冥府

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生と死の極限に生きて




軍隊に入隊


第二師団、新発田歩兵十六連隊が渡満するということが報道された。
これこそが神が与えてくれた絶好の機会である。
軍隊に入れば満州に行ける。歩兵そのものが目的ではないにしても見逃すことは無い。
当時徴兵は満20歳とされていたが、徴兵令第七条で志願制度があり適齢以前でも入隊が可能であった。
ここで心配なのは身長である。
当時の徴兵検査基準は厳格で身長は五尺三寸(一メートル六〇センチ)以上であるが、私は一分(約三ミリメートル)足りない。

この難関をどのようにして突破するかであった。
志願書は受理された。
検査通知が届いた。
神に祈るような気持ちで身長計に乗った。
甲種合格の声。将に神の声であった。
足りない身長は多少背伸びをしたおかげか令七条志願の熱意か。

一番小さな兵隊が誕生したわけだ。
入隊以降軍隊は身長順位で隊列を組む。
そのために私はいつもビリに並んだ。
昭和十三年度陸軍士官学校を卒業し、見習士官として十六連隊に配属された。
そのとき私が亀岡氏に初めてかけた言葉が「私より小さい兵隊が入って来た」ということだった。
体が小さいということは軍隊が戦闘集団であるだけに射撃、剣術、行軍等の体力が要求され、非力を補うのに苦労をした。

亀岡隆雄氏は陸軍少佐まで昇進され、各中隊長を経て終戦を迎えた。
終戦後は故郷の福島県に帰ることなく新発田市で渡辺良夫代議士の秘書となり、その後故郷から衆議院議員に出馬、選挙の都度トップで当選され建設大臣、農林水産大臣を歴任されたが残念ながら六十余歳で早逝された。最後まで私は行政面でも大変お世話になった。
亀岡氏は、最初に部隊付となったとき、私の言ったことを思い出して、「小さい兵隊が入ってきた云々」のことをよく話された。
代議士になられてからは(隆雄)を高夫と改名された。
私の机上には亀岡氏からいただいた形見の時計、欅の木でほんの形をした置時計がある。その木には自ら書いた座右の銘が刻ってある。


     花依靜香愛
     人似仁義榮



今もコツコツと亀岡氏の呼吸を引き継いだように永遠の時を刻んでいる。



亀岡隆雄(高夫)氏

さて軍隊に入隊が決定された状況を記したが、今後の私の人生にも関係があるので入隊前のことをもう少し書き残しておきたい。
前述のように貧しい農村環境に育って、他の社会に対する経験も知識もない私にとって、多くの若者が広い地域から集まる軍隊という組織の中で、どのように自分を置いたらいいのか皆目判らない。
母親が暗いランプの下で夜なべをしている姿を見て、苦労をかけているのだろうと体に感じながら高等小学校を人並に卒業することが出来たものの、これからの自分の運命をどのように切り拓いていけばよいのか。この母の期待にだけは応えたい。これ以上の苦労をかけないようにと心に秘め、今後の人生を賭けようと決心した。
私の勉強に対する意欲は異常なものがあったようである。
これを見かねたかのように藤寄集落の和田野右ェ門家の多喜三氏が自分が勉強をした早稲田大学の通信講義録を私にくだされた。
他にも日本外史抄を借用することが出来た。
当時集落の公会堂にも貸図書はあったが四十冊程度しかなく、欲しいと思う本はあまり無かった。
あの当時自分の思うような本が読めなかったことが私の人生の空白であったように思えてならない。

  後年、お借りしたり、戴いたほんのお蔭で陸軍教導学校や准士官になって少尉候補として陸軍士官学校の受験にも大きく役立たせることが出来た。
また昭和十三年以降、高学歴の方々が招集されて共に生活をしながら多くの教訓指導を受けることが出来て感謝している。
私にとっての軍隊は満州に渡る手段であって、職業軍人を志したことではなかった。ところが自分の意志にかかわらず国際情勢、特に満州、中国の関係が緊迫しつつあった。
第二師団が渡満したのも、日本は満州における軍事力の強化の必要があったからであった。
そして三田清四郎中隊長の強力な勧誘によって職業軍人の道へとすすんだ。
結果的にはこのため終始本部付勤務となり、生還することが出来た要因の一つでもあったことは事実であろう。
しかし本部付だからといって必ずしも安全が確保されていることではない。本部要因の多くが戦死をしている。

