救った。 とんだ生き埋め戦争であった。
こんなことがあったり、不自由を分かち合いながら陣中生活で心が通い、その絆が強く結ばれていくのである。
戦場は一般社会のような学歴社会ではない。
利害打算や毀誉褒貶もなく純粋な人間性によって結合してゆく。
その優劣と順位は一定の時期における査定で決まるが、決められた階級序列は厳然と明確化され、指揮命令の系統は守ってゆかなければ軍隊という組織は存続、維持、統率はできない。
戦闘を目的とした行動には統率という節度がなければ遂行できない。

勝手な自分の恣意によった行動を許したら戦力にならない。
個人プレーは許されない。
目的達成のためには個々の意志を超越した結束力を発揮しなければならない。
白水村における突撃戦を原始戦といったが、いかに化学兵器が発達して近代化されても所詮は戦闘の決着は白兵戦が最終手段となることには変わらない戦術であろう。
この種の接近戦は幾度かの戦場で行われた。
ノモンハン、ガダルカナル島、雲南の断作戦においても行われた。
いずれも強靭な精神面の訓練によって培わなければならない戦闘手段である。

命は一度失ったら戻ってこない。
命が惜しくない者はいない。
ただ何の目的で命を賭けるかである。
我々は国民的な教育の中で国家を守り同胞を護ることを教え込まれた。
これが至上の道義として守り、順応してきたのである。
それでも年齢、家庭、環境、特に妻子の有無、宗教観、戦場の様相等によって勇敢にもなり、臆病にもなる。
戦争という場にあっては指揮官の行動が兵士に大きな影響を与える。
戦線が緊迫混乱すると、兵は指揮官の顔色ばかり見ている。
少しでも指揮官が怯むと兵は動揺する。

ガダルカナル島の戦場で戦線離脱のような行動をとった指揮官がいたが、兵の戦闘意欲に大きな影響があった。
平時の場合はわからない人間の心理状態が、生死の極限に達すると指揮官のみではなく、戦友同志の心と心も強い鎖に繋がったようにひとつになる。
どこか鎖の一つがおかしくなると連鎖反応によって全体の士気が崩れる。
軍隊教育の至上目標はここにあったと思う。

白水村(原平鎮の南に位置する)の戦闘後半になって召集兵が戦線に加わってきた。
これらの人達はそれぞれ義務服役によって二ヵ年の勤務を終えてそれなりの教育を受けたのである。
しかし、我々現役兵と違って多くは妻子を故郷に残しての参戦であった。
復員後、家庭を持ってみて、はじめて召集兵の気持ちがわかった。
召集兵の皆さんはさぞかしつらかったに違いない。
死にたくなかったことが良くわかった。



白水村にて(指を指しているのは和田計治准尉=石井修県議の叔父)


白水村に対陣中、佐渡出身のK軍曹、二年兵である飯塚上等兵と私の三人に斥候(敵情偵察)の命令が出たときのこと。
塹壕を伝って集落のはずれに出た瞬間、強烈な機関銃の掃射を受けた。
飯塚上等兵が不幸にも足の甲を撃ち抜かれ重傷を負った。
歩くことも出来ない。
そのときのK軍曹の狼狽ぶりは対応すべき手段がとれなかった。
日常兵舎生活をしていたときは、あれ程威張り散らしてビンタを張る、文句をつけておった指揮官が全く指揮能力を失っているのである。

私の巻脚絆を解いて繋ぎ合わせ、交代で背負って原隊に辿りつくことが出来た。
指揮官としてあるべき姿、とるべき行動の規範を目前で教訓として展開された。
私が下士官候補者として第一年度の教育を受けた直後のことであり、深く肝に銘ずるものがあった。
実戦をもって指揮官としての訓練を受けた。
それとあまりにも偶然の一致という奇跡に近い現象にぶつかった。

