日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣
慰霊巡拝 ガダルカナル島の祈り
血染めの丘慰霊祭
新発田商工観光課長 斉藤 二郎
夜来からの雨も上がって、ブーゲンビリヤ・ハイビスカスの花にかざられた慰霊塔の前に朗々と読経の声が南海の空に流れて行くゆく。
・・・昭和十八年一月大雪に埋もれた我が家で「昭和十七年十二月七日南太平洋ガダルカナル島に於いて戦死」の兄の内報を受け取った時の母の顔が浮かび上がった。
前年、私の父である夫をなくし、一番頼りにしていた長男の戦死に接したときの気持、当時小学校四年生であった私も、その時の情景をはっきり覚えている。
生前我が子の最後の地を見てみたいと願いつつ果たせなかった夢を今私がこの血染めの丘に立ちせめてもの親孝行が出来たと心の中に思った。
・・・現実の立ち返り郷土の遺族会から託された「慰霊の言葉」を光栄にも私が述べさせていただいたことは終生忘れ得ない感激であり、このようにご配慮下されたみなさんに深く感謝している。
悲惨なあの戦争が終わって四十二年、今我が国は平和と繁栄の中に幸せな時代を過ごしているが、あの戦争が、世界に大きな変換をもたらしたことは事実であり、祖国日本の繁栄を願いながらその犠牲となった多くの将兵たちの死も無駄ではなかったと思う。
しかし再びこのような悲惨なことは決してあってはならないとの心の中に思いつつ三日間のガダルカナル島に別れを告げた。
帰国して郷土部隊が初めて島に上陸したタサファロングの海岸から拾ってきたサンゴの礁片を兄の墓前に捧げ報告した。
今はすでに忘れ去られようとしているあの戦争も歴史の一ページとしては永く伝えられて行くと思うが、今回の巡拝が長かった戦後に一つの区切りがついたような気がしているのは私一人ではないのではないだろうか。
この機会を与えて下さった関係のみなさんに改めて感謝申し上げます。
ガダルカナルを思う時
ウオロク副社長 葛見 久衛
この度、阿賀北の十一市町村長、ならびに事務当局のお計らいで、ガダルカナル島の新発田十六歩兵連隊戦没者の墓参団に、ご理解を得、参加させて頂いた事を有難く感謝申し上げます。
又全日程を無事に事故もなく終了出来ました事は、計画の周到さと市町村長の皆様のリーダーシップの賜物と推察を致している次第であります。
我々二十九名一行は九月二十六日成田空港を出発し、オーストラリアのブリスベーン市に最初の一泊をし、疲れを癒し、身を整えて目的地ガダルカナル島に陽の明かりが暗くなりかけた夕方無事到着をし、興奮も醒めやらず一夜を明かしました。
日本大使館やソロモン国ホニアラ市長への公式訪問をおえ、全員が念願の戦没者英霊の墓参のため、血染めの丘を参ったわけであります。
参加者のほぼ全員が、旧十六連隊のある新発田の地に産れ育ち、大東亜戦争の時代を経験して、当時のガ島の様相は悪夢と残虐さのイメージを忘れる事無く、又日本を離れた時から、ガ島戦線生き残りの聖籠町長谷川町長さんから陰惨な実戦の模様を聞いて明るくない気持ちでいたわけでありますが、当地へ来て四十数年の歳月の流れがあまりにも大きく感じられないのであります。
ガ島の面積は新潟県の半分程度と聞きましたが、島全体が戦争の爪跡を不思議にも何も感じられないのであります。
平穏な山、静かな海、平和な住居であり、生活文明は明治以前の様相で、移民の流入もなく、先進国との交流もなく、土着の首族の平和な暮らしぶりでありまして、隣のオーストラリアの文明とは正に雲泥の差であります。
思いますとこの"文化なき楽園"は日米両軍の戦没者が、二度とこの様な悲愴であり残虐な敵対した行為がないように思う祈りであり、人類は隣人を愛する、と云う霊魂が現実化しているのではないかと思われます。
人にはそれぞれ運命があり、人生にはそれぞれ星まわりがあると思いますが、血染めの丘高地での戦没者の慰霊祭において手をあわせ拝む時、この英霊のお陰で、祖国があり、肉親があり、日本があるのではないかと思うのであります。