それを当初志したように民間人として満州で暮らした場合、果たして運命がどうなったかは判らない。
事態があのように日支事変、ノモンハン事変、大東亜戦争、特に戦後ソ連の暴虐による抑留等を考えると、人の運命は計り知れるところではない。
世の中が混沌として不確実になると、不安感と共に特に感受性の強い青少年はどのような感情、どんな行動をとることになるだろうか。当時の様相から、若者は命を張っても自らの道を進む者と環境に妥協して俗世を捨てて逃避した世に生きる、この両極に別れるように考えられる。
事実当時の若者の行動を追ってみると、その行動の延長線がこれらを裏付ける結果として見られる。
私の恩人である和田多喜三氏は俗世の喧騒から離れて僧侶として修行を積み、笹神村堤で寺院の住職となり、笹神村の民生委員やら行政に貢献され、地域の指導者として業績のある方である。

隣県生まれの笠柳の帆刈典治氏は現在村上市の満福寺住職であるが、僧名を牧牛として永平寺の副管長という要職を勤めた名僧であった。
他にも僧侶になられた人では横山武男氏がおられる。
私は軍隊を媒体として満州に渡ったが、時局は軍隊が私を離さなかった。
命を賭けてブラジルに渡った勇者のことは前述のとおりである。 私は体が小さかったことから、ノモンハン事変で壊滅的な打撃を受けて不足した航空兵の補充要員に要望された。
しかし、源大隊長は私を離さなかった。
もしも源大隊長がが航空隊に行けと言われたら、恐らく生きておれなかったことであろう。
この源大隊長のことは戦後後記に記載したい。


私の戦時名簿




これからは私の戦時名簿に基づいて史実を記載しておきたい。
戦時名簿とは以前の軍隊手帳と同じものである。本人の入隊以後の履歴、賞罰、褒章、進級、等級、作戦行動、戦傷、戦病等を詳細を各人毎に整理記入をしておくものであり、将来の恩給等の資料にもなる。原本は和紙にペン書きで記入してある。










 『昭和十二年一月十日現役兵トシテ歩兵第十六連隊に入営』
 例年ならば既に雪が降り積もっている時期であるのにこの年は全く雪がない。
一月九日の入営一日前も快晴であった。
珍しい年である。夕日に映えた越後の山脈を家から眺めるのも最後になる。
庭を掃除して心尽くしの夕食を祝った。
明日からは全く別の社会に住むことになる。軍隊に入営することは男子の誉れであり、一家一門の栄誉でもある。弟三人、妹二人の家族で後のことを心配することはない。

私は軍隊に入ることが目的ではないのである、満州に行く手段なのである。
満州の大地に行って果たして何があるのか判らないが、兵役が終わったらその地に留まることを決めていた。
これでようやく生涯の進路が定まったのだ。大きな夢がふくらんでいく。
語り合った友はさぞかし羨ましがっているであろう。
この年は適齢で私より一級上の藤田重雄君と二人の入営である。
あれ程一緒に入隊希望をもった横山浪一君は第一乙種であった。私より体格がよかったのに判らない。

愈々一月十日朝、村人に見送られて出発。
新発田町(当時以下同じ)まで歩いていくのである。
この入営が事志と異なった方向になったが、まさしく人生の新しい出発点であった。
新発田町の北側兵営に接して中曽根という集落がある。あの中程に「なみだ橋」という小さな橋があった。
今はヒューム管水路として埋設されているが、「なみだ橋跡」という標識が建てられている。
そこで見送りの人と別れて営門に入ることになる。明治の建軍以来、多くの壮丁がこの「なみだ橋」を渡り、涙したことであろう。



「なみだ橋跡地」の碑


役場から付き添ってくださった兵事係の天尾留吉氏と一緒に営門をくぐる。
営門の左側左端が第一中隊の兵舎であった。
入営手続きが終わり、天尾留吉氏と別れた。
天尾留吉氏は、この新発田連隊出身の陸軍歩兵特務曹長(後年階級制が改正されて陸軍准尉となった)であった。私の尊敬する苦学力行の人でもあった。



