冥府

日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣

慰霊巡拝 ガダルカナル島の祈り




ガ島巡拝に同行して




富樫医院理事長 富樫 益郎

九月二十八日、いよいよガ島ヘンダーソン飛行場に降り立った。小さい建物が一つ。
むっとする暑さである。
建物沿いに四、五匹の蟇(ヒキガエル)が蠢いている。
近づくと緩慢な動作で跳んで逃げる。

フロッグ、フロッグと現地の子供たちが柵にぶらさがって叫んでいる。
 降り立ちてまず夏の帽子を買うことに
 四、五匹の蟇空港の外は闇
中古のマイクロバスで宿舎のタンベアに向かった。

窮屈な椅子で手荷物と自分の膝を持て余した。
暗闇の中をひた走る。
川を何本も渡った。
大きな川ではない。
橋は鉄板が敷かれてあり、そのたびにがたがたと揺れる。
時々現地人の姿がライトに浮かんでは消えた。

一時間半で宿舎に着いた。
そこから海辺のほうに向かって、足元を照らすだけの低い篝火が十数基、路の両側に並んでおり、炎が風に靡いている。
誘われるように辿ってみると小さな慰霊碑があり、すでに線香の煙がゆらいでいた。 しばし黙祷。
はじめてガ島についたんだという実感が胸をしめつける。

多くの将兵の御魂が迎えてくれたのではないかと思った。
 篝火の連なる奥の墓拝む
ニッパハウスが十数棟浜沿いに並んでいる。
部屋は真っ暗である。
シャワー室に薄暗い裸電球が一つ。
それも九時には消えた。
懐中電灯をたよりに旅装を解いた。

しばらくしてランプを持った黒人が無言で入ってくる。
ベッドがふたつ。
平安朝の被衣の如き円筒形の白い蚊帳が下がっていた。
裾を引っ張り上げると案外長く一人すっぽりと入る。
夜中に、守宮(ヤモリ)が天井から落ちてきて顔にベッタリと張り付くのを防ぐためでもあると言う。
食後、団長の伊藤さんの部屋を訪れ、はるばる持参した折りたたみ式の碁盤を開いて対局。

ランプを二つ置き更に両側より懐中電灯をつけて、それでも碁を打とうと言うのである。
勝ったり負けたりで果てしもない。
ランプでの対局は初めてであり、これからもないであろう。
生涯の思い出となるに違いない。
ベッドに入り蚊遣火を見つめているうちにいつしか眠りに落ちた。
しかし、風が強く時々ドーンドーンと大きな音がする。
マンゴーの実が屋根に落ちてくる音らしい。

同室の近市長は土人の襲撃ではないかと起き出して外の様子を見に出た。
満天の夜空には星がいっぱい。
南十字星は、女の子が一寸首をかしげたくらいの角度で傾き、てっぺんの星はオレンジ色に輝いて見える。

小さな星座であり、ぼんやり見ていると分かりにくい。

 島の夜は寝るばかりなり守宮なく
 蚊遣火や旅の支度ととのはず
 皆仰ぐ朧の南十字星

九月二十九日、ホニアラの日本大使館を訪れるため、昨日の道を逆行する。

途中第二師団の上陸地点であるタサファロング岬でバスを止め渚に降り立った。
そこには「あゝ堂々の輸送船」と謳われた九州丸の残骸が浜辺に乗り上げたような格好のまゝ転がっていた。
爆破され沈没寸前にエンヂンをフル回転させて擱座上陸を敢行したのである。
舳は欠け、マストが天空に怨めしそうに突き出ている。
渚に沿って真っ白い珊瑚礁が続いてをり、近寄ってみると恰も人骨のように見えてはっとさせられた。

ホニアラ市内に入ると大使館の二階より斜めに日の丸の旗がはためいている。
外国で見る日の丸は頼もしく感じる。
日の丸を引き摺り下ろして焼く人もいれば、ペルシャ湾のようにタンカーに大きな日の丸を描いて、それだけを頼りに輸送に従事している人もいる。
歴史のひずみであろうか。
胸のつまる思いである。

九月三十日、テナル川上流の丘に上がった。
日本軍の夜襲攻撃の拠点である。
はるか彼方に椰子畑や密林を越えて小高い尾根を望見することができる。
それが血染めの丘と呼ばれ日本軍が壊滅的な打撃を受けたところと聞く、新発田十六連隊二千六百の将兵もここで散った。

