日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣
慰霊巡拝 ガダルカナル島の祈り
ガ島巡拝と行政視察団の一員として
鬼木印刷代表 鬼木 雅治
九月二十六日に出発した九日間に亘る旅行を振り返ってみると、北半球から南半球へと片道十時間幾余にも及ぶ空の度で、オーストラリアからソロモン諸島へ亦オーストラリアと何んとなく気忙しい旅であったが、目的がガ島巡拝と行政視察、それなりに得難い体験が多く、タンベアのビレッジホテルの宿泊は、普通では体験の出来ない思いで深い一夜であった。
翌朝、日本軍の上陸地又遺骨の収集箇所でもあった墓地を参拝して、バスに分乗しホテルを出発、日本大使館へ向かった。
平賀大使の説明によれば、日本政府からは十億円もの援助資金が贈られており、十五名の海外ボランティア青年隊も居て、カツオ、マグロ船の漁業基地や缶詰工場、ヤシ、ココナツの栽培等も行われ、将来有力な鉱物資源が見込まれているとのお話であった。
ホニアラ市役所訪問では、我々一人一人が会場入口で生花のレイを首に掛けてもらい、サッソーと入場、伊藤団長とウオーレ市長の記念品交歓に続いて相互の訪問と歓迎のメッセージが交わされ、次いで市職員に缶ビール、マンゴー、パパイヤ、ヤシの汁等でサービスを受け、裸足の人も混る市会議員とジェスチャー、手真似で和やかな交換会が行われた。
ホニアラ政府表敬訪問では、団長の記念品贈呈と挨拶に続いて副大統領(次期大統領)より日本政府の友好とご援助には大変感謝しておりますが、今後とも一層のご支援をお願いする旨の言葉があった。
翌日、平賀大使夫妻と海外協力隊員二人(一人は上越市出身)を招いて、ホテルの広間で、近市長主催の昼食会が行われ、午後巡拝予定地の一つであるヘンダーソン空港の裏手に当たる、新発田部隊が夜襲を敢行し、死闘を繰返された戦場の中央の丘で線香を手向け、栗橋所長の読経にて団員一同合掌しつつ冥福をお祈りした。
続いてバスを返し、戦友・戦没者遺族の浄財によって建立された高さ41mの白亜の塔が立つ血染めの丘に登り、平賀大使、在住日本人家族を混えて盛大なる慰霊祭が挙行され、伊藤団長、平賀大使に続いて我々も一人一人が祭壇に額づき焼香した。
伊藤団長と近新発田市長の慰霊文の朗読と読経の流るる間、この戦場で散った諸先輩の姿が彷彿と溢き上がりいつまでも涙が止まらなかった。
今でもあの丘に咲くハイビスカスの赤い花が思い出される。
十月二日、
七日目の朝、バスで市内視察、シドニーは丘の上に広がる町で丘と丘の間には、いくつかの入江があり、ヨットやボートの繋がれたヨットハーバーが臨まれ、緑と青い海面の交錯する景観は、さすがのものであり、ポートジャクソン湾、べネロング岬、オペラハウスがひと眼で見下され、オートスラリアが世界に誇る絶景である。
有名なハーバブリッジを渡り、キャプテンクックを始め、美術館、議事堂をバスの窓越しに眺めつつガイドの説明に耳を傾ける。
岬の先端に聳え立つオペラハウス近くでバスを降り、工事現場を歩く。
オペラハウスは1957年西欧諸国のデザインコンテストに優勝したデンマークのウォッオン氏の作品で恰も洋上に浮かぶ帆船の勇姿であり、この建築はシドニー湾上の景観を誇るペネロン岬の岩盤上に一億二千万ドルの巨費を以って1973年に竣工し、二千七百人収容のコンサートホール劇場、千五百五十人収容のオペラ劇場、映画館があり、正面左側にはレストランもある。
高さ六十七メートルの素晴らしい大建物である。
残念ながら休みで内部は見ることが出来なかった。
再び車上の人となって、次の目的地である、旧ワイン工場跡の牧場に向かう車窓より見られる風景は煉瓦造りの家に赤い屋根、空地はユーカリの庭木に刈り込まれた芝生、すっきりと決まった実に羨ましい住宅環境で、バスが快走する郊外では、通常日本で見られる田園風景や立て看板は見られなかった。
