冥府

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生と死の極限に生きて




戦後秘話





ラングーンの日本人墓地。佐久間雄男君も行った。


ノモンハンの惨劇




悪夢のようなあの日、昭和十四年九月七日。
草原に展開された惨劇は事変五十六年後の今日も鮮烈に脳裏から消え去ることはない。
ホロンバイルの草原は晩秋から初冬を迎えた物悲しい季節であった。
九月七日は既にハルハ河を渡った敵戦車が砂塵を立てて前進をしている。
これを迎え撃つ我が軍には戦車も飛行機もない。
敵の飛行機は草原を這うように我々の頭上をかすめていく。
この近代戦に対して我々は素手で向かっていくようなものである。

早朝より続々とハルハ河を渡り前進してくる敵戦車の前面に陣地を展開しているのは、我が第二大隊である。
間もなく第二大隊は敵戦車により完全に包囲補足されていった。
直距離で約四キロメートル先方の平坦地が悲劇の戦場である。
その様相が見える。
敵戦車砲、機上掃射の下で恐らく草原は血で染まっているのであろう。
我々はなす術もなく見守っているだけであった。

次は我が陣地に迫ることになるだろう。
恐らく百台以上の戦車であろう、M4型戦車は、装甲も厚い重戦車である。
我々が想定していた爆薬量では破壊できない。
その戦車に対して、我が軍の装備ではどんなことをしても戦えない。
あの轟音の中で、どのように戦っているのだろう。
濛々と立ち籠める煙と砂塵、敵戦車の意のまま蹂躙されているのであろう。
あれでは一人も生き残れない。
こんな戦いは戦闘ではない。
日本の軍隊ではない。

日本の軍事機構はどうなったのか、作戦指揮の機能は何を考えているのか、日本の国全体が崩れ去ってゆくように思える。
将兵は一人一人狙い撃ちされ、或いは戦車の轍に踏み殺されているに違いない。
これが国境を守る手段なのか。
世も終わりだと思った。
第二大隊は全滅をした。

北支事変の戦闘とは全くその様相が違った。
僅か一日の戦闘で一ヶ大隊が全滅をしたのである。
ノモンハンは、興安省、興安山脈の果てたるところ、ボイル湖に近く、そこを水源とするハルハ河畔に位置する。
そこは山脈が終わり、果てない雄大な草原である。
この地で国境線をめぐって日・満両軍対ソ連・モンゴル両軍の間で、双方の死力を尽くした凄惨な近代戦が闘われた。
日本側はこれをノモンハン事変と呼び、モンゴル人民共和国ではハルハ河戦争と呼稱した。
この戦闘の価値をどう評価すべきか。

この悲劇はなぜ起こったのか。
事変の発端第一は権威ある元満州国外交官の証言によれば、日ソともに国境戦に関わる錯覚から起こったとしている。
ロシア人がハルハ河を国境とした理由はなぜか。
それは彼等が清朝の行政区界を知らなかったとしか考えられない。
おそらく一七二七年のキャフタ条約第三条によるものだろう。
それによれば山脈、連山および河川の存するときは、これらを境界線と定める、という条約を勝手に準備したものと思われる。
国境がそうであるからといって、他国内の行政区界をそのように解釈することは、甚だしい誤りといわねばならない。

次に日本側は、この問題について大正元年〜同七年の間、参謀本部の臨時測図部がこの方面を測量した。
その時十万分一地形図の国境はハルハ河となっており、その後日本軍の手によった大部の編纂図の国境線もハルハ河とされている。
しかし同書の「大興安嶺、同東西地区、その他に関する兵要地誌調査」を調べると、ハルハ河流域は入っていない。
いずれも視察だけによる情報測図、またの名を記憶測図程度のものであり、確度のない未測図だったという。
その他、モンゴル側には、チンギス・ハーン以来の蒙古民族としての領有権等が交錯して、釈然としない国境線をめぐっての事変と言っている。
勿論国家にとって、多少に拘らず領土というのは基本的要件であり、戦争の要因となり得る。
日本軍としては当時の情勢からして満州軍と共に満蒙国境線を確保するため、受動的に反撃するを止む無きに至った。

