冥府

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慰霊巡拝 ガダルカナル島の祈り




オセニア研修旅行を終えて




新菖工業株式会社 代表取締役常務 渡部 優

この度は、北蒲原郡町村会の行政視察旅行に参加させて戴きました事につきまして、伊藤団長 さん始めご同行戴きました皆様に厚く御礼申し上げます。
私は海外旅行は今回で四回目でありますが、町村長の皆様や新発田商工会議所の方々と御一緒という事で大変に緊張致しておりましたが、皆様の温かいお気持ちに支えられまして九日間の楽しい旅行をする事が出来、誠に感謝致しております。

私は今回の紀行をどの様に整理したらよいのか色々と迷ったのでありますが、旅行の日程を振り返って、みたままの感想にさせて戴く事に致しました。
9月26日、私達新発田商工会議所グループは、産業会館前午前10時に集合しました。
全員揃って、スタート直前、近来にない凄まじい雷雨の洗礼を受けての出発であります。
新潟駅到着時には雨も小降りとなり、町村長の皆様は既に到着しておられ、全員合流であります。
御見送りの方々に御挨拶をし、"あさひ362号"にて上野へ一路。

私は今回の旅行の役割として写真班を命ぜられておりました。
車中、出発の様子をパチリパチリ、帰りはどの様に変化しているかと思いながら撮らせて戴きま した。
上野駅では、ポーターに各自の大きい荷物を預け、リムジンバスに乗り込む。
警備の厳しい成田空港に到着した頃には、太陽も西に傾きかけていました。
その後、VIPルームにて伊藤団長さんより力強い挨拶の後、団結の乾杯。
その後、三々五々の時間潰し。

さすが成田空港は国際空港であります。
世界各国の人々がそれぞれの目的で行動しております。
ようやく出発口を通過すると免税店に行き、外国での嗜好品の買い求めであります。
日本酒、ウィスキー、ブランデー、タバコ、それぞれ思い思いの品々をたんまりと買い込む。

これでガ島の夜は過ごせるだろうか、何か足りないのではないか等心配しながら、ジェット機キャセイ航空CX#505便に乗り込む。
さあ、しっかり飛んでくれ、祈る気持ち!!
機内は、日本語、英語、中国語のアナウンスであり、英語の苦手な私は、大変に助かる。
機内食を契機に、持ち込みの飲み物でそれぞれ今迄の緊張を和らげ、しかも大いに語り合う。

お陰様で香港は全く短時間で到着、外国に第一歩。
さすが香港は自由貿易港。
成田以上の世界人種の集まりであります。
空港は蒸し暑く、ベトベト。
待ち時間中、免税店を覗く。
日本より、はるかに安そうだ。

帰りはここで是非買おうと心に決めて再びキャセイ航空CX#101便にてオーストラリアへ出発。
時刻11時30分でありました。
これより九時間の旅が始まった訳であります。
途中機内は、機内食のステーキ(実に美味しい!!)を戴き、ワイン、酒と時間が経つにつれ非常に賑やかで楽しい雰囲気であります。
私の席の隣は、関川専務でありこれもまた楽しい雰囲気。

何しろ長時間の為後方のトイレと喫煙所へ向かう人達が多く、多少眠りかけたりしましたが、眠れませんでした。
そんな時、ふと外を見たところ、実に素晴らしい朝でありました。
日本には見られない、実に雄大で、ドラマティックな景色であります。
そんな情景と、さすがオーストラリアでなくては味わえないという感動は、今でもくっきり残っております。

オーストラリアについては、ほとんど予備知識も持っていませんでしたが、一度は行きたいと思っておりました。
気候は丁度日本の反対であります。
一月が真夏で26度、七月が真冬であると言います。
しかし、この国の広さも広ければ気象条件も違うし、風土も風物も驚く程の差を見せる国だと言います。
今回は行くところ必ず缶ビールでありました。
この点少し調べてみましたら、オーストラリアはアルコール消費量が世界第三位だそうです。
その内、66%がビールで、これは世界一だそうです。
これは、年間を通じて乾燥した季節が多い上に、平均気温も上記の様にかなり高く、年間を通して10℃以下にはならないと言います。
そんな関係で、清涼飲料水よりもビールを好み、そしてまた、ビールはアルコール類とは言わないのだそうです。

