冥府

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生と死の極限に生きて




昭和十八年




昭和十七年も暮れて昭和十八年元旦である。
福間県出身の下田軍医中尉が壕から出てきて「長谷川曹長、今日は敵も新年を意識してか攻撃がない。せめて故国に向かって遥拝だけでもやろうよ」と飯盒の蓋に消毒用のアルコールを一滴落として乾杯をした。
第一大隊本部は僅かの時間で源大隊長、角谷中尉、関口軍医少尉が戦死、下士官も半分以下になった。
近藤副官も負傷後退、十二月三日付けで第二十九連隊(福島)より陸軍大尉・森田正が大隊長として赴任した。
しかし、森田大隊長は体が悪いといって壕から出てこない。
指揮能力を放棄したのか、自分は入院することばかり主張している。
遂にはいつ、どうして後退したのか居なくなった。
本当に病気であったのであろうか。
その後の消息は聞いたことがない。

指揮官を全く失った第一大隊本部は第一大隊砲小隊から安部栄一少尉が配属された。
安部少尉は手に貫通銃創を受けていたが後退することなく、第一線に留まっておられた。
負傷された手には絶えず蛆がついて、それを手で払いのけていた。
周囲のタコツボの多くは無人となり、話し相手もいない。
糧秣を運んで来た兵に対し後方からいきなり銃剣で殴りかかった兵がいた。
即座に取り押さえ当然銃殺刑にすべきだったが、調べてみると気が狂っていたので死刑は免れたが、その兵も五日位で死んでしまった。
小川の線に布陣をしてから今日まで彼我共に持久戦となっている。
このままの状態が続けば補給も絶たれ、敵の攻撃を受けなくとも自滅するであろう。

一月十七日。
連隊本部より命令受領者に伝達された。
敵はいよいよ総攻撃の意図らしい。
機密文書及び暗号書(乱数表)等はすべて処理をせよという緊迫した命令であり、かつ全員玉砕の用意をせよとのことであった。
あと数分後には死ぬ。
他のことを考えている余裕はなかった。
拳銃をにぎり、いつでも死ねる準備はできた。
兵達にも伝わった。
ところが十数分くらい経ったら敵は反転して立ち去った。

敵はあくまで持久戦を考えているのか、彼等も損害を出すことなく我が軍の力を弱めようとの作戦らしい。
我が軍としては積極的に攻勢に出る力は既に失っている。敵は既にそのことを戦術的に読み取っているのであろう。
盛んに宣伝ビラが撒かれている。
「皆さんの味の殿堂である、東京の聚楽も爆撃で無くなったし、東京も焼け野原となっている。早く皆さんは手を上げて我が陣地に来て戦争をやめましょう。兵として皆さん対しては決して恨みもないし危害を加えることはありません」
と書いてあった。

この戦闘で死んでゆくには概ね次のように分類された。

1. 栄養失調になると目がかすんでくる。出す声も細くなる。大半が下痢を伴う。体力が低下してくると、精神状態も鈍って、タコツボの中で意識が朦朧となり、眠るように死んでゆく。
2. 栄養失調で体力の衰えと共にマラリアで発熱し脳が冒され発狂する。発狂すると五日間くらいで死んでゆく。
3. 猛烈な下痢(赤痢症状)で死ぬ者。
4. タコツボで直撃弾を受けて死ぬ者。
5. 昼間の戦闘で敵弾のため死ぬ者。
6. 負傷、疾病により後方野戦病院で死ぬ者。

そしてその遺体は燐蠅による蛆がついて三日程度で綺麗な白骨となる。
毎日戦友がこのようにして死を迎える。
如何ともし得ない。
遺族の方々には語られない惨状であるが、この苦しみ悲しみを敢えて国民全体のものと受け止めて頂き、軽はずみに戦争を批判する者に対し、誤りのないために記した。

