日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣
慰霊巡拝 ガダルカナル島の祈り
眠れぬ一夜タンベアの思い出
浜求商店代表 浜崎 求六
空港より二班に分かれ、メイドインジャパン「マツダ」のポンコツバスに分乗、七名一路タンベアへ向かう。
あたりはすでに黄昏時、爆音高らか韋駄天走り、狭い橋を何ケ所か渡ってようやく到着。
体も荷物もホコリまみれ、ニッパ造りのバンガローに二名づつの部屋割りである。
荷物の整理やシャワーも食事の後でと言う事で急ぎ食堂へ行く。
そこでは、鳴りもの入りのガシャガシャ生バンド、メニューはといえば豚の丸焼き、一米位のサヨリに似た焼き魚、ローカルフード豊かにタロイモ、バナナの葉で包まれ蒸された数々のごちそう。
なんと「おにぎり」まで出るしまつ。
ものめずらしく色々戴く。
常夏の一夜、とにかく暑い、かなりの湿度である。
夜半は強風から嵐になりそうである。
うす暗い部屋のランプの燈がなんどとなく消える。
いやおうなしに木の実(マンゴーの実)がバンガローへとすさまじい音で打ちぶつかりあう。
とにかく暑い、うす暗い部屋のランプの燈、蚊取線香を数ヶ所ともす。
ツンーという蚊の声、すでに何ヶ所か食われていた。
日本の蚊取線香も通用しない。
天上に何かすばやく動く気配、懐中電灯で照らすとヤモリである。
枕の下でケケーと言う甲高い鳴き声、いやはや大変な所へ来たもんだ。
色々なことが思い浮かぶ・・・。
帝国陸軍の大敗北の場である。
日本本土より六〇〇〇K、南海の孤島、郷土の十六連隊が二五〇〇名もこの地で帰らぬ人となった。
何も知らずに戦いに挑んだ若者が、弾丸もなく食い物もなく風土病の病魔に犯され極限を越え、生死をさまよい命を落とした。
考えれば考えるほど痛恨の極みと言うしかない。
一指導者の誤った判断が大変な犠牲を生み、大きな災いとなる。
可哀想と言うか残念と言うか、私達の息子達の年頃だったろうに、ひしひしと胸の痛みを覚えて眠られぬ。
幼少の頃、新発田駅の駅頭で何度となく〇〇方面の白木の箱の英霊を迎えた。
鎮魂のラッパが響き、「ガ島」より無言の戦士の凱旋は白木の箱が小さくなり、一名の兵士が3柱づつ胸に抱き延々と続く長い隊列であった。
未だに記憶がはっきりしている。
あれから四十数年、今日の日本は信じられぬほど成長した。
この陰にはこのような犠牲があった事を思うと、心より深く深く感謝し頭の下がる思いである。
一日一日を大事にし、戦争の知らない若者にもこの大戦の激戦を正しく語りつぎ、二度と前車の轍を踏ませてはならない。
一層の自覚が我が大脳に刻み込まれる。
何度寝返りをうっても眠れぬ夜であった。
ふと目がさめたら表は明るく人の話し声、夕べの嵐は嘘みたいに目の前は静かな渚であり、涼しいそよ風が頬をなでる。
平和でのんびりした「ガ島」である。
荷物をまとめて早く集合、さあこれから戦跡を巡り心から哀悼の意を秘めながら巡拝がはじまる。
生きていた
新潟市白山浦 元新発田16聯隊第二大隊本部 青木 丈夫
こんな地獄の様な戦線で、ある日突然。
「今日新しい部隊が上陸して総攻撃をやる、我々は軍艦に乗って今度は飛行場正面から逆上陸をして飛行場を占領する、依って急いでエスペランスに集結せよ」
との命令で、今日は死花を咲かせる時が来たかと、殆ど動けない様な体と心にムチを打って半分這いずりながらエスペランスへ向かう。
だがエスペランスへ着いた時、先ほどの命令は何時の間にか変更になり、この島を去って別の場所へ移動するのだとの話に、あゝこれでどうにか生きられるかと、ホッとした様な、気合抜けした様な気持ちでゴロリと引っくり返り、ウタゝ寝した。
何かうとうとした気分で居ると、「青木上等兵殿メシが出来ましたよ」と、第二機関銃隊の丸山君が何時の間にか暖かい醤油メシ(粉醤油を交ぜたもの)を炊いて持って来てくれたのでありがたくこれを頂いたが、いやそのうまい事、世の中にこんなうまいメシが有ったのかと夢中で食べ終え、人心つき、少しは元気になった。