又阿賀北の十二市町村から十六連隊へ編入をされ、ガ島に参戦した兵士が五百名の大勢であり、敵に与えた損害は甚大であると聞いておりますし、十六連隊の歴戦の戦火は誰しもが知っている事であり、余りに有名であります。
我々が今、ガ島から郷土新発田を思う時、十六連隊の偉業を讃え、末永く、広く、後世へ受け伝えていかねばならないと思います。
おそらく二度とガ島へ行けないと思いますが、あののどかで平和な姿と、綺麗な自然がなぜか頭から離れる事がないのであります。
英霊からの贈り物
大進電業専務 小林 清吉
私は、この度、新発田商工会議所の応募に呼応し、市北蒲原郡の市町村首長各位の御高配のおかげをもって、日本より洋上はるか南海の島々からなる、ソロモン諸島の中の首都ホニアラ市を配するガダルカナル島に足跡を残すこととなりました。
ガ島はご存知の通りイギリス領から独立を勝ちえた楽園の島々ソロモン諸島の一部ですが、四十四年の風雪の中に過去の戦争はややもすると忘れさられ様としている昨今でもあります。
勇猛果敢を持ってその存在と名声を全国に鳴したと言われる、国家存亡のきびしい任務をおって、若くして散った十六連隊二、三〇〇人の英霊に対し慰霊巡拝の計画がなされ、その一団員に加えていただいたのです。
私は過去に会社の仕事や諸先輩の御指導のもと、幾度か海外の地にふれておりますが、今回程人間として魂の根源に触れる素晴らしい体験を出来た旅は無かったと言っても過言ではありません。
私は終戦間際の昭和十八年の生まれですから、まったくもって戦争を知らない年代の仲間であり、ましてや、日本の戦争史否、世界の歴史に数多くのエピソードや悲劇を記録した「ガ島」の覇権奪回作戦の地に旅するとは思ってもみないところでした。
九月二十六日(土)夕刻、国際空港成田より、伊藤団長(黒川村長)様のVIPゲストルームでの結団式を終え勇躍飛び立ったものです。
キャセイ航空(香港)にすべてを託し機上の人となり、途中香港にて乗り継ぎ、オーストラリアの最大都市ブリスベーン市へと移動しました。
この間飛行中の機内からは初めて見るオーストラリアの広大な紫や茶褐色の荒地にただただ見とれるばかりでした。
それに空港の芝生の上で乗りかえ時間の合間に宿泊先のシェラトンホテルから戴いたサンドイッチを団員有志と食した味は、吸い込まれそう青い大空と一緒に忘れる事は一生涯ないと思われます。
度重なる機内食に、いささか辟易しだした三日目の二十八日の夕刻、都合のべ十六時間の飛行時間を費やしてようやく、ソロモン諸島はホニアラ市のヘンダーソン飛行場に無事到着したのでした。
この度の、慰霊巡拝の旅行を立案計画された長谷川聖籠町長様の計らいで、ソロモン駐在の日本大使館の命で、林領事官がわざわざ空港へ出迎えて戴きました。
しかし国情の違いで税関の手続きは思いの外難解で団員の表情は等しくあせるばかりです。
夕刻六時過ぎの到着でしたので、空港施設や周辺のジャングルの様子は暗闇に吸い込まれて行く様で不安がつのりました。
一切の検査や荷物の積込みをマイクロバス二台に完了し、ガ島の第一日目の宿泊先であるタンベアーホテルに着いたのは夜中の十時近くでした。
ホテル迄の途中のマイクロバスの中では室内ランプも切れており各自の大きなトランクと慰霊祭にお供えすべく持参した手荷物で身動き一つ出来ない状態の中にあって、長谷川町長と共に参加した青木さんはかつてこのガ島から生還した数少ない一人とのこと、悪魔の戦場と呼ばれたガ島に再び上陸して暗い道路の中にライトで照らし出される橋や、浜辺が見い出されるたびに過去の思い出がよみがえる様子でした。
お二人の無念さと、時々しぼり出す様に案内する声が車内にひびき、団員一同はホテル迄の数刻が長い沈黙となったのでした。
遅い夕食が草葺屋根のエキゾチックな食堂でとられ、いよいよガ島に着いたことを実感したものでした。