飯塚上等兵の負傷のことである。
斥候に出発の際、飯塚上等兵に新しい靴の配給があって履き替えているとき、周囲の戦友が冗談に「飯塚、そんな新しい靴を穿いてゆくと危ないものだぞ」と言った。
全く他意の無い冗談であったし、本人も誰も気にかけることではなかった。
それが全くそのとおり新しい靴の真中を射抜かれたのである。
偶然とはいえ薄気味が悪かった。

今でも信じていないことがある。
それは戦場で親しい友達が次々と散って行ったのだが、その中の一人くらい、世の中に幽霊というものがあったら出てくれたらよさそうなものだが、一度も出逢ったことはなかった。
亡くなった戦友の中には、さぞかし言い残したいことがあった戦友も居た筈である。
その場合、幽霊でもよいから逢いたいと思った戦友がいたのだが。
浄土真宗の経文の中に「無情の風吹き来たりぬれば忽ち二つの眼(まなこ)閉じ白骨の骸となり夜半の煙となりぬる」とあるように、人の怨念とか霊などある筈はなく、人間の死は一切が無に帰すると信じている。
幽霊とは己が描く心の影であると思っている。

それから間もなく、北京に次ぐ北支那の雄都太原攻撃に向かって一挙に進撃をすることになる。
この頃になって原平鎮で体内に入った破片は、臀部の肉が包んで傷がふさがって痛みはなくなった。
太原を目指す十一月、この時期道路を歩くと黄塵万丈もうもうと舞い上がる砂煙のため、昼間の行軍は出来ない。
敵に位置を教えるようなものだ。
夜間のみの行軍である。
疲れ果てて眠りながら歩く。
時には敵の兵達が紛れ込んでいるときもあって捕らえたが、笑い話のようで敵愾心も湧かなかった。

原平鎮攻撃が終わって白水村に移ったとき、私の同期である現新発田市中沢の塩原孝作君が「長谷川、背中が痛いが見てくれ」と言うので見ると、背骨の両側が高くなって骨のあるところが溝のようになっている。
その高いところを銃弾が溝越しで貫いていたのであった。
早速第一大隊本部におられた私の隣り集落出身の堀武衛生軍曹に手当てをして貰ったが、もう少し体内の方に寄っていたならば命はなかった筈である。

太原市の攻略は北支の戦略拠点として大きな意義を持ち、進撃急なるものがあった。
太原を占領したのは昭和十二年十一月下旬、既に冬となり気温も随分と低く、冷えが厳しかった。
太原はお城のように高い頑丈な塀に囲まれた都市であった。
ほとんど無血入城であった。
住民は退避して無人に等しかった。
日中戦争では、俗に便衣隊といわれていた民間人か軍人か分からない戦力があり油断が出来なかった。
これは便衣隊という抗戦隊でなくとも、自分の国土が戦場になれば当然戦える者は全員が銃を執ることは当然のことであろう。
日本の国土は沖縄を除けば原爆による攻撃はあったものの、本土が戦場にならなかったことは不幸中の幸いであった。
恐らく本土決戦ともなれば如何に優秀な日本民族と雖も完膚なきまで蹂躙され、再起も不可能となったことが想像される。

今にして想えば、我々は物心のつく頃から中国人を侮蔑する教育を受けて育った。
あまりにも中国及び中国人に対する認識の誤りがあったことを後悔せざるを得ない。
戦後の中国を訪れ、或いは新潟大学に留学をしている多くの人々と交流してみて、ますますその感を深くしている。
中国の道教の一節に、「悪は善の師であり、黒は白を資けている」「無為を尚び、自然を愛する」とある。
こうした風格が人民の生活の根底をなしている。
日本人は単純に白は白、黒は黒と決め付けているが、悪があるから善が顕われると諦観する中国人の心の広さと度量の大きさ、これが戦後の日本に対する寛大な許容で大きく再建に資してゆけたのではないかと思う。