やがて日も沈み夜、はるか敵飛行場方面に艦砲射撃が始まったと思っているうち、大小の発動艇が海岸に近づき、先ず負傷者を運び次いで私達を乗せ駆逐艦へ、艦へ横付けになると大きく舷側に張られた網があり、伸び上がってこれに手を掛けると甲板に並んだ水兵が「よいしょ!」と引っ張り上げ、「兵隊さんご苦労さん」と、声をかける。
あゝ助かったと思わず胸が熱くなって泪が出た。
艦は我々を乗せ終わると全速で発進した。
素晴らしいスピードだ。
ガ島よさよおなら、とつぶやいたものゝ命令とは云え、各所で戦友とは生き別れ、又骨さえ拾う事なく着の身着のまゝで去ったガ島、何となく悔やまれ、生があったら一度は訪ねてお参りをしたいと思っているうち、機会に恵まれ昭和四十八年には政府派遣の遺骨収集に参加。
五十七年には、遺族の方、戦友を交え巡拝に、今回は北蒲原郡町村会ほか有志のお方に同行させて頂きお参り出来ました事、ほんとうに有難うございました。
慰霊祭には現地の花などで立派に飾られた祭壇、そこには日本より持参のお供物の数々、参列の私等一同はもとより、平賀大使夫妻、在留邦人、青年海外協力隊員、折から遺骨収集に来た先発隊の方々や現地の人も参列し、大法要を営んで頂き、特に新発田地区の曹洞宗常勝寺より来られた、法衣に正装された栗橋住職の唱えられた蜿蜒、嫋々と流れる読経と日本から持参した鐘の音は、きっと、ガ島にねむる戦友達の耳に、心に伝わったと思います。
「戦友たちよ、これで安らかに眠ってくれ、米も餅も酒も菓子も、夢の中で見て語り合った甘い物、羊羹やまんぢう、タバコも供えた、十分とわ云えないが、食べてくれ」、私は心の中に戦友に告げ、このような素晴らしい慰霊祭を催して頂き感謝の気持ちいっぱいで半泣きになりながら写真を写していました。
慰霊祭の終った後、私の気持ちは、フッと軽くなり、今まで溜まっていたもの何か重苦しくつきまとっていたものがスーッと消えて行った気持ちになりました。
皆様ほんとうに有難うございました。
亡き戦友もガ島のどこかできっと喜んでくれた事でしょう。
====帰国後便りを戴いて====
新津市新栄町 柳 静江
前略
突然不躾なお手紙差し上げますこと何卒お許しください。
私は新津市在住の柳静江と申します。
先頃、日報紙上に加治川村村長様のガダルカナル巡礼を拝読致しました折、聖籠町長様がガ島生還のお方と御座居ましたので失礼とは存じましたが、筆をとらせて戴きました。
実は、私の兄もガ島に参りまして、戦争中書きました日誌が、戦友で当時部下で御座居ました皆様のお力で、一冊の本にして戴きました。
兄が亡くなりまして丁度七回忌の年で御座居ます。
兄の葬儀に駆け付けて下さった皆様方が、何か思い出のものがないか見せて欲しいとおっしゃいますので、遺品を全部お目にかけましたら日誌が出てまいりました。
皆様方は、これがどうして持って帰られたかと不思議がられましたが、兄がガ島で戦死なされた方々の御遺骨を捧持して参りました折、士官は行李一個検閲なしに持って来られた由にて、大学ノート二冊の日誌を忍ばせて参りまして家に残して帰りました。
そして終戦、無事に帰って参りました兄の手に日誌は戻りました。
そして五十一年七月兄他界の折、ご覧下さった皆様が、このまま埋もらすべきものでないと子の様な本にしてくださいましたので御座居ます。
戦死なされた御家族様には、とてもお目に掛けられませんが、御生還なされました町長様に思い出などと申し上げては失礼と存じましたが、お暇の折にお目を通して戴けませば、兄への供養にもなるかと存じまして失礼を顧みず送らせて戴きました。
尚寒の折、御健康にお過ごしなさいますよう心よりお祈り申し上げます。
かしこ
十一月六日
柳 静江
長谷川町長様
本の著者は、元第二師団野砲兵第二連隊陸軍大尉 庭野 静三氏である。(長谷川 栄作註記)
西蒲原郡巻町 佐藤 利子
私、西蒲巻町在住の四十七才の農家の主婦で、実は、十月二十三日付・日報で貴方様がガダルカナル島を訪問された事を知りました。
ほんとうに御苦労様で、さぞかし万感の思いだったと・・・残念ながら私の新聞は南判で「ガダルカナル巡礼」が連載されていないのです。