また、オーストラリアは所得の停滞、福祉の抑制などに不安を感じながらも、現政権のホーク体制が推し進める緊縮政策を選択しました。
千億豪ドルを越え、更に記録を更新している対外債務、貿易収支は改善されているといっても、一次産品市況の好転が頼りで製造業はまだまだひ弱であります。
消費物価の上昇率9%台、失業率も8%を保っています。
金利は15%台の高水準であり、オーストラリア経済は厳しいとの見方をしております。
しかしながら、我々のガイド嬢より聞いた話からすると、土地は五年間全く値上がりなし、又、物価も非常に安い。
まだまだこれから大いに発展する事を期待したい、そんな気持ちになります。
シドニー、ブリスベーンは、古巣テラス、ハウス群に私はすっかり夢中になってしまいました。
空港からの道というのは、どこの都会でも、いわば場末であり、貧しく汚れた部分が多い。

当地も例外ではないが、しかし、そんな中に点在するペンキを塗りたくって、わずかな面目を保っている様な古い家並みは、よその国のどこからも感じ取れなかった「異国情緒」があり、何か素晴らしい感動を覚える気がしました。
また、シドニーはサンフランシスコの様に坂の多いこと、どこからでも海に近い街だという事も初めて知り、知れば知る程、素晴らしい国であると感じるのであります。

ワイルドライフ、パークのコアラ、ハーバーブリッジ、オペラハウス、毛皮、宝石類のショッピング、市内の建築物、街並、リゾート海岸、ゴルフ場等、日本ではとうてい考えられないスケール又は豪華さを兼ね、その様な素晴らしいものばかりであります。
時間と費用の制約を受けなければ、更にゆっくりしたいものと思っております。

9月28日、ブリスベーン午後二時、エアパシフィック航空にて出発。
約3時間後、ホニアラ空港到着。
非常に小さい空港ではありますが、島唯一の空港であります。
現地人は珍しいのか、金網越しに我々をじっとみつめています。
オーストラリアから比較すると別世界であります。

気候は日本の梅雨に似た様な蒸し暑く多湿であります。
到着後すぐに税関を通過しなくてはならないのですが、念入りな検査でスーツケースの中味の奥までの検査であります。
麻薬、危険物の国内持込を警戒しているのだそうです。
私は、大使館用に日本酒を持ち込んだのですが1本多く、没収されました。
しかし、翌日林領事の好意により、無事戻って参りました。
我々一行は、税関に敬意を表し、一路タンベアビレッジホテルへと走ります。
車は、日本のマツダのワゴン車で、冷房も故障している、ポンコツに近い車ですが、運転手は「ベリーグッド!!」と言っていました。
田舎の簡易舗装の様な道路を時速100kmのスピードで走ります。
暗闇の中、対向車は全くいません。
時折、現地黒人が裸足で散歩しているのに会い、現地人は、テレビは無いし、ラジオは一部の知識階級にしか無い為、外に出て散歩するのだと、ガイドは説明していました。
約一時間で、ジャングルのやしの林の中にあるホテルに到着。
現地人の出迎え。
ホテルは20棟となっており、2名ずつ1棟に分宿となりました。
電気は無く、ランプ生活、お風呂はシャワーのみで、11時過ぎにはストップ。
その為、この日はシャワーで我慢。
前後するが、ランプの準備完了後、すぐ食事となりました。
食事は、非常にデラックス。
豚の丸焼き、キングフィッシュの丸焼き、タロ芋、果物と、更に生バンド演奏、飲み物は缶ビール、日本から持ち込んだ日本酒、ウィスキーと、食事は満腹であります。