 新米に地酒をそえて供養せん

生き残りの勇士長谷川町長が凝然と立ち尽くしていたのが印象的であった。
午後は激戦地アウステン山に上り慰霊祭を行う。
個々から見渡す山脈のなかには「後に続く者あるを信ず」と言って壮烈な戦死を遂げた若林東一大尉が兵と共に死守した見晴山もあるはずである。
熊倉町長の司会で荘厳にとり行われた。

栗橋師の読経の声が朗々と肺腑に響き、香煙は山裾を這ってくる風のままに向きを転じ旧戦場に吸われていった。
伊藤団長の慰霊の言葉にいたり、一同慟哭し涙を禁じ得なかった。

 御僧の声さわやかに夏衣
 新米の餅黴(カビ)たるも供えてき

原住民は毎日何をしているのかさっぱりと分からない。
目にとまる彼等はただごろごろとうづくまっていたり、寝転がっていたり或いは凭(モタ)れかかって屯(タムロ)しているだけである。
裸足であり履物を与えると働かないとも言う。
大使の話によればボーッとしているのだそうである。

 焼畑を打つとも見えず踞(ウズク)みをり

市場でもそうである。
大勢いたが物を売ったり買ったりしている風景は見られなかった。
臭気と不潔な感じがして果物を買う気にはならなかった。

 見ておりし見られておりしマンゴ売り

翌朝シドニー行きの機上の人となった。
週一便で満席でないと飛ばないと言う。

 タラップを上がる春風追うてきし
 夜濯ぎのものの乾かぬうちに発つ

旅行中大した病人も怪我人もなく全員無事に帰国することが出来、私の役割が杞憂に終わったことを感謝している。
帰国後二、三のガダルカナル戦記をひもといてみた。
敗戦の弁ばかりで暗い気持ちにさせられたが、ジュンマクドナルド著第二次世界大戦コンピューターマップによる戦術の研究によると、こう記してあった。
「敗れたとはいえ日本軍は規則正しく有能で、非常に勇敢な敵であることを身をもって示した。」
救われる思いであった。




同行するにあたって




市社会福祉事務所長 栗橋 義雄

ガダルカナル島慰霊巡拝団動向について、七月初め頃、商工会議所専務理事の相馬さんからお話がありました。
正直、噂が現実となった驚きと不安が一瞬脳裏をよぎり、「自費参加のほうが楽ですね」と、素直に意思表示を申し上げたところでした。
それは、「プロの役割」という未曾有の重責を背負うことへの逃避でした。
しかし、心定まらぬうちにも、日々はどんどんと過ぎ、ガダルカナル島にまつわる資料や、結団式のご案内を頂くなど、同行への準備は進んでいくのでした。

八月五日、パスポート手続ぎりぎりの朝、「任にあたって他に譲りがたし」と、自分で自分に言い聞かせ、「プロの役割」の大任にむけて意を決したのであります。
まず、寄せられた資料と戦記物をもとに、ガ島戦役の概要、気候風土などについて学び、結団式当日視聴させていただいた、ガダルカナル島遺骨収集団のビデオ映像を組み合わせるなどして、慰霊祭にのぞむ心像づくりにとりかかりました。
でも、未知の地、無体験という中で描くものは、幾回となく創ってはこわれ、現れては消えして、なかなか定まらず、苦しい毎日が続きました。

しかも、彼の地で眠る英霊は、人間の本来的本能である、生への執着と、肉親への愛の絆を一方的に断ち切られ、ただ一途に、日本の国家と民族を救うため、命令・作戦に至純至高の精神で挑み、夢多き青春を散らした悲劇の方々です。
あれを思い、これを思うとき、その心情に投入することは容易な業ではなく、見成公案の試練そのものでありました。
心像は空想ではなく、現場を呼びおこす念力でなければ・・・。
慰霊、それは個人のはたされた業績と、今日ある自分に感謝の誠を捧げ、更なる努力をすることを誓い、冥福をお祈りすることにありますことは申すまでもありません。