実は、私、八月十三日日報「窓」欄に投書した「まだ見ぬ父眠るガ島へ」微筆ながら目を通して戴けたら幸いです。
十一月十九日出発予定だった「ガダルカナル島戦跡慰霊巡拝団」の一員に参加させていただきたく希望したのですが、当時の関係者様達は、もはや高齢に達し中々三拍子そろわなくては、・・・そんな都合で来年(未定)に日延べが決定した次第ですが、私は何か行く事が私の人生のけじめをつける様な気がしてなりません。
そんな折、女性が行った事のない南海の島、全然想像もつきません。
私自身不安で不安でどうしようもありません。
ほんとうにお忙しい中、もし私如き者に寸暇をさいて現状をお聞かせいただいたならば、ほんとうに幸せと存じます。
二伸で
佐藤さん念願叶い今年六月新潟日報旅行社企画のガ島巡礼団の一員として出発する事に決定した旨の便りありました。
無事念願達成を祈ります。
(高橋 公則註記)
====うたに託して====
聖籠町長 長谷川 栄作
一万二千の空高く 八五〇キロの足速で
ソロモンめがけて ジェット機は飛びゆく
戦友(とも)が呼ぶ ソロモンの果て空遠く
老の身ふるって 我はいどまん
七十のよわい生きて鮮烈に想い出語れる
激戦の様を
吾れとてもガ島の土と 化したとて
何の不思議もなかったに 命永らい今ここに立つ
夢の夢現世の事とは 思わざり
生きてガ島の 土の香に伏す
逝(な)き友に勿体なさの満腹で
ネクタイしめて我れ巡拝に詣でる
千代八千代 日出づる国の栄えいで
誓いて 生きなん戦友(とも)のみ霊に
人や先 我や先 今か今かと死を待てし
タコツボむなし ホテル建ちおり
青春の血潮に染めし 南冥の
ガダルカナルもひらかれて 友の眠れる極楽浄土
珍しいところに 行きますねと税関史
戦争を知らぬ 若い人なりき
熾烈なる戦火の跡は傷癒えて
現地の子供 喜々とたわむる
ひびけ全ソロモンの戦跡(いくさあと) 常勝寺の鐘は鳴る
冥府の戦友(とも)も聞けよかし
悲惨なる戦場の跡かたもなし
平和なる血染めの丘に人家居並ぶ
住職の亮々と経音流れゆく
血染めの丘に幾万の戦友(とも)のみ霊よ 安らかに
故郷のあの川 あの山語りつつ
突如の弾で散りにし君は
しんしんと孤独の壕に 夜は更けて
天地に一人 残りし我れか
この島に生きて皈(か)えれる すべはなく
みな黙々と壕を掘りおり
君掘りし壕のお陰で助かりし
命永らい 君逝き給う
食べたいなあ 飲みたいなあ
云いつつ細り死せし君 せめて御供物召しあがれ
人より喰いしんぼうな君なれば
ガ島の飢餓も応えたるらん
ガダルカナル島
オーストラリア紀行雑詠
1.成田空港に思う
○入口に検問あり空港は
平和日本の玄関なれど
○旅するみな喜びて空港へ
何故に暴れる集団のある
○いつ来ても人人人の空港は
新婚・O・L・ゴルフ棒もち
○来る人も旅立つ人も数あまた
平和に日本は金も豊かに
2.キャセイ航空香港経由す
○いつ出るか出発時刻の早すぎて
キャセイ航空一時間も遅れ
○まさかとは思えど飛行機事故のこと
遅れ気づかいし思いめぐらし
○機内食フォークにナイフにスプーンまで
メイドインジャパンと燕市産か
○せまい席同じ食事も五〇〇人
バタリー鶏舎を想いて笑う
○ブランドのしるし値段を吊り上げて
それを買わんとO・Lあわれ
3.オーストラリアは美しかった
○タクシーもバスもトラック日本と
同じに走るも空は青けり
○百花咲くブリスベーンの空どこまでも
澄みて青けり春先にして
○どの都市も日本の料理ありみそ汁も
持参してきしインスタントいらず
○ここえ来ても日本のスエヒロ店かまえ
米飯みそ汁シャブシャブまでも
○シドニー湾ディナークルーズフルムーンも
新婚カップル幾組みもいて
○シドニー湾かつての軍神潜航艇
今フルムーンが妻を抱きつつ
○この肉も日本の市場へスキあらば
広い農地に牛も羊も
○ステーキの味も量にも満ちたれど
農薬汚染のニュース気になり
4.ガダルカナル島は暑い
○はだしにて砂利を平気でどこまでも
彼らのハウス山裾に散らばる