食事后第二師団の慰霊碑がホテルの庭にあると聞き皆んなで線香をたき持参した清酒をふるまい口々に沢山飲んでくれと供養したのでした。
明けて二十九日は平賀日本大使が面会をしてくれとの事にて一同正装をしてバスに乗り込みましたが、車窓からはマンゴウ、パパイヤ、バナナ、ヤシの木と色とりどりの花が咲き乱れており、戦争があったと思われません。
しかし浜辺に立ち寄るとそこは輸送船で活躍したという月山丸の残骸が横たわっていました。
副団長の本田安田町長様は軍人の頃満州に新潟から渡る時にお世話になったとの事で、南海の波間に身を横たえる船を見て感慨もひとしおであったことでしょう。
波打ち際では日本にいる遺族の為にとお骨に似た白い貝殻を黙々と拾い集めたのです。
午后からはホニアラ市長や市議の方々からも花のレイを一人一人にかけていただき温かいもてなしを受けました。
その后公邸カララハウスに総理代行兼天然資源大臣のサーピーター・ケニロレア氏に面会する事が出来ました。
一国の要人が付人もなく応対されたのビックリしました。
ガ島はメラネシア人と呼ばれる種族ですが、おっとりしていて大変良いのですが、一回や二回の注文では物事が通じずまいりました。
夜には中国系の人が経営するというシーフードのレストランにて楽しい食事となりました。
特に店のエリカ・シーラ姉妹に人気が集まり私は持参のポラロイドカメラのシャッターを切りまくりました。
ホテル・メンダナに戻って、何日振りかで新発田の家族へ国際電話を入れたのですが、ホテルマンのモヘット君にわざわざ自分の部屋まで来てもらいいっこうに通じない言葉ながら懸命につないでくれ、心が打たれました。
九月三十日(水)いよいよ慰霊祭の日です。
あいにくの雨で午前中は予定を変更して、十六連隊が戦場として従軍した各地を回りましたが特に、名も無い丘に立って長谷川町長様の説明を聞きながら汗をふきながら涙したのをおさえたものです。
午后薄雲の空の下で慰霊祭は挙行されました。
式典には平賀大使夫妻や青年海外協力隊の横山さんらの他に日本政府の援助でマラリアの研究所の建設と研究に来ているという先生方二夫婦が加わり、熊倉中条町長様の司会により進行しましたが、栗橋住職が仏門の正装で朗々と読経が続くなか団員一人一人が体をふるわせたのです。
今は、ソロモン国の平和公園となっている足下で、日米双方の若者が肉弾相打ち戦った悲劇を思い起こし、血染めの丘と呼ばれた悲惨さや、食べる物もなく野獣と化して死んだ無念さを聞きおよび、人間の生き様や思想教育の恐ろしさを改めて知りました。
そんな中にあって現地の無邪気な子供たちの姿です。
日本人のドクターが子供達は写真を欲しがるとの事で、私は一生懸命にポラロイドを写しました。
私は一市民として、再び戦争の無い世界の為に努力しようと地下に眠る英霊に誓いました。
再び訪れる事もないでしょうが、平和によみがえった楽園の島々に安らかなれと祈らずにはおられませんでした。
英霊達が国家に捧げた勇気と、生みの親の愛に思いを新たにし平和な日本を大事にしたいと思います。
ガダルカナル島に巡拝して
加治川村長 高橋 公則
農業の厳しい事情がひしひしと迫り、その対応に苦慮していた転作の頃、若い農業後継者に世界的視野に立っての経営を研修してもらう方策を考えようと、県の青年海外派遣施策と合わせて、前もってオーストラリアの状況を現地で視察してみたらとゆう話が持ち上がった。
その中で南半球南方方面ラバウル、ソロモン、ガダルカナル、ニューギニア等の戦争中の惨状が、体験を通した話として湧いた。
日本が今日ある豊かな生活を送れる陰に、数多くの戦争の犠牲があり、大黒柱を失った家族の苦難の道、最愛の夫や息子を失い悲嘆にくれた生活を乗り越えねばならなかった戦後の姿が偲ばれた。
中でも南海の孤島灼熱の炎天のもと水も食物もなく戦争に挑まされ、不帰の運命を辿った三千名近い郷土新発田部隊の苦難の歴史が、辛うじて生き残られた聖籠長谷川町長からの涙のにじむ体験談として胸をついた。