野外では、慰霊塔参拝を済ませ、現地人と写真撮影後、部屋で寝る準備です。
蚊取り線香、虫よけ、ろうそくと、日本から準備して来た物の使用であります。
ジャングルの中の為に、蚊はすごくいる、やもりも出る、部屋には蚊帳と思っていたら、やもり よけが必要な程多い。

私は、最初からずっと浜崎さんと同室でお世話になって来ましたが、ここではお互いに蚊に悩まされて寝られず、夜中に起きて蚊いぶしをやり、部屋中煙で充満。
寝たかと思ったら"おはようございます"の外の挨拶で目が覚める。
鬼島町長さんは、眠れず、早くから海岸を散歩しておられた。
皆さん互いに睡眠不足気味。

午前九時には、日本領事館の平賀大使に面会の為に、一路ホニアラへ戻りました。
平賀大使より、ガ島の日本の役割、日本に対する期待感を詳しくお聞きしました。
一行、メンダナホテルにて休憩の後、日本軍が撤退したというエスペランス岬、日本兵が上陸した地点のタサファロング海岸、激戦地となった勇川水無川流域をそれぞれ長谷川町長さんに御説明して戴きました。

どの地でも今は何もなかったかの様な平穏ではありましたが、タサファロング海岸には、輸送船の残骸が今も尚、無残に残っていました。
41年過ぎた今も。
胸が締め付けられる思いでありました。

翌日は雨となり、慰霊祭は午後二時となりました。 雨も止み、白亜の慰霊塔の立つ血染めの丘で慰霊祭が伊藤団長の祭文により始まりました。

丘の周りには、我々の慰霊祭の響きが、どこまでもどこまでも届いていく、そんな広々とした丘であります。
参列者の涙はこの地に眠る英霊に届いてくれたことを念じずにはいられません。
戦争の体験の無い私がこの様に御礼を申し上げます。
私は、今回の研修旅行を振り返りまして、戦争という過去の日本の足跡と、それとは全く関係の無い、文明国家オーストラリアという二つの体験をさせて戴き、日本の現在の姿というものを振り返る事が出来ました。
生意気を申し上げますと、少しは、我々も地に足をつけそうな気がした今日この頃であります。

この旅行を通じまして、伊藤団長様始め各市町村長様、それに会議所の先輩の皆様、本当にお世話になりました。
これ程皆様の温かい心にふれた機会はございませんでした。
今後とも、よろしく御指導下さいます様お願い申し上げます。
全くお粗末な報告でありました事を、お許し戴き度くお願い申し上げます。










ガダルカナル戦没者慰霊団に同行して




新発田市大栄町 岩村 伴正

私は、戦後生まれで余り戦争に対しては知識が浅く、まえに聖籠町長さんが、自分自身の人生観が、ガダルカナルから生還してからすっかり変わってしまったと、仰っていましたのを心にとめてありましたので、このたびの慰霊団には無理にお願いして同行させて戴きました。

事前に関係資料等を、読ませていただいたのですが、およそ理解出来なく、わずか三泊四日のガ島滞在でしたので帰ってからもう一度読み返してみると、当時の状況がなんとなくわかりかけてきましたが、疑問に思うこともありました。

なぜ、遠く赤道直下で戦争をしなければならなかったのか・・・。
そのガダルカナルの戦いの結果が太平洋戦争の行方を左右した等・・・。

本作戦には、旧新発田連隊から二三〇〇余名の犠牲者を出したとのこと、二市北蒲原郡の新発田連隊に関わりの深い市町村長さんがそれぞれの遺族の願いを胸に、遠くソロモンの地で、先人達の戦いの跡地を長谷川町長さんの案内で見てまわり、故郷の状況を報告し慰霊し、ソロモン諸国政府、ホニアラ市を日本大使館の案内で表敬訪問し、後事をお願いしたのでした。
いま、1988年、新しい年をむかえて、当時を思い出すと、タンベアでのライスボールのおいしかったことや、マンゴの落ちる音やむし暑くてなかなか眠れなかったこと。
オーストラリアでのビール、羊肉がうまかったことや蒲城トリオの迷子事件、ドクターの三連続池ポチャゴルフなど、今になればいろいろ想い出されます。
わずか十日間の旅でしたが、それぞれの市町村長さんの人柄にふれ、やはりそれなりの地位にある人は違うな・・・と感心させられました。
次回を楽しみに、仕事にプライベートに頑張りたいと思います。