○真黒く頑丈な体と思えども
寿命四十五才とマラリアのためか
○注文をうければ愛想よくvサイン
二つの注文ともにかなわず
○TAXIを「的士」と表示しホテル前に
日本の商社がソロモンの島も
○色各種ハイビスカスの白珍花も
ブーゲンビリアもさすが熱帯
5.タンベアビレッジホテルは眠れなかった。
○薬まき蚊取線香煙あげ
寝苦しき宿にヤモリまでもが
○海風の強き夜中に屋根たたく
マンゴー落ちて眠りあたわず
○上くびれ丸型のカヤに体(タイ)丸め
蚊にさされまじと暑さこらえて
○握り飯をライスボールと教えこみ
持参の生みそつけてほうばる
6.心をこめて慰霊祭
○この丘も血染めて命落としたる
若き兵らは故国(クニ)をひたすら
○花にうめ四十五年の寂しさを
今慰めん故国(クニ)の香(カ)捧げて
○ソロモンの天に響きて地にしみて
故国の僧の経をききませ
====オーストラリアの思い出====
吉田農事社長 吉田 那雄
今回のオーストラリア、ホニアラ行政視察旅行に初めて参加させていただき、最初から最後まで楽しく過ごす事が出来ありがとうございました。
私達は、最初オーストラリアのブリスベンに到着し、ここで一泊してから翌日ガダルカナル島に向かったわけですが、私だけこのまま残ることになりました。
そのブリスベンや、その近郊で過ごした三日間の思い出をや感想を少し述べさせていただきたいと思います。
ブリスベンで私一人が残ることになった切っ掛けは、私の取引先の会社の支社がオーストラリアのブリスベンに在り、以前からもしオーストラリアに行く機会があったら、ぜひ訪ねてくるように、その会社の人達に言われていたので、折角の機会なので、わがままを言わしていただいて、残らしていただきました。
私達がブリスベンのホテルに到着するとすぐに取引先の会社(ICI)から早速私を迎えに来てくれました。
迎えに来てくれた人は、ミスター・ジアークという人で、年齢が五十才ぐらいの人で、彼が私を三日間いろんな所に案内してくれました。
彼は、四年前に南アフリカのヨハネスブルグから家族と一緒に移住してきて、現在ブリスベン郊外に住んでいます。
彼も彼の家族もすっかりこの町が気に入って、ずっとこれからもここで住むそうです。
到着した日の夜、早速彼は、レストランに連れて行ってくれ、オーストラリア・ワインを飲みながら、生がきと厚さ十糎もあるステーキを御馳走してくれました。
又、そのレストランで働いている若いウェイトレスが、ビックリするような美人で、話し掛けるとかわいい笑顔で恥ずかしそうにしながら返事をしてくれたことを思い出します。
カメラを持って行って彼女の写真を撮ってくれば良かったと後悔しています。
残念でした。
翌朝、彼は早い時間に私の泊まっているホテルまで迎えに来てくれました。
この日は、ブリスベンから西へ二百キロぐらい内陸に杯って農家や農業資材の販売会社の人達に会う予定なので、ネクタイを締め、背広を着て待っていると、なんと彼は半ズボンにポロシャツ姿で現れました。
オーストラリアでは、会社で仕事をするときでも、人に会うときでも、ネクタイや背広は不用で、どんな服装でもかまわないそうです。
どうりでオーストラリアでは、どこへ行っても半ズボン姿の人が多いのには驚きです。
ホテルから彼の車で出発するとき、どうも左側のドアの下が、かなり凹んでるので、なぜこんなに車のドアが凹んでいるのか彼に尋ねると、これは車を運転しているとき、カンガルーがぶつかってきて凹んだそうです。
オーストラリアで凹んだ車が多いのは、殆どがカンガルーにぶつけられた跡だそうです。
ブリスベン市街地を通り抜けて郊外になってくると、だんだん樹木が少なくなり、砂漠の景色に変わってきます。
途中テウンパ(Too-woomba)と言う町を通ってダービイー(Dalby)という町に向かって行きましたが、道路の両側とも殆ど砂漠で、時々スプリンクラーで水を散水している耕地が、その所だけ緑色になって点在しています。
ミスター・ジアークの説明によると、この地域の主な農産物は、小麦、とうもろこし、綿花などがよくできるそうです。