毎年村の遺族会主催で開かれる慰霊祭でも、若くして未亡人となった婦人も七十才をこえる年となり、父を失った孤児も五十才になろうとしている。
村の戦没者名簿を見たら・・・太平洋戦争の英霊約二百八十柱、その半分は南海方面、中でもガ島での英霊が二十一柱で一世帯で二人も戦死しているのも含め一割に達している。
遺族の意向は勿論、村で生き残られた二人の方に話を聞き、平和に酔っている今犠牲となった戦友の霊を現地で慰めたいという気持ちを切々と訴えられた。
こんな経過をたどって兵士の鎮魂と平和への願いをこめ、村を代表して巡拝に参加する話がまとまり、気候や風土病等心配はあったが参加の決意をかためた。
二、準備の悩み
聖籠町長の体験談、本村の生き残られた二人の話は生々しかった。
暑さ、食物の欠乏、マラリア、戦斗の無慙さ、無謀といわれた作戦命令等々胸をついた。
巡拝計画に従い準備にとりかかったが、熱帯へ行く不安は大きくなる。
抗マラリア薬品、蚊取線香、虫除けスプレー、虫さされ薬、懐中電灯等々一般の旅行には考えられない持参品が挙げられた。
英霊達は飢餓と風土病の中で生死の極限に挑戦させられた。
食べられなかったであろう本村の新米、飲みたかったであろう地酒、米菓、するめ等供え物としてトランクにつめた。
死ぬ迄食物の話をやめなかったという英霊にと、新米でついたばかりの餅、熟した越後の柿や栗、ザクロ、梅干し、生みそまで持参した。
新発田市側では英霊の負傷に欲しかったであろう薬品や包帯類迄供え物として持参した。
その心遣いに頭が下がった。
関係する寺院と遺族にお願いし英霊の塔婆も線香もローソクとともにそろえ準備は完了した。
しかし、現地での慰霊祭での読経をどうするかの障害につき当たった。
録音テープ持参の外無しと覚悟はしたが、幸い新発田市長の取計らいで、市の遺族会事務担当の福祉事務所長が僧侶であり同道する事が出来安堵した。
内の倉のうまい水も飲みたかったであろうと湯冷ましにして水筒へいれた。
市福祉事務所長栗橋氏は法衣は勿論鐘や香箱等荷造りされての海外出向であった。
三、ガダルカナル島への道
約十六時間もかかり香港経由で辿りついたオーストラリアブリスベーンの空は、澄みきって春光の素晴らしい天気であった。
エアパシフィック機で九月二十八日午后二時ガ島へと離陸した。
北上を続け赤道近くの海は静かで美しかった。
ソロモン群島の首都ホニアラ市のヘンダーソン空港へ着陸した時は既に午后六時夕闇が迫っていた。
この短い滑走路が約四十五年も前に日本人が建設し、その奪取合戦に数多くの犠牲者を出したなど想像も出来ない程静かであった。
ただ真黒な皮膚の現地人がむし暑い中不気味な顔つきで見物に来ていたし、入口に錆びついた当時の高射砲の残骸がうらめしげに私達を迎えていた。
新潟県の約半分ほどの面積の東西にのびたこの島の南部は山岳続き、北部がやや平坦で生活の出来る土地が続いている。
南緯九度首都ホニアラは海岸に開けた地で港をもち、この市街地を除けば大部分の住民はニッパハウス(バナナの葉でふいた屋根の家)で起伏のあるあちこちに散居の生活を送っている。
アメリカ・オーストラリア分断作戦のため、この地点に飛行場を作り、三万余の兵を送り込んだ日本も、七万を超すアメリカ軍の上陸で奪取され、その奪回作戦によって遂に福島や新発田の最精強部隊が送り込まれ、悲惨極まる戦斗が繰返されたと聞く。
誠にむし暑い。
貧弱な建物の税関で検閲を通った。
物すごく厳重でトランク、カバンの中一つ一つ手に触れて吟味ししかもスローモーであった。
トランクの中の梅干のプラスチックケースに触れて何か言っていた。
「ジャパニーズ・ピックルス」と言ったら笑顔でO・Kした。
日本の外務大臣からの指示もあり、現地大使館林領事が汗だくで通訳し説明に奔走してくれた。
農産物害虫進入を警戒する注意書も貼られていた。
