冥府

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生と死の極限に生きて




満州へ 臨時編成下令・渡満







『昭和十二年二月十日臨時編成下令、四月十一日満州派遣のため新潟港出発、同月十四日羅津港上陸、同月十五日朝鮮国境通過、同十七日延壽着、五月八日より五月九日まで、五月二十五日より五月三十一日まで珠河県延壽県下関東軍第一期粛正中防衛地区右地区防衛隊第一次討伐に参加』


既に右戦時名簿記載のとおり戦地戦務出勤のための臨時編成は二月十日付に下令されていた。いよいよ渡満である。
夢見た大地、満州に行ける。
当時緊迫している国際情勢にあったとしても戦時体制ではないから、部隊は軍旗を先頭にして行進ラッパによって堂々の行進である。
大勢の人々に見送られて新発田駐屯を後に新発田駅に着いた。将兵の多くは再びこの営門に帰ることはなかった。まさに「なみだ橋」の別れは、永遠の別れとなった多くの戦友。
今までの二ヶ月、兵役の別れとは違うことであった。

現在、旧新発田連隊駐屯地は陸上自衛隊新発田三十連隊駐屯地となっている。
私共が出発した営門は、自衛隊になってから五〇メートル程度前方に移動している。
門に入ると右側の黒い腰板部屋は、旧軍隊の連隊本部と第一、二、三大隊本部室と連隊長室の建物であった。
連隊長室には軍旗が奉置されて、常時衛兵が立哨した。私の居住した部屋も現存している。
新発田駅より汽車で沼垂駅(新潟市、今は無い)に下車。
現在のボトナム通りの道路脇に叉銃(三丁の銃を組み立てること)をして船に乗った。
昨年は単独で渡満を決意して来た道である。





新潟市の婦人会の方々が郷土部隊の出陣とあって、湯茶の接待やら、お菓子や果物等を持ちきれない程、心を籠めて贈ってくださる。
山の下の紡績会社の若い女工さん達が小舟に乗り、日の丸の旗を振って港口まで見送ってくれた。
桜も散った四月十一日のことであった。
初めて目にする輸送船。タラップを登り、船内で軍装を解く。演習の延長線のように感じた。
出港、そして遥かな越後連山が水際線に沈み、初めて故郷が、故国が視界から去っていった。
自分の村のことも全部知らないままに育った自分が今、日本海の真只中にいる来ている。太郎代浜から見て憧れた海だ。

出港二日目、玄界灘に差しかかった。
船体が大きく揺れ動いてほとんど全員が船酔いに苦しみ、無口になった。
「戦友」にある"ここはお国の何百里"の実感が湧く。
乗船三日目、『四月十四日、朝鮮羅津港に上陸』
ふるさとは桜の花が散って春の陽光であったのに、三日間の船旅は猛吹雪の異郷の空である。
こんなにも気候が違う。
異郷の土を踏みしめた。
赤肌の山々が印象的であった。

『四月十五日朝鮮国境通過。同十七日延壽着』
ハルピンから東北へ三つ目の駅が珠河駅である。
小さい淋しそうな駅であった。
延壽に行くためにここで下車する。
それ以前ハルピン駅で一時下車をしたとき、中央改札口の床に厚いガラスに覆われた「伊藤博文暗殺の地」と記されたプレートがあった。
朝鮮人安重根が伊藤博文を襲った痕跡を示したものだが、明治時代激動の世代が偲ばれた。
戦後、神前訪問でハルピン駅に着いたときは撤去されていた。
珠河より歩いて二日間の行程のところが延壽であった。

広野のど真ん中にポツンとできた集落である。
ここが第一大隊(但し第二中隊は珠河)の駐屯地である。
珠河よりすべての荷物資材は二頭、三頭立ての牛車に乗って行く。
道といっても道らしいものではなく、わだちの跡のある泥の道で、草が生えていないだけである。
牛車は、満人が長い革の紐のついた鞭を振ると"ピシッ"と叩かれたような音を出す。
それに馭者が"イワッ、イワッ"という掛け声が空にこだま谺して異様な調和音となる。
いまでも彼の地の第一印象として耳の底に残っている。
三六〇度遮るものひとつない広い大地である。