最後に団長さんをはじめ皆さんありがとうございました。




ガダルカナルの思い出




セキカワ専務 関川 正利

戦火というものを全く体験せず、戦後日本の復興と共に育って来た昭和十九年生まれの私にとっては、ガダルカナル島慰霊巡拝の旅に参加を希望した時点から、今回の企画にご苦労された聖籠町長さんには申し訳ない事ですが、物見遊山の気持ちが大部分でした。

フィージーやポリネシアの観光と違い、こうしたチャンスがなければ恐らく生涯訪れる事のない場所でしょう。
旅の思い出という事で、このガダルカナル島でのおそまつな出来事を御披露してみたいと思います。
暮れなずむホニアラ空港に降りた途端、あまりのムシ暑さにびっくり、赤道近くに来たんだなあと変なところで感心しました。
数時間前にはカラッと晴れ上がったオーストラリアに居たものだから、なおさらその湿気を感じたのでしょう。
税関の執拗な検査を受けてようやく迎えのマイクロ・バスへ。
不気味にさえ感じる夜道を四十数キロ、着いたところはロッジ形式のタンベア・ホテル。
今流行のアウト・ドア・ライフやらキャンピングが好きな私ですから、こうしたホテルも嫌いではありません。

むしろランプの灯に旅情をそそられて感激するほうなのです。
ところが、指定された部屋へ入るとベッドは二つあるのですが、支度は一人前しかしてありません。
一人部屋に二人が予定されていたのですね。
そこで添乗員と相談の上、同室者の小林政爾さんを寂しい部屋に残し、隣の部屋へ引越しする事となりました。
紫雲寺町長さんのところへ押しかけた訳です。

当初、枕と毛布さえあれば、せっかく蚊取り線香も持参した事だし虫よけスプレーもあるのだから、天井からぶら下がっている蚊帳など不要だとばかりに頑張ってみたのですが、ガ島のベテランであられる長谷川町長さんの『あの蚊帳は蚊よりも、トカゲやヤモリが天井から落ちてくるのを防ぐものなんだよ』という一言であえなく降参。
大慌てで移った事でした。
これが大好きという人は、そういないと思いますが、私は爬虫類を何より苦手としているのです(アウト・ドア・ライフの自称ベテランもあやしくなってきました)。

さて、部屋の移動も終わり、程よい酔いに身をまかせ、ベッドに入った訳ですが、どこからともなく"チッチッチッ"という音が耳に入って来ます。
これが例の爬虫類の鳴き声なのだそうです。
気持ちの良いはずがありませんが、蚊帳に入っている安心感とアルコールと疲労の助けでいつしか深い睡りに落ちていました。
目覚めるとすでに朝、鬼嶋町長さんはすでに散歩に出られたらしくベッドはカラ。
私自身はと見ると、何と自分のベッドから数メートルも離れた冷たいコンクリートの床の上ではありませんか。

蚊帳の中もなにもあったものではありません。
酒に酔った時に自宅でもたまに落ちることがあるのですが、どんな時でも落ちた瞬間に気付き、寝床へ這い上がるものなのに、今回はまったく意識なしでした。
幸いトカゲと添い寝した様子も、ヤモリに口付けされた跡もなくホッとしているところへ鬼嶋町長さんが戻って来られました。
『凄いカッコウでしたよ。証拠写真をと思ったけれど、武士の情けでネ・・・』と冷やかされる始末。

恐らく私そのものがトカゲのつぶれた様な姿だったのでしょう。
もし撮られていたら一生の恥となるところでした。
武士の情け、深く感謝致しております。
その日、タンベア・ホテルより市内中心部のメンダナ・ホテルへと移動。

そのホテルのレストランで海を見ながら美味しく昼食をとっていた時のことです。
食事中に何かを探す都合があったのでしょう。
私が何気なくバッグを開けると、一匹のトカゲがニュッと顔を出したのです。

その時の驚き!