しばらくして牧場へ到着、昔の倉庫風の建物で、入って見ると薄暗くて西部劇で見る感じのレストランである。
若い女性と中年の女性が盛んに肉を焼いていて、先客が十名位食事中だ。
此処では大きなステーキと美味しいパンにワインで昼食をとった。
食事後近くの牧場に出てブーメランの投げ方を習ったが、なかなかうまくいかないものだ。
次いで牧場犬の羊群を誘導する演技や羊毛の刈取りの実演を見て、シドニーの町へ引き返した。
十月三日、
デラックスホテルマンリーパフィックホテルの個室で爽やかな気分で目を覚まし、時計を見ると六時、カーテンを引く、街路樹越しに茜色のウス雲が棚引いてめったにお目にかかれない南半球の朝明けだ。
早速トレーナーに着替え、エレベーターで一階のロビーに降りる。
フロントには誰も居ない。
道路に出ると向かい側には中古車の展示場、日本車、外国車と各国の車がズラリと並んでいる。
車道の前は緑地帯、桜の木に似た二十メートル位の大木が二〜三列に立ち並びホテルを海から守る様に遠々と続く。
緑地帯をぬけると巾十五・六メートルの遊歩道だ。
新潟・山形の県境を走るおけさ・おばこラインそっくりの堤防があり、下は砂浜の海水浴場だ。
波打ち際まで五十〜六十メートルはある。
右の方に耕運機そっくりのトラクターで、ゴミを拾いながら清浄中である。
日本の海水浴場では見受けられない。
全く素敵なマリンビーチだ。
早朝のせいで未だ人影は無い。
気温十五・六度、波は静かで左前方でサーフィンを楽しんでいる若者らしいのが見え、遥か遠くに高層ビルが朝霞に浮かんでいる。
遊歩道では、親子連れ、老夫婦、若い男女のジョギングオンパレードだ。
歩いている人はいない。
みんなそれぞれ思い思いの速さで走っている。
雑談を交わしながら楽しそうなグループもいる。
私もカメラのシャッターを切るのも忘れて思わず仲間入りして走り出した。
黄金の朝日に輝く水平線を横に眺めつつのジョギングの気分は最高である。
六年前、しばた女子マラソンに米国からパットストーリーという選手が特別参加したことがあった。
聞くところによれば彼女もジョギングからマラソン選手になったとのこと。
米国ではジョギング人口は二〇〇万以上もいるとのことであったが、このオーストラリアでも多くのジョギング人口がいるものと思われ羨ましい感じがした。
さて、終わりにのぞみこの素晴らしいチャンスを与えてくだされた伊藤団長始め、皆様に感謝して筆を置く。
"一枚の写真"成田一男さんを思う
島津印刷代表取締役 島津 憲一
旧制中学時代の古い私のアルバムに一枚の写真がある。
成田一男さんの写真である。
その写真のわきに「この島小さかるとも我退かば国危うし」と書いてある。
成田一男さんはガ島の地で戦死されたのだ。
成田さんとの出会いは新発田の町にチブスが流行した年があった。
昭和十六年夏、たまたま親戚にもチブスが発生、そこに下宿していた将校さん二人を拙宅にお引き受けすることになった。
チブスも下火になり病人も治癒、一人の将校さんは元の下宿へもどられることになった。
なぜか成田さんは我が家にそのまま下宿されることになった。
当時私は中学三年生、年長の兄貴のような気がして尊敬していた。
お祭りに一緒したり町の散歩もときどきおともした。
中町のナカヤさんのシュークリームを山ほど買って来て一緒に食べたことなどなぜか記憶に残っている。
多分食べ盛りのこととてそんなことがやけに記憶にあるのかも知れない。
当時南の戦線も徐々に苛烈を極めていた。
愈々戦地へ行くと云うことで私に一枚の写真を託された。
その写真が前述の写真である。
成田さんは三条の出身で福島高商出の陸軍少尉二十三才であった。
ジャワ島より元気な便りが届いた。