早春の寒風に乗ってくる土の匂いも、色合いも日本の土とは全く違う。
行軍は夜になった。
北空に輝く北極星の光も近くに見えるようで美しい。
つくづく遠いところに来たものだと思った。
延壽には非常に中国的な、楽土のような印象をもって行ったが、正面入口には形式的な鳥居のような門があり、周囲は土塀に囲まれている。
中には煉瓦の家もあるが、多くは土を固めた原始集落のようであった。
我々が渡満をした軍事行動は、この延壽から始まった。
そして我々はひたすらに命ずるところ命をかけて荒野を駆けることになる。



延壽町全景(第一中隊駐屯地)


終戦五十年後、中国(主に黒龍江省ハルピン市)から医師、農業技術者、教育関係者等が新潟県の招待留学生として毎年十名程度の人が新潟大学に来られた。
各年次にわたり私は聖籠町長当時から交流を続け、親しい人脈ができた。
いずれも日本の大学院程度の優秀な人達であった。
これらの人々はみんな立派な人格を備えた人達であった。
我々日本人が過去に捨てた心、我々が学ぶべきものを沢山持っておられた。
戦前に教えられた"侮華"の教育・中国観というものがいかに間違っていたものかが後悔された。
歳月が流れ、時代は違ってもあの当時の中国の人々もおそらく大陸的な寛容で豊かな人間性を持っていたに相違ないと思うと心から敬意を表すと共に謝意を表したい。
その留学生の数は約七十名になる。

私は自分が職業軍人であり、中国で戦争に従事したことは決して言わなかった。
ところが平成六年秋、私が身元保証人になっているハルピン外事辨公室から留学生として訪問した敍送迎さん御夫妻と八歳の娘さんの三名を家に御招待したときに、部屋に掲げてある満州当時の軍服を着た私の写真を見て、軍人であったことに触れざるを得なかった。
当時のことをお話し、今後の中国関係の考え方を話したところ、三十八歳、即ち戦後生まれの叙さん御夫妻はあまり悪感情を示されることなく、むしろ現在お世話になっていることに感謝をされると同時に、専攻している日本の古代文化に興味をもち、また中国と日本の文化の共通点や現在の日本の人達が中国人に対して大変親切であり、偏見されることもなく、留学したことを喜んでおられた。
叙さんが中国人を代弁しているようで安心をした。




渡満当時の後藤十郎連隊長


荒野の延壽で




満州の大陸に渡ってから初めての地延壽は、ハルピン市の東方に位置し、ソ連の国境に近い荒野の中にある農耕民の集落である。
最初到着した印象は、なんと貧しく不潔な街であろうと感じた。
我々の駐屯する兵舎は以前どんな用途であったのか分からないが、平屋で煉瓦と煉土で固めてあり、入ると中央に通路があって両側が土で練り上げた床となっており、その中に暖房を通した、即ちオンドルになっている。
居室兼寝室である。

冬期間のマイナス三十度位の寒さでも快適な設備である。
燃料は石炭である。
延壽到着後は休む間もなく、仮想敵国を指呼の間においての猛訓練である。
春の大陸は素晴らしい。
スズランが咲き乱れ、野生の芍薬が大地に綺麗な緑模様となっている。
冬が厳しいだけに春の若草の芽生えは緑の絨毯になる。
一方、訓練は狭い大日原での演習の比ではない。
荒々しく雄大なる準戦場である。

お互いに入隊後間もないが運命共同体としての戦友としての心の絆が結ばれてきた。
気心や出身地もわかり、むしろ楽しい毎日の日が続いてゆく。
休日といっても小さな満人の町であり、外出しても買うものもない。
演習のないことが楽しみ位なもので、今考えると他愛もない話をしながら、敢えて退屈もしないで過ごせたことはやはり若さであったのだろう。
戦友同志で楽しむゲームがあるわけでもないし、風流を楽しむ年代でもない。
現地の炊事は、炊事班長の他は現地の満人を頼んであった。

現地人達は自分の好みに合わせて調理するのだから、カレーの日になると激辛になる。
シャックリが出るほどだ。
さすがの三田中隊長も音を上げて、中隊長自ら注意をするのだが、暫くすると、また同じになる。
それに参ったのはシラミ(虱)である。
ズボン下の布の腰の付近にまつわりつく。
その痒さは苦しい程のものではないが思わず手がゆく。