折角、波を越え雲を飛んで、六千粁の南海の地に渡り、弔う英霊の業績に敬意を捧げ、感謝する鎮魂の儀、主催者の意図にかなった慰霊の儀、郷里の遺族から託された、切々たる意思をどう伝え、平和日本の更なる発展に力を至す誓いをどう表すか、たんなるセレモニーに終わってはいけない。
また責務の重大さがのしかかってくるのを禁じえませんでした。
さて心像は定まったといたしましても、独り舞台ということもあり、どう円成させるかが課題です。

私の属している曹洞宗に「威儀」という語があります。
要約しますと、「規律にかなった正しい姿」ということになりますが、この度の慰霊祭もこの精神を基底にすえ、弔う英霊が幼い頃、どこかで何かの縁で見聞したであろうと思われる、お施餓鬼の法要を営むこととし、お位牌、卒塔婆、大宝楼閣幡、五如来幡、散華、華皿、大天香、如意、鳴し物(かね)法衣等、重量制限を気にしながら、必要最小限の準備となりました。
諸用具調達にあたり、特に心したことは、鳴し物(かね)と法衣の選択でした。 鳴し物の余韻は、人々の心を洗い幽玄の地へ導き入れる重要な役割を持つと言われています。 したがいまして、黄金の波うつ加治郷平野の稲田の真中で幾回もテストをし、余韻を確かめて持参いたしました。

法衣は、心像具現の大切な要素で「即佛法」ですので、それなりの吟味をし整えた次第です。 出発三日前の秋分の日、最後の仕上げに入り、次の七言句詩(香語)をもって、慰霊祭をまとめあげることといたしました。

百玉忽(ひゃくぎょくたちまち)ち開く甘露(かんろ)の門

心香一弁英魂(しんこういちべんえいこん)を弔う

英魂畢竟去来(えいこんひっきょうらい)無し

赫々たる霊光無昏(れいこうむこん)を照らす

茲(ここ)に恭く椎(おもん)みれば、今月比の日、オセアニア行政視察団主催の下、ガ島戦役日米戦死病役者慰霊祭の辰(しん)に相値(あいおう)。

虔(つつし)んで、香華灯燭山野海(こうげとうしょくさんやかい)の珍?(ちんしゅう)献備し、

以(も)って法供養(ほうくよう)を伸(の)ぶ

因みに、山僧を令(して)、枯紫一片(こしいっぺん)を拈(ねん)ぜしむ。

正与麼(しょうよも)の時、各諸英霊等(かくしょえいれいとう)、供(く)に応ずる底(てい)の端的(たんてき)、

如何(いかん)が指陳(しちん)せん。?(いい)

山風(さんぷう)吹き息んで(やんで)、波浪収まり。

性海湛然(しょうかいたんねん)として水に痕没し(あとなし)

以上、同行に当たって、私なりの取り組みについて記した次第であります。
最後に巡拝団のみなさまのお力添えにより、九月三十日、現地慰霊祭を無事円成させて頂きましたことと、生涯に体験する事の出来ない場をお与え下さいました関係各位のご慈慮に、深く感謝申し上げるものであります。
本当に有難うございました。(合掌)





オセアニア地方の視察を終えて




活ノ藤組社長 伊藤 利雄

昭和62年9月26日
是非ゆきたいと思っていたオセアニア地方の視察団の一員として成田空港を午後六時、キャセイ航空機は離陸した。
海外旅行は観光等が主であったが、今回はガ島の郷土部隊16連隊出身者の英霊に参拝し、当時の新発田部隊が如何に苦難の闘いであったかを現地で学ぶ目的でもあったので、心を引きしめて参加した。
昨夜半香港で乗りかえた航空機は順調に飛んでいる。
睡眠不足でオーストラリア大陸が眼下に広がった時、寝不足は初めて眺める国に、爽やかさが走った。
シドニーの国際線飛行場に着き2.5km離れた国内線飛行場へバスで移動、又航空機の人となり、オーストラリア、第三の都市ブリスベーンに到着した。

このたびは、極力酒を慎んだが、座席のかんづめにはまいった。
夕食は街に出たが道路整備のすばらしいこと。
車の進入禁止、巾の広い商店街、買物客を主としたゆったりした広場、感心するばかり----。
ホテルで早く寝る。

9月28日
ブリスベーンからいよいよエア・パシフィック航空にてガダルカナル島へ出発、予定より遅くなりガ島へ到着したのは夕刻であった。
ソロモン諸島として建国以来、まだ十年も経過してない国の首都ホニアラ。
道路の舗装も良い訳がない。
南国の空気が肌をさす。