他にも複雑な問題もあったようであるが、要約をすればこのようである。
さてそれにしても、あの地理条件のもとで、ソ連・モンゴル軍に対し、日満軍といっても満州軍の軍備の程は全く分からない状態の中、あの草原に裸同然におかれて、まさに互角どころか、近代兵器による瞬時の戦闘によって、草原の露と消えた第二大隊の将兵の無念さを思うととき、胸が痛む。
戦争の原因が、一言で言えば「日本の偽政者が国境を知らなかった」という単純なものであったとしたら、今後の国家運営に大きな示唆を与えたものとして評価して貰いたい。
結局その後、満蒙国境画定会議は十数回にわたり紆余曲折、昭和十六年まで持ち越され、駐ソ建川大使とモロトフ外相間で折衝され、同年八月十七日ハルピンにおいて総合議定書が調印、文書が交換された。
このようにして陸地の国境認識を持たない日本が満州国において、古い歴史的な背景のある国境問題に介入をして多くの犠牲を払っての決着を得たことになった。
これがノモンハン事変の経緯であった。




ハルハ河、激戦の地(1987年撮影)


ガ島遺骨収集の経緯と慰霊巡拝行





遺骨収集団の近勇次氏


私達が政府派遣のガダルカナル島(ガ島)遺骨収集団に参加したのは昭和四十六年、戦後二十六年後のことになる。
遺骨は長い年月、放置状態になっていたのである。
ガ島の遺骨収集団報告書の表題を『暗黒の孤島に遺骨を求めて』とした。
しかし二十六年の歳月は長かった。
「暗黒の孤島」は「南海の楽園」に変わりつつあった。

戦後二十六年を経た日本は漸く、復興から建設へと工業国家を目指して、南方諸地域から資源の導入をはかっているところであった。
当時、ガ島西南方一八〇キロメートルに位置する「レンネル島」を三井金属株式会社が国際入札で落札をして、全島がボーキサイト鉱である同島の発掘を進めていた。
これが為、同島の住民をガ島へ移住させて三井金属株式会社の発掘事務所をガ島へ置いた。
同社の尾本社長がガ島において目にしたものは、あまりにも無惨な多くの白骨であった。
これを見かねて政府機関に要請したことが契機となって、初めて政府の意思による遺骨収集となったのである。

もっとも以前にも派遣したことがあったのであるが、いろいろな問題があり途中で挫折していた。
こうして政府は厚生省を窓口として、当時の部隊関係があった県自治体、部隊関係者等に協力を求めて本格的な収集に踏み切った経緯があった。
このため新潟県としては新発田歩兵第十六連隊が参加している関係で行政からも支援を戴いた。
これにはいぞく代表として新発田市、渡辺和春氏も加わった。
報道部員として新潟日報社・山田一介氏、新潟放送・鷲頭典彰氏が参加され、後日の記録報道に寄与して戴き、大いに助かった。

ご遺族の渡辺和春氏の父・渡辺春松氏は第一大隊本部甲書記として私の先輩である。
准士官任官後、中隊に転出され、今井重松氏、次に私が甲書記となり、渡辺氏の後を追うように従っていった。
渡辺春松氏はガ島戦で、小隊長として小川陣地に戦死をされた。
幼い和春氏は一歳であった頃と思う。
さぞ心に残ったことであろう。




ガ島戦死した渡辺春松氏


今、ガ島に和春氏が父上の遺骨を求めに来たのである。
和春氏は当時の報告書に次のように述べられている。 
「なぜもっと早く迎えにこれなかったのか。国のために死んでいったのに慰霊さえもなおざりにする国の仕打ちは冷たすぎる」
当時二十九歳だった氏は、変わり果てた骨を掘りながら憤り、嘆いていた。
この中に、ひょっとしたら父もいるのだろうか…とつぶやきながら。
和春氏は現在、新潟日報事業社に勤務、年老いたお母さん(渡辺春松氏夫人)を大切にして平和な家庭を営んでいる。

確かに長い年月、お経の声も届かない異郷、南冥の果ての小島に埋もれている戦友の遺体であった。
日本は戦後の貧困、混乱、国家再建、修復のため心ならずも遺体収集に手をかけることが出来なかったのかも知れないが、それにしても長い年月の無関心には怒りを感ぜざるを得ない。
訪れたガ島は、凄惨過烈な猛砲爆撃が交錯した日米の決戦場であり、鬼人も目をそむける悲惨な人間模様が繰り広げられたところである。
だが十六連隊関係の主要陣地、戦場は整地され、宅地化されて近代家屋が立ち並ぶ立派な市街地になっていた。

しかし一歩踏み込めば当時のままのジャングルである。
この密林の中の土を掬えば、弾片が多く手に残る。
五十年後の現在は、その現象が変わってきている。
建てられた建築物が更新されることによって整地されたところから数々の生々しい戦友の遺品が掘り起こされる。
これらは外務省を通じてご遺族にお届けすることが出来た。
その後、ソロモン国も南海の小島ながら独立をして、わが国も国交を樹立し、領事館を置き、出入国も容易になった。
したがって数回にわたっての遺骨収集事業、それに慰霊碑、記念碑が建立された。
英霊もさぞかし喜んでいることと思う。