このあたりの農家の耕作面積は約五千町歩で、大型機械や飛行機を利用して農業を営んでいるそうです。
日本の農業と比較すると、あまりに規模が違うので、ただびっくりするだけです。
将来この土地で日本の高度な栽培技術を活かすことができれば、すばらしい農業を営むことができるのではないかと思います。
ダービイー(Dalby)まで相変わらず裁くの景色が続きます。
前を見ても後ろを見ても地平線まで同じ景色です。
自分たちの乗った車が走っているのか、止まっているのか、わからなくなるぐらいの感じです。
そのような単調な景色をぼんやり眺めながら進んで行くと、突然遠くの前方にかすかに大きな湖が見えて来ました。
私が「あっ・・・!」と大きな声で叫ぶと彼は私に「それはミラージュ(蜃気楼)だよ」と笑いながら説明してくれました。
よく映画なんかで、砂漠で遭難した人がオアシスの蜃気楼を本物と勘違いしたように自分も本物の湖と勘違いしたので、映画で見た場面を理解できたように思いました。
ブリスベンから約三時間、やっとダービイー(Dalby)の町に着きました。
この町の人口は約五千人です。
オーストラリアの町は、この町のように五千人から七千人くらいの町が殆どのようです。
それでもこの規模の町でも必ずゴルフ場と飛行場があるのには驚きです。
このようにしながら、ブリスベン近郊を三日間、いろいろ見学することができ、楽しいオーストラリア旅行でした。
足をのばして
加治川村長 高橋 公則
日本から直接ガ島への直行便がなくオーストラリアのブリスベーン・シドニーに投宿した。
入国の税関は申告制のみで荷物検査が殆どなく、オーストラリアののんびりさ、大きさを感じた。
百花咲き誇り春先の素晴らしい快晴、空はどみ迄も青い。
ブリスベーンの日曜日の市街は車、人通りも数える程しかない。
日曜日は家庭内で徹底的に休むか、家族で遠出をしてしまい街には出ないそうだ。
木造住宅付約二百坪土地で日本円で六百万円、二人で月十二・三万円で生活できると言う。
年金暮らしの人には喉から手が出そうだ。
空気が澄み花や緑がいっぱいで人も大らかで老後の移住には最適と言っていた。
郊外の住宅は道路に面した玄関側には決して洗濯物は干さないし、アパートにも外への干物は見られずつつましやかな住民性に感じ入った。
牛肉、野菜、米、果物、魚介類等豊富で原産地のビールの味は日本に劣らないし、ワインは絶対うまい。
日本料理店も多い。
勤労者も年休暇三十〜四十日もあり、一括してとると17.3%の手当てを加増する。
又公務員は土・日曜休みの外に月一回金曜日も休暇とか。
全く羨ましい限りである。
だが今そのひづみが国家財政を圧迫し始め、政府は17.3%手当カットと金曜日休日返上を勤労者に要求交渉中とのこと。
働かないで金だけ貰うのはやはり何処かに無理が来る。
シドニーはさすがに観光地でブリスベーンの様なのんびりさは無く、日本程ではないが忙しそうに人も車も混雑していた。
函館・香港等及びもつかない百万$の夜景を眺めながらシドニー湾のディナークルーズの客は殆どが日本人。
新婚カップル、フルムーン旅行組で満席だった。
郊外の農場を見学昼食をとった。
自家製ワテン飲み放題、分厚い牛肉のステーキはさすがに肉好きの私も完食できなかった。
農業事情等はもっと探りたかったが時間がなく残念であった。
農家の皆さんが色々と工夫をしている数々に感じ入った。
たとえば農業機械等随分古くなっても自分で修理しながら耐用年数以上に使っている。
牛革を自分の農場でなめして、革のコースターを作って売り出したり、カンガルーの陰嚢を加工して袋物にし「幸袋(サチブクロ)」として日本人等へ売っている努力に頭が下がった。
日本の農家ももっと創意工夫の必要さを学ばされた。
シドニーにて
浜求商店代表 浜崎 求六
ご一行より、失礼させて頂いて、ゴルフ愛好者有志だけ異郷の地でのプレーと言う事で意見一致、6名2チームで車を飛ばす。
Y社長、語学堪能なので、通訳をお願いする。
料金は、日本と違い超格安2,500円、気分最高。