私が戦後平成五年十一月、奇しくもガダルカナル島前面の米軍であった軽二五兵団と新発田市に駐屯する自衛隊三十連隊が、富士演習場において合同演習が行われ、私も招待されて同地へ赴いた。
勿論当時ガダルカナル島に加わった軍人はいないが軍としての縁がある。
時代が平和であればこそ出来たことである。
米兵の訓練ぶりを見ているとき、このような軍人が血染めの丘にいたのかと当時を思い起こした。
しかし、米兵の根底には、歴史の浅い国とはいえ、多くの国際関係を処理、民族の多様性を統制して、アメリカ独特の精神文化(フロンティアスピリット)を基調とした愛国心がある。
明るく屈託のない兵たちを見ながら、こんな人達を前面の敵として死をかけて戦ったのかなあと思った。
残念ながら時間の都合で兵団長とは会えなかったが、新発田自衛隊の森連隊長に託された親善メダルを私はいただいた。
今私の手許に大切に保存してある。
昨日の敵は今日の友、友愛の証にしたい。
しかし当時は戦争相手として対陣している。

大東亜戦争開戦後一ヵ年余りになり、ガ島はまさに餓島と化し、残存兵力も四分の一位であろう。
その残存兵力も自分の身も思うように動けない。
壕の中から辛うじて敵の攻撃をかわしている状態である。
幸いに敵は我が頑強な防御を恐れて陣地内に突入をしては来ないが、連日の猛攻は続き、敵戦車が反転していったのは明らかに我が軍の餓死全滅を待つ戦術と思われた。
久しぶりに後方コカンボナに残してある行李班のところへ行ってみる。
長谷川班長既に病死。

最も高齢の大桃仁五郎伍長と部下は前線と同様草根木皮などで命をつないでいた。
私の訪れを歓迎して「曹長殿にご馳走をしてあげます」と言って、昨晩海岸に行って捕らえてきた椰子ガニを出してくれた。
久しぶりにおいしいものを腹に入れたことと、部下の思いやりが嬉しく、今生の別れになるやもしれぬ想い出を抱いて前線に帰った。
行李班は昭和十五年、十六連隊本隊が満州より新発田衛戍地に帰還した後、それまでの編成になかった組織として加えたものである。
急遽召集して編成したもので、輜重隊経験者を主体として全員が年輩の人達であった。

各大隊毎に配属をして食糧、弾薬、資器材の運搬任務部隊である。
家庭を持った人達が多い関係もあり軍規を別としても社会性に富み、気配りがあって手数のかからない常識に富んだ人達であった。
私のように職業軍人を志した者と違って、どんなにか苦しみも多かったであろう。
それでも非戦闘員として後方に配置していたが飢餓という敵は前線も後方もなく同様に襲ってくる。
気の毒だけれどもお互い死を覚悟してくれと言って別れた。

私の当番兵は刈羽郡刈羽の小林勝政兵長であった。
暗号手でもあり頭の良い男である。
彼はよく尽くしてくれた。
最後まで力をふりしぼって食えるものをあさって私の命を支えてくれた恩人である。
右翼陣地に配置されている第三機関銃中隊長の亀岡隆雄氏(満州時代私の分隊に士官候補生として入隊、復員後衆議院議員で建設、農林大臣を歴任した人)が私のところに伝令を寄こして、何か食べ物はないかと言ってきたものだった。
何がしかの食べ物のあるときはお互いに死線を乗り越えたいと念じ、お上げした。
第一大隊本部で将校指揮官は安部少尉のみであったが、森田大尉後退のあとに、同じ二十九連隊より陸軍大尉、勝股治朗氏が大隊長として赴任されて来た。


ガ島撤退




勝股大尉は既にルンガ飛行場攻撃に中隊長として参加しておられた。
陸士出身将校である。
大変厳正で職業軍人としては立派な人であった。
前述したように辻参謀の思いあがりでビルマ断作戦において、とんだ誤罰をうけたが、決しててそんな人ではない。