迎えてくれた青年海外協力隊員の説明によると、最近銃らしきものが持ち込まれて特に神経質になっているそうだ。
遂にソロモン大統領、ホニアラ市長への土産まで大使館預かりということで、林領事がとりなして税関はO・Kとなった。
何と税関を通過するのに二時間半が過ぎていた。
二台の古びたマイクロバスに荷物と一緒にすし詰め。
車内灯は故障しむし暑さもこの上なし。
先が思いやられる。
舗装道路二十分で首都ホニアラの市街地。
ここはブロック造りが多い。
最近建設した家や、アメリカ軍が駐屯していた頃の建物とか。
戦後市街地を形成し人が住み着いたとか。
道の両側に広い歩道があり、暗い道を原住民が裸足で歩いている。
街路樹も戦後植栽されたものでフランギパニーというしゃれた花をつけて美しい。
この花をつんでレイにする。
砂利道の凸凹道を約一時間半、十六年前日本の遺骨収集団が宿舎としたタンベアの宿に着いた。
ここも現地人が見物に集まっていた。
タンベアビレッジホテルと看板があったが、山小屋式のニッパハウスが二十棟も続いている。
電灯なし。
蚊が襲来。
ヤモリがすすり鳴く。
夜風が強く海の波音が高い。
強風で落下するマンゴーの堅い実が屋根を打つ。
むし暑い。
蚊取線香をたき、害虫駆除剤を部屋中噴霧する。
懐中電灯生活が始まる。
「戦場へ来たつもりで当時を偲んでください。」と聖籠町長は目頭をあつくしていた。
睡眠ままならず早朝海辺に建立された福島県部隊の慰霊碑に額づき冥福を祈った。
焼けただれ錆びついた当時の大砲やプロペラが無惨な姿でそのまま放置されていたし、英霊に捧げた供物は原住民が狙ってとってゆく。
こんな寂しい気持ちの中で、部屋のテーブルに飾ってくれた珍花白いハイビスカスの花が心を温めてくれた。
四、ガダルカナル島のくらし
ソロモン国の首都ホニアラのある島ガダルカナル島人口は五万に近いと聞く。
1987年イギリスの保護領から独立、いまだ開発されていない自然のままの島。
殆どが農業に従事、と言っても狩猟焼畑農業である。
油脂原料のコプラ、ヤシ、ココナッツ等が主な産物で港から積み出す。
近年作物栽培や観光にも力を注ぐ施策がとられだした。
日本の大洋漁業が進出してマグロ、カツオの回遊路での漁が多く、合弁で缶詰工場も出来たと聞いた。
年間1,300人程の日本人が漁業等に関係して往来する。
住民はまことにのんびりとしており、裸足でどこ迄も歩く。
英語を話し、正直で人なつっこい。
教育の普及はまだまだ。
暑いから衣服は多くいらず、山野に果実が、海の魚介類がいつでも手に入るので働かなくても食えるようだ。
最近ホテルやショップハウスで働く若者も増えて来ている。
大変愛想よく対応するが、同時に二つ以上の用件注文は難しいらしくきき入れてもらえない事が多い。
平均寿命四十五才と聞いて驚いた。
風土病マラリアか食物のせいではなかろうか。
国の財政の約四割は他国からの援助で、日本も約十億円を援助に向けているという。
対日感情はよく日本への期待感が大きく、特に
@マラリア等風土病に対する医療対策
A道路橋りょうなどの建設整備
B漁業・農業はじめ地下資源開発等に期待もしているようだ。
ただ土地が酋長の所有が多く「地下資源開発はトラブルが多く難しい」と、平賀大使は語っていた。
青年海外協力隊の努力も大きく評価されている。
現在十五名程だが今後倍増したい意向だという。
警察官の指導、教育、医療看護、農業漁業指導など大きく期待され、特に空港で出迎えてくれた上越市出身の隊員は大統領から高く評価されていると大使は彼をほめていた。
日本の外務大臣から大使館に指示があり、慰霊祭の手助けを頼むことと、ソロモン国大統領およびホニアラ市長に表敬訪問することを頼む指示文書が届いていた。
ホニアラ市長は議員十数名を動員して大歓迎してくれた。
入室と同時に一人一人にフランギパニーの香り高いレイを首に飾ってくれ、立食パーティーで手作りのごちそうを際限なくすすめてくれた。