昭和十七年ガ島玉砕、二千数百柱の英霊の棺が営前練兵場前に所狭しと祭壇に安置されたのだ、元気な便りと裏腹に悲しいかな成田一男さんの霊も安置されていたのだ。
私も旧制中学卒業と同時に海軍航空隊に入隊、終戦近くには特攻隊として訓練を受け九死に一生を得て終戦を迎えた。
私は帰った、そして成田さんは生きて帰らなかった。
以来なぜか心のどこかに成田さんの霊がある様な気がしてならなかった。
ガ島から奇跡的に生還された長谷川聖籠町長さんに成田さんの当時の模様をお聞きしたのもこの巡拝計画の前であった。
町長さんは確かにご存知であった。
火炎放射器で戦死されたのではないかとのことであった。
この度ははからずもガ島戦跡戦没者の慰霊巡拝の旅に参加することが出来たのも霊が呼んでいるとさえ思えた。
やっと心の荷をおろすことが出来る様な気がした。
戦後四十年余ややもすれば長い平和の陰に当時のことが忘れ去られようとしている今日、この戦争が正しかったか否かは後世に歴史的評価がされるにしても日本の今日の繁栄は祖国愛と日本民族の興亡をかけた同胞愛によって支えられたことを忘れてはならないだろう。
同胞の流した偉大なる血は植民地支配下の民族をして独立の希望と開放の機会を与え、今日の繁栄に寄与したことは歴史がその事実を物語っている。
この尊い事実をもし日本人が忘れたとしたらこれからの我が国の将来は憂慮されるであろう。
今回のソロモン訪問を通じ平和な国民、平和な島にあの様な死闘があったとは悪夢の様な気さえする。
ソロモンの日本大使館には、その後の集骨がねんごろに安置されている。
機会を見ては祖国への帰還を依頼されているとのことである。
この旅を終わって世界が益々平和であり再び戦争を繰返してはならないと思うのは私一人ではあるまい。
亡き英霊に対し心から哀悼の意を表するものである。
ガダルカナル島を訪ねて
新発田商工会議所専務理事 相馬 実
火の雨降る敵前上陸、火の玉の炸裂する十字砲火の中の総攻撃、遠い昔----血戦ガダルカナル島で、戦い敗れ、弾丸はなく、食糧もなく、骨と皮に痩せおとろえた五ヶ月余り----私は、飢えたる島ガダルカナルで、天に慟哭しながら死んでいった戦友を永遠に忘れない(略)日本のおとなたちよ、平和への道はいかに遠くとも、私たちはたゆむことなく努力し進まねばならない。
(「最悪の戦場に奇跡はなかった」著者高崎伝、光人社発行より)
昭和十八年夏、私は旧制商業学校の五年生であった。
新発田駅の前通りに無言の帰郷をする戦死者を迎えるため整列していた。
今日は特に激戦地ガダルカナル島での戦死者で、誰とはなしに白木の箱の中は砂か石で遺骨は入っていない・・・と聞かされていただけに、いかに激戦地であったか、私なりに緊張感と郷土部隊の勇壮な戦さに誇りすら感じていた。
整列中に、先生から全国中等学校の総てのスポーツ大会が中止されたことを知らされた。
県代表として全国大会に向けて練習をしてきただけに、この日は忘れることのできない日になった。
戦後四十数年後に私がガダルカナル島の英霊のねむる現地へ行くことができるなど、考えてみたこともないことが現実となったとき、心から冥福を祈るため、出発が待ち遠しかった。
昭和六十二年九月二十六日、出発の時、新発田は大雨になった。
雨の中で出発する何かを感じながら新潟へマイクロバスは進む。
予定時間で行動し午後五時成田空港で参加者全員で結団式を行う。
成田---香港---シドニー---ブリスベーン---ガ島まで航空機で実所要時間は、約十八時間。
ソロモン諸島、首都ホニアラ市の郊外ヘンダーソン空港へ着陸した時は薄暮で飛行場周辺の山々は、はっきり見えていた。
長谷川聖籠町長さんから、山々の説明を聞く。
この飛行場を日米両軍が奪回する戦が、ガ島の激戦であったと聞いても、あまり静かなので、当時と現実の差に困った。