ガ島と違い湿度がなく、カラリと晴れあがった絶好のゴルフ日和、雲一つない広々としたゴルフ場、思い切り楽しむ。
クラブの食堂での昼食は、ビールで乾杯。
大きな牛ステーキ、ラムステーキは、大変おいしく特にラムステーキはペロリ二枚戴く。
帰路は、二台の車で分乗し市内トラベルロッジへと急ぐ。
おなかは満腹、適度な酔心地で眠りにつく事しばし。
運転手君に起こされ「サンキュウ、ハウマッチ」と尋ねれば18ドルと言う、2ドルチップを払って急ぎフロントへ向かう。
T先生先頭に「309ナンバースリーオーナイン号」と云うと、カウンター越しに「ノウ」の返事が返ってくる。
一同顔を見合わせ少し様子がおかしいと思い、ここのフロントが違うのではないか、昨晩到着した時は、脇の階段より昇ったはず、思い出して、E専務が脇へ行ったけれど階段なんか無いと言う。
看板を見れば「トラベルロッジ」と書いてある。
さあ、これは違うトラベルロッジへつけられた。
困った、三人の中で誰か会話が出来るだろうと思っていたが、ままならず、しかも誰も宿舎のTELも住所も、わからず、さあ大変とんだハプニングである。
こうなれば度胸を据えて、フロントにチャレンジである。
「オーミーテイク」「インホテルスピークジャパニーズ」フロント内で、またも「ノウ」である。
表へ飛び出し日本人が通らないかなあ!
E専務、一生懸命体当たり東洋人らしきもの言葉かければ、フィリピン、バンコック、と返ってくる始末。
「オイ、この辺で、まずビールを一杯飲んでかかりましょう、三人寄れば何んとかなるさ!」
コップを傾けることしばし。
しかし三人がん首揃え、困った顔つき、たかが単語を並べて、手まね足まね、フロントへ行ってシドニー市内のガイドマップを請求したら一枚もらった。
2班に分宿しているので小生のホテルは、一応見当がついた。
まもなくチーフらしき男が、ジャパニーズスピークのわかる人がこのホテルにいるという事で「ジャストモーメント」と言ってきた。
シドニーの春、さすが夕方遅くなるとしんしんと気温が下がり心細くなる始末。
突然大柄な可愛い女性が現れた。
Yドクター元気を取り戻し色々尋ねた。
一年前、仙台で日本語の勉強をしたことまではわかるけれど、どうもこの娘も我々クラスの単語会話で遅々と話が進まない。
わかった事は、このホテルのチェーンは、市内30箇所もあると言う。
Y専務が表を眺めていたら日本人らしき女性が、買物袋を下げ、こちらの方へ向かって来る。
まぎれもなき日本人である。
「あ、助かった」皆安堵し、忘れかけた単語も飛び出す始末。
ホテルの可愛い娘ちゃんと主婦の方にペアで協力して戴き各ホテルへ電話し、突き止めてもらった次第である。
シドニー港の反対側につけられたのである。
T先生、感謝の気持ち一杯、青い目の娘さんに多額のチップ弾む。
遠慮してモジモジしていたが喜んで受け取ってくれた。
すぐ、ハイヤーを手配してもらったが、なかなか来ず、しばらく待って、ようやく来たマンマンデーハイヤーで、我々宿舎へと直行、三時間余りの苦悩の一コマであった。
編集後記
帰国後直ぐにと予定を立てておりましたが、遂に年越しをしてしまって誠に申し訳なく思っております。
郷土部隊の英霊供養を赤道直下ガダルカナル島で実施出来た意義を、末永く残したい希望で団員各位より大へんなご協力をいただき感謝しております。
写真をなるべく多くと思い、団員各位の労作を勝手に採用させていただきました。
又当時を偲ぶ貴重な資料を水原町丹治氏、加治川村織田氏はじめ青木団員からお借りしました。
聖籠町長さんの計画やご案内に心から感謝し、又出版に当たり鬼木・島津両印刷所の特別のご奉仕をいただきました。
戦争の無惨さを知り、英霊達のお陰で今がある事への感謝、更に平和日本の構築への誓い等再確認の資としたいものです。
ガ島のみならず全地域で犠牲となられた英霊のご冥福を祈り、ソロモン国等のご発展を祈念し後記とします。 合掌
1988 ガダルカナルの祈り 視察報告記
昭和63年発行
編集発行者 新潟県北蒲原郡町村会