また、五味川純平氏著『ガダルカナル』の二二〇頁上段に二十九連隊滝沢一郎氏の書簡---昭和五十五年四月十二日付---として、「あの飛行場攻撃で、突撃の命令を”カン声”をあげての後、無断で戦場を離脱して彼方へ退った、小生が目撃をしています」と紹介している。
五味川先生は、これに眞ありとは思えない旨を記載しているように、勝股大尉は決してそのような軍人ではなかった。

私が十六連隊第一大隊の本部付書記の立場から、立証したい。
滝沢君のことは私も知っているが、何かの誤解ではなかったのかと思う。
現にガ島で歩十六の第一大隊長として赴任しているのだから戦場を離脱している筈がない。
さてガ島作戦第一線に立っている私共は、我が軍の空軍も艦隊もその姿を全く見ることもなく、補給も絶えた状態では我々を見捨てたのではないか、いったい日本の国はどうなっているのか、故郷、同胞はどうなっているのか、前線にある我々は覚悟しているが、そのことが心配でならない。
我々のところにはこの島以外からの情報は何ひとつ入ってこないから、壕の中での夜は天にも地にも自分一人になったような感じであったが、今度は、ガ島で我々だけが見捨てられ取り残されたのではないか、国は、日本民族はどうなっているのだろうか心配であった。

こんな状況はどこにも伝わっていかないのか、伝わる術がないのか。
自ら弱音を吐くつもりはないにしてもそんな本音が出る。
もう軍隊ではない、その機能を失っているようでもある。
堺連隊長の毅然たる姿に接すると、この指揮官がいる限り如何なる事態に陥ち至っても大丈夫なんだとという自信が湧いてくる。
よし、この人と生死を共にしようと思った。
我が部隊は、総攻撃の不成功に伴う損害が大きく、その後補給の不十分の中を長距離の転進で戦力の消耗が甚だしく、十二月中旬以降は絶食状態となった。

大半の兵は動くことも出来ず、ただ陣地に拠って敵が近迫したならば射撃をしようと最後の勇を鼓している。
先に記載した一月十七日の敵総攻撃情報については、戦後米国の米軍戦史に次のように書いてある。
十七日は豪雨であったが、午後から四十九門の曲射砲を九十分射撃した。
一〇〇〇平方ヤードに対し千七百発り弾丸が撃ち込まれた。なお十六日の記事には日本軍陣地の状況がかなり詳細のわかった、とされている。
我が陣地においては極限状態に近づいた肉体の生命の日数を統計的な結果として次のように誰となく説いていた。
非科学的で、非人道的な統計であったが概ね的を射ていた。

寝たきりの人は一週間、気が狂った人は五日間、ものを言わない人は二日間の寿命と言うことだ。
熱帯のジャングルは瘴癘(しょうれい)の地である。
栄養失調になれば必ず病魔に冒される。
敵は決定的な攻撃に出ないが、栄養失調と病魔の攻勢が激しくなる。
もし日本軍に彼等の装備資材、食糧を与えたとしても、兵力の差は比較にならない。
逆転的立場になったら一日で日本軍を一掃出来たことであろう。
昭和十八年一月も下旬となり、一月二十五日連隊命令下る。

『連隊はこれよりカミンボに後退をして同地に新たなる増援部隊を得て再度攻撃をする。順次各中隊は後退せよ』

このときもっとも心配なことは壕の中に動けない者をどうするか。
次に動けないだけではなく気が狂っている者の処置であった。
中隊長が厳命したことは、あるだけの食糧を集めて、それらの兵に渡すこと。
そして必ず戻ってくると言っておくこと。
後退できる兵達としても自分の体を動かすことで精一杯なのだから、戦友を介護してゆく力はない。

二月一日より後退を開始した。
特に敵機を警戒して海岸線沿いには出られない。
従って密林地帯を縫ってのことで思うように歩けない。
大隊本部は兵員も少なくなり、兵技軍曹E君、行李班のO君の二人を壕に残した。
私は職務上、カミンボ集結の目的は撤退作戦であるということが分かっていた。
それだけに残した兵達のことが気がかりであった。
さらに心配なことは我々が後退した後に敵が追撃をして来た場合、敵は彼等に対しどう対応するかであった。