どなたかにすぐにトカゲを始末して頂きましたが、胸の動悸がしばらく治まらなかったものです。
いつもぐり込んだのかは解りませんが(解っていたらこんな大騒ぎはしやしません)、嫌いだと騒いでいる本人が後生大事にトカゲを半日も身のまわりに置いていたのですから、皮肉なものです。
私の昼食はそこでストップ。

その後全然料理に手が出なかったそうです。
驚愕のあまり、前後の記憶が定かではないのですが、皆さんよく見ておられますね。
この他、別のメンバーの部屋で酔いつぶれ、自室まで担ぎ込まれた事とか、今度の旅行は本当に恥ずかしき事のみ多かりきというところでした。

ガダルカナル島の、というより旅行全体を通しての白眉、なんといっても慰霊祭でした。
ガ島在住の日本人多数に参列して頂いての慰霊祭は厳かこの上なく執り行われ、戦跡めぐりもそれなりの感激はありましたが、この時に私の物見遊山的気持ちは完全に吹っ飛んでしまいました。
私の年代ですらそうなのですから、団長をはじめ、同行をされた諸先輩方々の声が潤み目には涙の浮かんでおられたのは当然の事だったでしょう。

特に私にとって印象深かったのが聖籠の長谷川町長さんと新潟の青木さんでした。
お二方とも四十五年前のガダルカナルでの激戦の体験者だそうですが、長谷川町長さんの静かなお顔や言動から、亡き戦友への懐かしみ、無残な死に対する憤り、そして戦友に再び逢いに来られた安堵感といったようなものが(うまく表現出来ない筆の未熟さが残念です)痛いほど感じられたものです。

また、青木さんは持参されたウィスキーを慰霊碑に注ぎながら、戦友に静かに語りかけておられました。
極限の状況の中で苦しみながら死んでいかれた戦友たちへの変わらぬ友情の発露だったのでしょう。
まるでつい最近亡くされた友達に語りかけるが如くでした。
偶然私は耳にしたのですが、不覚にも眼鏡が涙で曇ってしまったのです。

戦記物や反戦物を百冊読むより数倍も、この地獄を見てこられたに違いないお二人のガダルカナルにおける何気ない言葉や態度が、戦争の何たるものかを私に教えてくれたのです。
戦争がいいとか悪いとかの問題以前に、我々の数多くの先輩たちが故国から数千キロも離れた異国の地で眠っているという事実を決して忘れてはいけない事でしょう。

前回の中国東北地方の視察旅行の際も感じた事ではありますが、今度のガダルカナル島の「血染めの丘」に立ってみて、先人の犠牲というものをより一層感じた次第です。
残念ながらガ島滞在中は快晴に恵まれた訳ではありませんが、それでも海岸の素晴らしさには目をみはり、素朴で人情味豊かな土地の人々とのふれあいには何とも知れぬ暖かさを感じました。

いづれこのソロモン諸島もヨーロッパやオーストラリアの人々ばかりでなく、世界中の人々のリゾート地、マリーン・レジャーの盛り場として脚光を浴び、発展していくのではないでしょうか。
そして私にとって忌まわしくも懐かしいタンベア・ロッジも素朴さを失う事なく隆盛していく事でしょう。

つまらぬ事、小賢しい事を書きつらねました。
末筆ながら、旅行中一方ならぬお世話をお掛けいたしました首長諸先生方、新発田商工会議所一行の皆様に厚く御礼申し上げます。
楽しい、そして素晴らしい旅を有難う御座いました。














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