特に新発田市を衛戍地とした歩兵第十六連隊である。
これがために新発田市長をはじめ北蒲原郡内市町村長、新発田商工会議所代表の方々を同地に御案内することが出来た。
また黒川村の伊藤孝二郎村長さんの実弟である伊藤健太郎氏はガ島で戦死をされており、私が伊藤家にお邪魔をしたとき、母上様が大変喜んでおられた。
このように郷土部隊の英霊もきっと喜んでくれたことと思っている。







ガ島遺骨収集・慰霊祭


ガダルカナル島戦記の参考




戦後大東亜戦争の各戦場に纏わる戦記刊行記が出ているが、客観的な、或いは聞き語りによる戦記物の多くは誤報やゆがみ、場合によっては戦友の名誉を侵すようなものもある。
「ガ島」作戦に関する刊行書も多くあるが、その中では元大本営参謀(陸軍大佐)、井本熊男著『作戦日誌で綴る大東亜戦争』の内容が私共第一線で実戦をした立場からみても最も正確に述べられている。
井本氏については文春文庫発刊で『瀬島龍三昭和の参謀』という本の一一三頁に次のように書いてある。

「陸士では瀬島龍三の七期上の作戦参謀であり、参謀の中でも自制の効いた幅広い知識を持つ幕僚だった。井本は『作戦日誌でみる大東亜戦争』という大著を残している。この書は数多い陸軍軍人の回想録の中でももっとも正確に事実を記している。次代の者の必読の書となっている。」

『作戦日誌で…』は芙蓉書房発刊なのだが、現在絶版となって入手出来ない。
幸い私は著者井本氏から直接戴いて保管書としている。
同書は日本の建国から現在の国防に関する経緯と所見、その実体を達観して見事に捉え説いている。

ガダルカナル島撤退作戦の眞相
大本営参謀(陸軍大佐)、井本熊男は昭和十八年一月十二日(火)、第十七軍に対するガダルカナル島撤退命令伝達のため、勅語、剛方作戦中第八十一号(撤退に関し第十七軍に与える方面軍命令)、第十七軍ケ号作戦指導要領案、沖部隊(第十七軍)に対する連絡要領を万一のことを考えて井本と佐藤の両参謀がそれぞれ携帯して駆逐艦に乗船、ガ島に上陸し、世界戦史にも類例を見ないという撤退作戦を成功に導いた方である。
私は、平成元年に井本元参謀が新発田自衛隊を訪問された際に、当時の生存者に会いたいとのご希望があり、新発田自衛隊に於いて食事を共にしながら、当時における軍中央部の生々しい経緯を直接聞くことが出来た。
おそらく当時のガ島にあっては、天皇の勅語による命令がなければ撤退を承服しないで全員玉砕の道を選ぶであろう。

この玉砕を回避させるために類例のない勅語による命令となったとのことである。
井本氏からはその後、年賀状をはじめ数度にわたりお手紙をいただいた。
私がこの手記を書き始めた平成六年暮れ、井本氏にお電話で申し上げたところ九十二歳という高齢で耳が全然聞こえなくなられ、子供さんが私の電話の聞き取りをして下さった。
そのご返事は自らお書きになって送って下された。
しかし記憶は未だしっかりされておられるとのことで、それは文字を見てもよく分かる筆勢であった。



辻政信と十六連隊の宿縁




辻政信の書いた『ガダルカナル島戦』(昭和二十一年発刊)がある。
戦後最も早い戦記発刊である。
そのため紙質は劣悪な、俗に言う藁紙であった。
辻参謀は絶えず前線部隊に対する督戦者的存在であった。
主要戦場に立たせられた新発田歩兵十六連隊とは全戦場において関わりがあった。

北支事変・ノモンハン事変・ガダルカナル島戦・ビルマ断作戦等である。
五味川純平著『ガダルカナル』の一五八頁に「ノモンハンのときもそうであった。敗走して来る兵隊達を一喝して任務に戻らせた」とおおいに批判をして述べられている。
我が連隊の主要戦場の後方に影のように現れ督戦的な猛威をふるっていた。
辻氏の著書に『ノモンハン事変』『十五対一』(ビルマ戦線もの)、『ガダルカナル島作戦』があり、『潜行三千里』は終戦時、サイゴンより大量の阿片を資金源として持ち出し、中国へ潜入した実録である。
最後の著書が『亜細亜の共感』六編を出している。