カミンボまでは三〜四日かかる。
川を渡りジャングルをかき分けての前進だった。
カミンボは後ろに切り立った岩があり、海岸には程よい砂浜があるので、我々が集まるところとしては安全な場所であった。
夜闇に乗じ、順次舟艇が海岸に到着して我々を乗せてくれた。
沖には駆逐艦が待っており、縄梯子を伝ってひっぱり上げられるような形で甲板上に立った。
乗船すると間もなく、握り飯の配給があった。

数ヶ月ぶりの米の飯だ。
絶対一個以上食ってはいけないとのことであった。
胃腸が弱っているから満腹をしたら、命はないとの注意があった。
ところが食べた者がいた。
見る見るうちに腹が膨れ上がり、そのとおり死んでしまった。
それでもあこがれた飯を腹一杯食べ満足して死んでいった気持ちも分かるような気がする。
二月五日、ブーゲンビル島エレベンタ(海軍呼称ブイン)に到着した。
ここに撤退作戦援護と十六連隊の補充員が迎えてくれた。
同じ集落の佐藤兵次郎君もいたのだが、栄養失調のため私の人相が変わって、分からなかったと言っている。

補充要員の話を聞くと、船から上がってくる我々の姿は異様であったそうである。
ほとんど全裸に近い格好の者も居たという。
しかし、カミンボで駆逐艦に乗船したときも、エレベンタに着いたときも、これで命が助かったというよろこびは浮かんでこなかった。
これはなぜだろう。
戦争が終わっていないからであろう。
ここで取りあえずしなければならないことは、残置人員、死亡者の詳細なる調査照合、戦闘詳報・陣中日誌の整理、それと戦傷病死者の扱いをどうするかということであった。それにしても撤退はしたものの、これらの事務に携わる要員が殆ど居ないことである。

書類の整理はともかくとして、戦傷病死者に対しては現地で塔婆のような物を作り、そこに官職氏名を記入した。
幸いに補充員の中に僧侶がおったのでお経をあげていただいた。
その塔婆を焼却して砂と共に灰を遺骨代わりにした。
その作業の細部は後刻フィリピンのムニオスに於いて整理して、そこから新発田に向けて遺骨宰領者を定めて送還をした。
この間、二月五日にエレベンタに上陸、パラオを経由してフィリピンに向け出帆したのは二月十九日である。
約十五日間エレベンタに居たことになる。

しかし、折角ここまで来ても栄養失調の後遺症のため多くの人が死亡したことは残念であった。
従って死亡場所がエレベンタ、或いはココボとなっているのはこのような事情であった。

四月二十日。
ココボ出発。
同月二十九日南洋群島パラオに寄港。
ここでおいしいウニ(雲丹)の樽漬けがあって食べたことはは忘れられない味であった。
五月六日、フィリピン群島マニラ港着。
五月十日、上陸。
五月十一日、フィリピン・ヌエバンハ州「ムニオス」到着。

ここで部隊の再建業務に従事することになる。
ところが連隊本部にはほとんどの兵が入院したために、事務要員が居なくなった。
事務の大半は、第一大隊書記ではあるが、私一人入院しないで遺骨送還業務を完了した。
南方軍総司令官、寺内閣下が巡視に来られたとき、堺連隊長が私を指さして「この曹長一人が入院をしないでガ島作戦事務や遺骨送還業務をやりました」と言ったら、私の前で「早速内地へ帰してやりなさい」という言葉であった。
後日、遺骨送還に関した会議のとき、堺連隊長が私に「長谷川曹長、お前内地へ行くか」と言われたが、私は行きません、その代わり私が指名する者を一人行かせてほしい、と申し出た。
それが同集落出身で二歳になる女の子供をもつ横山○(言べんに忠で一文字)君であった。
召集兵の中にはまだ同じ立場の者もおったが彼を帰した。