しかし四日間の在島中によって、如何に郷土部隊が困難の道を歩んだのか知ることができた。
税関の厳しさは、特に食糧品らしいが、栗橋僧侶の慰霊祭の供物や佛具については、説明をしなければ理解してくれなかった。
無事入国の手続きを終え、外へ出た時は、二時間以上も経過していたため、真暗く、周辺は何も見えないぐらいであった。
小型のマイクロバスがタンベアに進行中も、聖籠町長さんに、説明していただく。
バンガローの宿舎に着いて、部屋の中を殺虫剤をまいたり、蚊取り線香に火をつけたり、ランプの光りのみでは時間がかかる。
懐中電灯で食堂に集合し、夕飯をとったのが午後九時。
翌日は早朝南国の美しい海を背景に第二師団の英霊に捧げる記念碑にお参り、終日、ガ島の激戦地跡を巡拝する。
今は椰子の木を計画植樹で油をとる日本企業の進出やカツオマグロをソロモン諸島の海で漁業をする日本企業などによって、戦争中の千古斧鉞の大木を私は見ることができなかった。
原住民は平均寿命四十五、六才と聞いたが、表敬訪問したホニアラ市長さん政府の天然資源大臣、共に、お若くて活動家の印象を強くした。
大歓迎を受けたり、慰霊祭には、現地の日本人の方々は勿論、日本大使館夫妻らもご臨席をいただき、全島を一望できる慰霊塔の前に、朗々と流れる読経、弔辞に胸せまるものがあった。
衣食住の全く違う原住民と直接の対話はなかったが、観光地でないだけに、純真な接待に心のあたたかさを感じた。
ホニアラの宿舎でシャワーが水で、個室へ風呂をもらいに行ったこと等々、限りなくガ島の思い出はあるが、視察団のチームワークと聖籠町長さんの適切な当時の状況を拝聴することができたことは、最高の喜びであった。
二度とゆくことのできないガ島の英霊に安らかなることを祈り、建国二〇〇年を迎える大陸の国オーストラリアへ向け、十月一日午前十時、ガ島の飛行場をあとにした。
御霊安らかなれ
総和建設社長 小林 政爾
二年前の中国東北地区の旅で、ハルピン市の郊外を流れる松花江河畔に立ち、雲を赤く染めて沈む夕日を仰いだ時、往時の兵士が望郷の念一杯で、この夕日を眺めたであろう事を思い胸が熱くなったのを思い出しました。
この度ガダルカナルの巡拝の旅は、私にとりました本当に貴重な体験でありました。
旅の道中、当時に関する資料をもらったり説明を受けたりしながら、出発してから三日目の夜ガダルカナル島に到着。
翌朝から、擱座した輸送船の残骸が見える上陸地点、闇のジャングルを切り拓きながら進み夜襲に備えて集結した新発田連隊と会津連隊のいたところ、そして壮烈な戦闘地点、負傷した兵士を救護したルンガ川のほとり、空腹とマラリアに苦しみながら漸くたどりつき、奇跡の生還の撤収地点等々。
この間長谷川聖籠町長さんから、その時々の様子について詳しくお話をお聞きし、そのもの凄い苦しみを想像する極限の状態を思い私の心は痛く震え、とても平静ではいられませんでした。
風もなく蒸し暑い陽射しの中、平賀大使ご夫妻のご参列を得ての厳粛で立派な慰霊祭。
香煙の漂う血染めの丘に伊藤団長の一語一語噛みしめるような慰霊の言葉、遺族からの預かりもの、そして山々に響き渡る常勝寺のご住職による読経の声。
西ヶ輪の神明様の前を銃を肩にした兵隊さんが整列して歩いて行くのを小旗を振って見送った事を思い出しました。
あの若者達の多くがこの地で無念に散華したのであろうか。
目を塞じていてもどうしても涙が止まらなかった。
そして英霊の冥福を心からお祈りするばかりでした。
又現代に生きる自分の幸せを深く思い先人に対して感謝の気持ちで一杯でありました。
これからは我が儘を慎み、小さなことにも喜びを見い出せる素直な人間にならねばならないと思いました。
自分の今後の人生に大きな影響を与えてくれるであろうこの度の旅に、お連れ下さった伊藤団長はじめ市町村長の各位並びに団員の皆様に心から感謝とお礼を申し上げます。