冬の寒いときは多少暖かさを感ずる効用もあるこのシラミ捕りも楽しい日課の一つであった。
シラミはいくら捕っても尽きることなく湧いてくる。
冬は毛糸のシャツについたシラミを殺すために水にひたして零下三十度もある野外に曝しておくと成虫は凍死するが、卵は絶対死なず生きている。
北支の戦場では暇さえあればシラミとの格闘であった。
内地では想像もつかない厳しい寒気である。
剣術を行うときは暖かい室内で防具をつけて一斉に外へ飛び出しての試合となる。



シラミ取り風景





職業軍人を奨められて




この頃、三田中隊長から顔を合わせる度に「長谷川、お前下士官候補となって陸軍教導学校へ行け」と奨められた。
私は、満州で除隊し、この地で働きたい目的で軍隊に入ったのであったが、考えてみれば日本は対ソ戦を想定して熾烈な訓練をしている。
今後どのような事態が起こるか分からないが、いずれにしても順調に現地除隊が予想される今日の情勢ではない。
弟妹もいることであり後のことは親達も承知するだろうと考えて、中隊長の御意志に従うことに決心した。
人の運命は、どこでどのように進んでゆくか分からないものである。
この意思決定が命を長らえる定めとなったことであろう。

もしそのまま一般兵としていた場合は現地除隊も出来なかったであろうし、都度の召集でおそらく生存は不可能であったと思う。
中隊では四人が下士官候補者として決定された。
そのうち中村諦一郎・ガダルカナル島で戦死、塩原孝作・他部隊へ転属、山本登・負傷兵役免除。
私一人が最後まで残った。
連隊としても同期で最後迄残ったのは岩室村の大岩修策と私の二人だけである。

五月の満州は咽び返るような春の息吹でいっぱいである。
馥郁とした香りはまさに青春そのものである。
たとえ苦しい訓練であっても青春のエネルギーを思う存分発揮することは、我々に満足感を与えてくれる。
この討伐参加のとき、延壽出発のときから激しい腹痛があったのであるが、そのうちに治るだろうと思い我慢をしたが、延壽より遠く通河付近の山奥に到着した頃、下腹部が腫れ上がり歩行も困難な状態となった。
部隊はなお山奥へ進んだが、私は幕舎に残って歩哨をつとめていた。
そこに新発田から従軍カメラマンとして随行してきた熊谷写真屋さんが私の歩哨姿を写した。



満州の山岳地帯で討匪行---盲腸と腹膜炎で三日間の命と言われたころの著者


その時の私の姿はすっかり痩せ衰えて見る影もないものだった。
その写真を一緒に入営した聖籠村追分集落の天野達雄君(ガダルカナルで戦死)が実家に郵送したところ、天野君の母があまりにも痩せた私の姿に驚き、私の実家に届けてくださった。
その後間もなく、ハルピン陸軍病院に収容され手術をした。
病名は「腹膜炎兼虫様突起炎」であった。
相当な重病のため第一報(危篤電報)が打電された。

これを戦死と間違って村葬の準備をしたとのことであった。
現在、わが家の茶の間に飾ってある写真は慣例として戦死者が出た場合、新潟新聞社が遺影として拡大写真を寄贈してくれたものと聞く。
即ち慰霊祭用の写真である。
話を戻すが、私が歩哨として残っていたとき、連隊本部付軍医も一名残っていた。
その人は私の隣の集落出身の穂刈喜四男軍医で、私は知っていた。
幸いにして即刻後方移送をしてハルピンの陸軍病院に辿りついた。
随分手遅れの状態であったという。

ハルピン病院では麻酔薬がなく、生身を切開する手術であった。
痛かった一ヶ月の入院。
今でも一〇センチ程の傷跡が残っている。
しかし若い生命力は回復が早かった。
ところで退院後の無理が祟って赤痢で再入院、間もなく退院をしたが、若さの無謀、無理がもとでまた湿性肋膜炎を患うことになった。
このあたりから奇跡に近い闘病と戦場の出動が始まったのである。





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