9月29〜30日
この二日間、昭和十七年に始まった激戦、新発田市民として、昭和十八年に撤退するまで多くの戦死者を出した島、聖籠町長さんが詳細に、その場所毎に当時の説明をされる。
聴くことが今の自分の生存性を深く感じる。

10月1日
午後一時近くブリスベーンに到着し、乗りかえてシドニーへ。
午後四時過ぎ宿舎に着く。
夕飯は新発田市長さんが明日帰国されるのでシドニー湾で、船内夕食会ワインの美味は格別、周辺は日本人の新婚さんばかり、静かに酔う。
十時半帰舎。
旅行社のミスで私を含めて十二人、ホテルを移動。

10月2日
美しい海岸と椰子の並木を前にしたホテルはオーストラリアに来た現実を味わう。
終日市内を視察。
日本の21倍の国だけあって、総てがゆったりしている。

10月3日
オーストラリアを離れる日、カンガルーもコアラもガ島の"慰霊祭"が心にやきつく限り、あまり関心がない。
心に残る視察を終えようとするとき、北蒲原の各首長さん、そして一緒に参加した皆さんに心から感謝したい。
すばらしい九日間であった。
ソロモン諸島の若人達の永遠の幸福を希念して・・・。








雑感二題




新発田建設代表取締役 渡辺 清

比の度、ガダルカナル島慰霊巡拝視察団に同行させてもらいました事を本当に感謝いたしております。
有難うございました。
早速報告書をと思いながら、日一日と遅くなってしまい、感激も薄れるかと思っておりましたが、むしろ今になると、本当に心に残った事が書ける様な気がいたします。
主目的でありました慰霊祭が、本当に暑い中、今までになかったといわれる程、盛大に行われました事は生涯忘れ得ぬ事でありました。

団長の表情あふれる式辞、市町村長さん始め、団員の心の篭った供物等々を見るにつけ参列させていたゝ゛いて良かったと、つくづく感じました。
又団長の式辞をビニールで保護しながら、慰霊塔の後ろに埋めて参りました(聖籠町長さんの指示)事は、再び訪れる機会はないかも知れませんが、思いを土に託して来たのだと今でも思っております。

 夏草に 思い託せる 慰霊団

それにしても、あの遠いガ島へ行ってみまして、何故こんな遠い所まで、戦線を伸ばさねばならなかったのか、そして万余の戦士を無駄死させねばならなかったのかという疑問は今でも深く心に残ります。
戦争というもの、常軌を逸した心の状況は、又上層部の考え方の不一致、更には参謀の一人よがり、情報の不足、悲惨さ等々当時を思い、色々の事を考えさせられました。
そしてそれは四十五年を過ぎた今日、世界から経済大国として一斉にバッシングを受けている状況を見るにつけ、二度と国の方向が誤らないように、私共一人一人が注意して行かねばならないんだなあと思いました。

第二に、今でも心に残る事はガ島に於ける子供の多さであります。
首都ホニアラの人口は五万五千と聞きましたが、街にあふれる人々を見るとそうかなあ、もっと多いんじゃないかと思われました。
先般、中国東北地方視察に同行させていたゝ゛きました時にも、人の多さにビックリしたものですが、ガ島に於けるそれは又異質のものを感じました。

平均寿命が四十五才とか四十七才とか聞きましたが、多く作って小さい中に多く死ぬからだと思いますが、真に自立立国できない(ソロモンアイランズ国は45%が援助と聞いた)世界の多くの国々はこうなのかと思うと、果たしてこれでよいのかと考えさせられました。
日本にいて、限られた情報の中で可愛そうだ、悲惨だといっておられる私共が本当に幸せなのだと思うと同時に、開発途上国に対する援助がパンのみでよいのかと考えてしまいました。

私共は今、あまりにも恵まれすぎているのかも知れません。
心が、本質が失われている様に感じたのは私一人ではないと思いますが。
旅の間中、わがまゝばかりですごして参りましたので恐縮しておりますが、次の機会もぜひ同行せていたゝ゛けたら、本当に幸せであります。
今回も有難うございました。

 ヤシ林 栄えのしるしか 子の多き







  • 前のページ


  • 次のページ




  • トップページ