中国の人達と接すればする程教えられることが多い。
そして"窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず"。
日本の戦争孤児をあのように我が子同様の愛情を籠めて育てられたことは、日本人の既定観念から考えられないことで、深い感銘を覚えるところである。
中国民族は過去において踏まれ、虐げられ、搾取されながらも、根を張り、枝を伸ばして国家の興亡とは無関係に全く自力で世界のいたるところに逞しい生活力をもっている民族である。
そして今は世界の列強に伍して大きな発言権を得ている。
従って私は中国との戦争はあまり語りたくない。
語るとすれば懺悔と奥深い中国の文化である。
日本文化の源流であり、見分けのつかない程の同種的な隣人となぜ干戈を交えねばならなかったのか。
共存共栄の道は無かったのか。
いくら反省しても尽きることはない。

太原攻略の十一月の気候は相当に寒さが厳しくなった。
ところで私の体調であるが湿性肋膜炎という病気は肺結核と同じ病気だと考えていた。
この湿性肋膜運で多くの戦友が死亡、或いは内地送還されているので不治の病気だと思い込んでいた。
それが微熱も出なくなっているし、胸部の不快感もない以前の健康なときと同じ状態になった。
薬に頼らず養生もしないで、逆に死を期待して無茶な行動をしていたのに。
不思議なことは軍医に診察をして貰った際に以前の病状を話したら、患部は固まって治癒をしているとのことだ。
自分でも病気そのものを忘れておった。
病気も忘れられ体の中に居ずらくなったのかもしれない。
いずれにしても若い体力、生命力が克服したものと思う。
戦後再発して苦しむことはなかった。
太原での駐留も束の間、次の行動は意外にも満州原駐屯地穆稜站への帰還命令であった。

『十一月二十八日原駐屯地帰還のため大同出発、同月三十日満支国境(山海関)通過、十二月三日駐屯地延壽着、同日より同地付近の警備、昭和十三年六月十日移駐のため珠河出発、同月十一日浜江省境高嶺子通過、同月同日穆稜站着、同月同日より同地同付近の警備、昭和十二年7月七日昭和六年及至昭和九年事変(満州事変)に於ける勤務に依り金参拾円を賜う、同年同月同日昭和六年及至昭和九年事変従軍記章授与』

十二月三日、北満の地延壽は髭も凍る酷寒である。
この季節の訓練が忘れられない。
訓練は野営である。
地区の治安維持という作戦命令によって山野を駆ける。
肝心なことは地図の読み取りである。
夜は一層気温が下がる。
うっかり銃や剣の鉄の部分に皮膚が触れるとはがれてしまう。

野営の要領は、背嚢を枕にして二十人位寝れる天幕を張る。
その下には枯枝を集めて敷き詰め、その上に各人の携帯天幕を敷いて寝る。
よく凍らなかったかと思う。
服装は、下着が木綿のシャツ、その上に毛布のジャケツ、毛を張ってある防寒外套、目だけでる毛糸の帽子(ドロボウ帽子)、その上に柔らかな毛をつけた防寒帽。
脚は木綿の靴下、防寒靴(中に毛が張ってある)。
手には綿手袋に毛の防寒手袋。
これが零下三十度の酷寒に耐えられる完全軍装である。

そして銃剣、弾薬、食糧を携帯しての行動である。
その重さ概ね三十キログラムになる。
道とてない山野の雪原を歩く。
そのため体力の消耗は大きい。
それにプラス・シラミである。
シラミは腰のあたりにつく。
寒い日は一種の暖房効果がある。
痒いのでゆするものだから暖かくなるのだ。
このシラミ退治は前にも書いたが、容易なことではない。
しかしシラミが病気をもって来るわけでもないし仲良く同居することである。
絶対に絶滅できないのだから。
仮に自分のものを全滅させても戦友からすぐに渡ってくる。
日向ぼっこをしながらシラミを捕るとき、シラミが少ないと物足りなさを感じる。





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