彼は送還後、原隊に復帰しないものと思っていたら、ビルマのイラワジ河会戦の最中、ヒョッコリと帰って来た。
フィリピンにおいては十月十二日のマニラ港出帆までの四ヶ月間は、再建業務と補充兵(補充兵といっても全部新潟県出身者であった)の初歩訓練でガ島帰還者の休養でもあった。
彼の地のマンゴ、アヒルの卵などの味が印象に残っている。

ここでガ島戦の纏めとして若干後日譚を記しておく。
ガ島に残して来たE軍曹、O君のことである。
フィリピンにおける再建業務のうち戦傷病将兵とともに壕に残した人達の処理であるが、「生死不明」という処理事務は軍の整規類聚にはない。
しかし壕に残った人達については、現実的には生死不明である。
そして軍規と民法の問題、戦争という特殊な現象等を考えて処理したのは、「戦死確認」という手続きである。
この処理によれば三年間は戸籍が抹消されないことになっている。
そして現実の問題はどうなったのかである。
これは終戦後、本人から聞いた話である。

敵は、我が軍の撤退について第一次、第二次撤退作戦はまだ気ずかず、逆に増援輸送と考えて防備を厳重にしており、撤退に気付いて前進をしたのは四〜五日後であったらしい。
そして壕にいる人達については丁重に収容し、医療を施し、次いでハワイへ移送、本国に送って万全の手当てと給与をしてくれたとのことであった。
そして日本に送り帰されたのは昭和二十二年という。
当然日本の戸籍は抹消されていたのである。
既に戦死確認手続上の三年が経過していた。
E軍曹の場合は養子であったので、別の人を養子に迎えていて大変困った。
結果は別の女性と結婚して結着した。
O君の場合は長男であったが、弟が結婚して家の跡を継承していた。
いずれも戦死処理をした
後、突然のように帰って来たのだから、その始末に困ったことであろう。

しかし、ノモンハン事変のときの捕虜とは違った人道的なものであり、米国は国際道義に基づいた流石に自由民主国家としての大国であった。
それを鬼畜米英と闘志を燃やしたことが気恥ずかしいような気がする。
ガ島作戦の撤退について、軍中央部の作戦系統の重要地位にあった人が「ガ島を撤退させたのはただ道義を尽くしたのみである。その外に意味の無い作戦であった」といっていたと聞く。
加えてラバウルに聞こえてきた中央部の空気の中に「ガ島の部隊を甘やかして撤退後、軍隊が弱くなった」という言葉もあったとか。
むしろ敵は米軍ではなく日本の軍中央部であったのではないかと憤激に堪えない。
ガ島の奇跡的ともいえる撤退は世界戦史に残るものだというが、順調に撤退が完了するとは考えられない難事であった筈である。

あれ程激しく敵機の舞い飛ぶ空と、無数の艦隊が屯している海域、壮大な地上兵力・装備をもつ陸上部隊の米軍に対し、歩行も困難なほど衰弱し切った日本軍の残存兵力が見事撤退を成し遂げたのだ。
前線防禦戦闘で痛めつけられていた連日のことを思えば我々には夢のようなことであった。
これは確かにガ島で骨を曝した二万余りの戦友の御加護があったものと感謝をしたい。
具体的には海陸軍の撤退援護部隊の陽動作戦の成功といってよいと思う。
米軍は我が軍の駆逐艦のガ島進入は知っていたが、これは兵力の増員と誤認していたことが幸いしたのであった。

最後に、ガ島戦の失敗を前線将兵に原因を持たせ、前述のように暴言を吐いた中央軍指導者に対しては、身命を擲(なげう)って尊い使命感にたち、そして自らの死に対し無上の価値観を持って戦場の露と消えた戦友に対する冒?であると抗議する。
そして国民が現在と将来に向け、この尊い犠牲を価値あらしめる評価をするか否かによって、日本の将来が眞に健全な国家としての命運を分けるものと思っている。





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