ホニアラ市の発展を話し合い、日本の英霊の保護をお願いした。
副大統領(次期大統領に決定済みの人)も特に日本の援助に感謝し、今後も大きく期待する旨挨拶して長時間懇談してくれた。
五、読経血染めの丘に
オンボロマイクロバスで荷物とともに補助椅子まで使って戦跡慰霊の旅に出た。
@エスペランス
戦況不利となり撤退作戦でここから舟艇で転進(退却)した地点。
全員が撤退できていればよかったのにと考えながら合掌した。
指揮命令する人が、現地把握もせず決断も曖昧にして命令したため大きな人命の犠牲を生んだ過去の悲劇を思い、自らの立場と行く先を戒めた。
Aタサファロング
日本上陸地点。
渚に赤錆びた船体を傾けて波に洗われている日本の輸送船が恨めしそうに泣いていた。
海岸の砂利浜に立ち当時を想像していた。
聖籠町長の顔はこわばっていた。
四十数年前の戦友の姿を思い浮かべていただろう。
砂浜のサンゴ礁片が何か人骨に思われ、無意識のうちに拾い始めたのは私だけではなかった。
遺族への記念の土産に・・・と、小片二十数個をカバンに詰め込んだ。
Bコカンボナ
糧秣弾薬供給基地。
又誤った作戦命令の下達地点ときいた。
録音設備が山野の樹々に設置され、動くとその音が敵陣地に察知され、闇夜でも砲弾が飛んできたという。
近くにアメリカ在郷軍人戦友会が1972年に建立したとかの碑があり、碑文の一説に「日本軍の勇敢且献身的な戦いは戦史に永く讃えられるべきである。」と記されているという。
C飛行場東の高台
敵に全軍の行動を察知されているとも知らずに新発田部隊福島部隊が戦斗を展開し、飛行場奪回攻撃に移った地点。
陸の頂上に香華を手向け市福祉事務所長栗橋氏の重々しい声の読経が地に浸みこみ天に昇る如く荘厳に唱えられた。
供物の酒を地に吸わせ、紫煙が血染めの丘へと流れてゆく。
団長黒川村長の目がうるんで見えた。
きっとここで戦死された兄の姿をしのんでいたのだろう。
戦争を知らない若い団員の合掌の姿も、目に涙が見えた。
D血染めの丘
アウステン山の一角、美しい海や市街地、兵士達が苦難に耐えながら遂に死に追いやられた各地点を一望できる丘に、真白い大きなモダンな慰霊塔が建てられている。
生存者、遺族らの多くの浄財によって建立されたという平和記念塔である。
かつてここで死斗がくりひろげられた事など考えられない景勝の地であり、静かに美しい熱帯の花々が咲き誇っていた。
旅行社や海外協力隊の皆さんの努力で、現地の美しい多くの花が集められ花輪として祭壇が飾られた。
塔婆が供えられ日本の供物の全部を捧げた。
大使夫妻、海外協力隊員とその家族も一緒に本格的慰霊祭が執り行われた。
灯明の炎が赤々と燃え、線香の紫煙が丘の上を覆った。
団長の祭文の言葉、僧の読経の声が詰まった。
皆感極まった。
暑さを忘れ背筋がピンとし胸がしめつけられる思いであった。
どの団員の頬もぬれていた。
約二五〇〇柱の新発田部隊の一人一人の声がきこえてくるようだ。
法衣をまとい、持参した鐘を打ち、払子で払い、読経の声が血染めの丘全域へ浸みてゆく。
大使が飾ってくれた日の丸が殊更大きく感じた。
ただ無心に「ありがとう。安心して眠ってください。平和な日本にして恩を返します。」と。
一時間の緊張の時は流れた。
気温34度をこえむし暑い。
正装しての慰霊祭が終わった時、皆汗びっしょりである事をやっと知った程全身全霊を集中した。
大役を終わった満足感と安堵感に全員しばらく浸っていた。
六、巡拝を終わって
紙面の都合で蛇尾で終る。
遺族や生存者との約束が果たされ、肩の荷の一部がおりた。
日米両軍の兵器の残骸や、今も時折発掘されるとゆう人骨や遺品の飾られていた大使館の一室や資料館の様子がいつ迄も網膜にやきついている。
大使始めソロモン国高官等関係してくださった多くの方々に感謝の誠を捧げ、ソロモン国の発展と益々日本との親交が深められるよう祈念したい。
多くの英霊のご冥福を祈り平和への誓いを新たにして筆をおく。