聖籠村役場兵事係 天野留吉氏


 長い間、固い軍靴に踏まれて磨いたようになった石畳の廊下に入ると、一階と二階に別れていた。
薄暗い、すり減った階段を登ると左右にわかれて、最初の部屋が第二内務班である。銃架があり、古びた寝台がズラリと並べられている。
何の装飾もない居室である。壁際には棚があって着替えのシャツがきちんと見事に畳まれている。
その棚下には銃剣や防毒マスクがさがっている。割り当てられた寝台のところが唯一自分の生活定位置である。

入営した初年兵百二十名は心なしか不安と警戒心をあらわにして黙々と二年兵(概ね初年兵二名に二年兵一名の割合で戦友という仕組みになる)の指示に従って、整理やら掃除、食事、私物箱などの日常生活の説明を聞く。
右を見ても左を見てもはじめての顔ばかりである。
どこの出身か、どんな性格を持っている人なのか全然わからない。
特に狭い農村地域で育った私にしては他人との同居が難しいような気がする。
これらの人と生も死も、苦しみも楽しみも共にするのだと思うと、早く話をして意志の疎通をしたいものだと思うみんなもその王に考えているに違いない。

私の組んだ戦友は津川出身の加藤弘である。
二年兵の戦友は杉山宗治といって万年一等兵の縫工兵である。
要するにあまり能力のない者が命ぜられるところに勤務しているが、極めて単純で、心根はよさそうな男であった。
この人は決して兵の頭に手をあげないでしまった。 二年兵の最右翼は石井勝行伍長勤務上等兵である。
現在の豊栄市、当時の長浦村浦木出身の方で、さすがの伍長勤務だけあって頭脳、技術、人格のいずれも我々が敬愛出来る人であった。
周囲の人事には恵まれた。

縁は異なもので、復員後、私は一男二女の親となったが、次女が嫁いだ主人の母親が石井勝行さんの姉であった。
残念ながら石井氏は満州の延壽において湿性肋膜炎に冒され、後送されたが戦病死をされた。
私は石井上等兵に大変可愛がられた。
さて話は先行したが入営の翌日、一月十一日は昨日の好天などどこへやら、一夜明けたらボッソリと約四〇センチの積雪となった。
入営第一夜は無心に眠れた。
朝である。初めて聞く起床ラッパによっての目覚めである。
起床と同時に各人の寝台前に直立不動の姿勢をとって週番士官によって、班長の号令”気をつけ””番号”点呼である。

点呼が終わると、今日は直ちに営前練兵場に集合させられた。
連隊全隊員である。
何列も横隊に肩を組んでの雪踏みであった。
営門から白壁兵舎までは幅にして約一〇〇メートル余、距離約四〇〇メートルある。
全隊員の足で踏み固めた営庭は見事になった。
これが入営最初の団体行動であった。

軍隊というところは、日本の男子として生まれた者は等しく選ばれて国民の義務として兵役に就くところであり、打算でない広義のボランティアである。
兵役につくことは国民的な名誉として教育され、根づいてる。
島国日本が鎖国の眠りから目を覚ましてみると、アジア地域の諸国が殆ど欧米諸国の植民地として管理され苦しんでいた。
国権を守り、維持をすることがいかに重要なことか。
維新以後、憲法で徴兵制度を義務づけしたことは頷けるものがある。

それから四ヶ月、激しくきびしい訓練が行われた。
心身、武術、戦闘、行軍等の基本動作から各個訓練。
そして仕上げが団体訓練となる。
訓練は常に心身共にその限界に近い苛酷なものであった。
例えば新発田営門を出ると「目標、大日ケ原駆け足進め」と号令がかかる。
現在のように舗装がされている道路ではない。
砂利道である。
笹岡のお宮の前には、「兵隊さん、水を飲んで下さい」というように樽に水を用意しておいてくださったものである。大宝寺の射撃場に行くときも同じである。