この『亜細亜の共感』は氏が衆議院議員として現職時に行方不明となる直前に刊行したもので、氏の懺悔録であり、中国に対する謝罪文でもあった。
同書は将に当時の軍隊と政治家、国民の思想を代表的な表現で綴っている。
残念ながら絶版になっているが、私の手許には辻氏から贈呈された氏自らの署名入りのものがある。
折角なので概ね次ぎのような「まえがき」からはじまっているのを記しておく。

私は日清戦争以来、侮華の国民感情を受けて生まれ、満州事変直前の緊迫した空気の中に軍人として巣立ち…(以下中略)、過去二十数年の軍人生活中、中国に送った約九年を回顧すると、極端な好戦侵略的思想が懐疑に陥り、次いで先覚に導かれ眼を開き、中国人に親しみを感じ、中国人を尊敬し、更に生死を超えた信頼へ、逐次実践を経て次第に対華認識を改めながら今日に至っている。」

本書は、このように辻氏の思想の変化と認識の発展過程を赤裸々に告白した懺悔録でもあった。
もしもこれが維新後の日本が早く対華意識に目覚めておれば、支那事変は勿論、大東亜戦争未然のものであったかも知れない。
辻参謀と十六連隊の関わり、これに対する私との関わりについて述べておく。
ノモンハン事変では関東軍の急迫状況のもと、十六連隊のみならず兵団全体の急追を迫られ、不眠不休の行動作戦を督戦して徒に兵力の消耗をよんだ不毛の戦闘であり、作戦指導であった。
次に辻参謀が『ガダルカナル島作戦』にあたって、その著書に書いてあることが許せなかった。
第二師団のことを、ジャワ島で安逸をむさぼって、その兵力は弱体化し、これがために敗戦に繋がったと酷評されていた。

小さな単行本であったが、私はこれを見て驚いた。
怒りが心頭に発し我慢がならなかった。
特に逝き戦友の死をどう考えているのか、多くの将兵に対する最大の侮辱である。
こう感じたのは私だけではないと思う。
私はこれに対し、次のような抗議文を送った。

          記
あなたは大本営参謀としてガダルカナル島は、天が落ちてもガ島は大丈夫だとか、また昭和十七年十月二日参謀本部第一部長宛に「前途に波乱もあるが大丈夫である。兵力もこれで十分であるから安心をせられたい」という楽観的な作戦評価を寄せて作戦部を喜ばせたりしていた。
貴官をはじめ作戦首脳部の誤りを第二師団兵力の責認かの如く、しかも本にまでして刊行するとは何事ですか。
しかも前線に立ったように書いてあるが、あなたは第一線の状況が分かる筈はない。
あなたはアウステン山に入るとき、仙台工兵の作業隊(樹林伐採隊)、両翼隊の分岐点までしか来ていなかった。
これは事実である。

敵状も詳知せず、地図地形も詳細でなく、過去二回の奪回作戦の失敗を繰返したに過ぎない。
あなた自身の保身のための言い訳にしか過ぎない。
次にまだあります。『十五対一』の著書にも出ているが、ビルマ雲南作戦(断)において第一大隊長、勝股治郎少佐を処罰したことです。
その状況は私が一番よく知っているところです。
何故かと言えば、あの夜襲の指揮班長は私であったからです。
戦場における闘いは、机上作戦や後方本部の思惑通りにゆかない条件変化があることはあなたも御存知の筈。
あの夜の気象条件、兵員の体力消耗、兵要地誌の不備、地形の状況が殆ど分からない等、多くの問題がありました。

加えてあの夜初めて渡された方向指示器なる器材と地図が豪雨に濡れて機能しなかった。
このような悪条件のもとで黎明攻撃せざるを得ない状況になったのです。
それをあなたは雲龍寺の山頂から、双眼鏡で覗いていただけで、二の山の攻撃状況は分かる筈がない。
それでも我々は死力を尽くして二の山は占領したのです。
それが命令どおりに夜間攻撃が出来なかったという理由で、一方的に処断されたことには納得がゆきません。
勝股治郎大隊長の名誉回復と第二師団に対する謝罪をしていただきたい。

これに対し辻氏は写真で示したように最期の著書『亜細亜の共感』に記名をして送って寄こされた。
昭和二十六年五月二十九日の受領である。
以上の講義については、懺悔の気持ちをこの本に籠めたものと思い、共に逝き戦友にも捧げたい。 これが返書代わりであった。




辻氏最後の著作





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