雨の日は精神訓話という教課日程もある。
将校が交代で受け持つが面白味のない話が多く、訓練で疲れている体は眠くてやりきれなかった。
この頃の国際情勢は、ソ連軍の極東兵力の増強、日中関係、対欧米関係の緊迫があり、我々は常に仮想敵国をソ連としていたが、実感として伝わってはいなかった。
一日の訓練は、食事をとる時間を除いて自分の時間は全くない。
軍隊には俗に“麦飯”という代名詞があったとおり徹底した麦の混食であった。
これは栄養・カロリー摂取のメニューでもあった。私共農村社会の食べ物よりはむしろ贅沢であった。

昭和十五年に満州から新発田駐屯地に帰ったとき、母を私の室に呼んだ。その部屋は現在も残っている。
そして軍隊食というものを食べさせた。
母は大変よろこんで、毎日こんな御馳走を食べているのかと驚いていた。
もっとも炊事軍曹が同期の藤田作次朗軍曹であったので頼んで多少余計めに御馳走を貰ったこともあったが、私はこのとき、母の驚きと、よろこびと、安心した顔を見て、よい親孝行が出来たと思った。

私にとって軍隊生活は巷に聞こえていたものよりも楽というと失礼かもしれないが、演習、訓練、武術、射撃等で、幾度かの賞状を貰い、自分に合っている社会といえた。
軍隊という組織は、各個訓練の基本に基づいて団体組織としての総合力が発揮されなければならない。
一人の突出した能力よりも集中力が必要とされる。
従って、いろいろな学力、資質、能力の差のある者を分類しないで、優劣のない同一規格で訓練を仕上げるのである。
苛酷な戦場にあって肉体、精神、能力を結集した訓練の成果が組織力となって発揮、実践することになる。
特に昭和十二年以降の日本の軍隊は、その体質として農村育ち、都会育ち、家庭環境、現役、召集、学歴等の違った人達の集合体である。
私はむしろ、こうした異質の集合が組織の力を強めることにプラスとなったと考える。

軍隊というところは一部の人によって、非人間的な、いじめや弱肉強食、前時代的な権力社会で、人間性を否定した社会のように伝えられているがそれは誤りである。
この点は戦友の名誉のために否定しておきたい。
人間が命を結集して戦闘目的を達するには、それなりの教育方針、方法、手段が必要であるが、そこには人間性を失っては成果とならない。
いかなる困難なる場に直面しても、生死の極限状態の中で互いに助け合い、いたわり合ってゆかねばならないし、心身の強い結合によって戦闘を遂行されねばならない為の日々の訓練であり、生活であった。
むしろ一般社会に見られない男同志?の命の支え合いや、一般社会では考えられない崇高な人間性がみられた。
戦闘目的を達成するには毀誉褒貶もない。
自分の持てる全力を出し切って統一行動についてゆかねばならない。
従って強者が弱者をかばっていくことになる。
軍隊の訓練のなかで部隊訓練というものがある。
例えば部隊の行進訓練である。部隊を横隊、縦隊、または二列、四列行進を号令一つで意のように行進させる。
号令をかける指揮者も示された隊形、方向に前進、停止させるが、号令を間違うと、とんでもない方向、場所に行ってしまう。

この部隊訓練は行進をする者よりも号令をかける指揮者にむずかしさがあった。
訓練の目的には、足を揃え、手を揃え、同じ方向に指揮者の命ずるところ間違いなく行動することと、その行進行動による連帯感、一体感を養うことを含んだものがあるのだ。
このように軍隊教育は心理的に、神経的に、或いは科学的に根拠を含んだ内容が包蔵されていた。
戦後、日本の企業が旧軍の歩兵操典や陣中要務令などを研究し、脚光を浴びたことがあった。人事、労務管理、或いは競争のはげしい営業活動に資するところがあったのかもしれない。このように軍隊教育は必ずしも軍事目的以外にも人間としての道義、修養面にも資するものがあった。

昭和十二年四月、訓練の成果が評価される第一期検閲が陸軍演習場大日ヶ原に実施された。
私は、この検閲で検閲官の質問に適切な答えで賞詞をいただき、帰隊後一日の褒賞休暇を貰った。
入隊以来四ヶ月、しかも冬期間というきびしい初年兵教育は終了した。






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