日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣
慰霊巡拝 ガダルカナル島の祈り
ガダルカナル島戦跡慰霊巡拝
ソロモン国政府
首都ホニアラ表敬訪問の旅を終えて
聖籠町長 長谷川 栄作
ガダルカナル島作戦の成否が太平洋戦争の分岐点となり、敗戦へと悲しい結末に終わり、四十四年の歳月が経過した。
本作戦には、旧歩兵第十六聯隊の越佐健児が参加。
生命力の極限の中で、世界戦史に残る熾烈、惨状を極めた戦場であった。
聯隊は、広安連隊長以下二千三百余名の犠牲者を出した。
新発田聯隊に関わりの深かった私共二市北蒲原郡の市町村長は、先人の戦場をこの目で確かめ、慰霊をいたし、故郷の状況報告をし、また、ソロモン諸国政府と首都ホニアラ市の表敬訪問を行い、地下に眠る戦友のことをお願いするために慰霊巡拝を計画した。
またこの計画に呼応して、軍都として栄えた新発田市の、商工会議所代表の参加を得ることになり、一行二十九名の団員となった。
私は当時の戦記はいずれのことにして、御案内記を主体として手記としたい。
成田空港を出発して、約十六時間の空路を経てガダルカナル島のヘンダーソン飛行場へ到着した。
九月二十八日である。
特にこの度は、倉持外務大臣の御配慮により、現地の平賀大使を通じて、前記の表敬訪問の手順を整えて下されたこと、林領事官がわざわざ飛行場まで出迎えて下さる等、異例のことであった。
九月二十八日午後六時。
我が軍の奪回の攻撃目標であった飛行場は、ようやく薄暮になりつつあったが、迂廻作戦でみんなで苦労をしたアウステン山が、往時をしのばせるように悠然と横たわっているのが目前にあった。
今日は遅い到着になるが、「タンベア」ホテルまで行くことになっている。
「タンベア」ホテルは、簡易なバンガロー方式のホテルである。
折も折り、日が暮れて暗がりの中、南国特有の強風が吹いて、海岸の波を枕にしたような場所なので、夜空に波音が高く、時折り屋根の上に、マンゴーの実が落ちて大きな音をたてる。
家の中には、「ヤモリ」がキィッーキィッーと奇妙な音をたてて啼くものだから、二人宛に分かれて宿泊をした団員の方々は、大変なところへ来たものだと驚かれたことであろう。
夕食のとき、私から戦場だと思って我慢してくださいと言った。
余談だけれども、もっとも恐ろしがっていた関川さんのカバンの中から、翌朝の朝食のとき「ヤモリ」が飛び出して、関川さんは折角の朝食も食べなかった。
二十九日の朝は、風もおさまり静かな「タンベア」の朝となって大変気に入っていただいたようであった。
朝食後は、バス(ガダルカナル島ではあんなバスが上等の方である)に分乗して「カミンボ」「エスペランス」(世界戦史に残ると言われた見事な撤退作戦で、舟艇に乗った場所。しかし当時は撤退ではなく転進と言った。)それからタサワロング(第二師団主力が上陸したところ)海岸には、乗り上げて座礁した輸送船が波にもまれていた。
次に「コカンボナ」。
ここは、糧秣、弾薬の供給基地。
また飛行場攻撃の作戦命令の下達をしたところである。
敵の「マイクロホン」設備が施してあり、敵に察知されて暗夜に砲撃をされ、源紫郎第一大隊長以下三名が直撃をうけて最初の戦死者となったところ。
また、辻正信参謀は前線までは来ず、ここで勝手なことを言って帰り、ガ島の作戦を誤った場所でもある。
ホワイトリバー(私たちは勇川とよんだ)。
アウステン山を迂廻するために、ジャングルを伐採しての進入路の入り口である。
等を説明しながら、ヘンダーソン飛行場の東側へ向かった。
この場所は、ヘンダーソン飛行場の東側地区で、アウステン山を迂廻した後、敵に全軍の行動を察知されているとも知らずに、「我が師団は、神明の加護により敵に全く企図を秘匿して、ルンガ河東側に進出し得たり・・・」の命令を受け、十六聯隊は左翼隊、二十九聯隊は右翼隊として、十月二十四日夜襲攻撃敢行のため展開をした、最右翼付近の台地である。
この台上に、先ず最初の慰霊祭を行った。
香華をたむけ、初めてのお経の音がえんえんと地に滲み込み、或いは天に昇るかのように、栗橋御住職の経文があげられた。
戦闘や戦場を知らない団員の人達も、手離しで頬に涙の落ちるのをみて感動した。
この日(二十九日)午後は、一時にホニアラ市の日本大使館を訪問して、平賀大使は大変喜んで迎えてくだされた。
二時よりホニアラ市長の表敬の為、市庁舎へ行く。
市議会議員の方々と共にお迎えいただき、市長の歓迎のあいさつがあり、立食パーティーで心からの歓迎をして下さった。
三時には、「ソロモン」諸国副総理を表敬訪問して公宅で、長時間歓談したが大変日本に対し好意的なお話であった。
さて、翌三十日。
今日はいよいよ、本番の慰霊祭である。
ところが早朝、平賀大使さんより、この雨では外での慰霊祭は無理ではないかという電話が入り、残念ながら午後お天気を見てからにと変更せざるを得なくなった。
従って午前は、昨日案内をした戦跡を逆コースでゆっくりと案内をすることにして、「コカンボナ」〜勇川〜タサワロングと御案内した。
そして午後、幸いなことに雨もあがり、境台の東南端に、全ソロモン作戦にゆかりの我々戦友会が、募金で造成をした「ソロモン」公園記念塔前に、慰霊祭を実施することにした。
境台、勇台、百武台、宮崎台、砲兵台、見晴台。
これらの台上を一望に見渡せる場所であり、これらの台上一帯を血染めの丘と総称している。
ちなみにサボ島とガ島の間の海域を鉄底の海と名づけている。
即ち血染めの丘は、飛行場奪回作戦に失敗した後、四ヶ月間日米両軍の死闘、攻防が繰り広げられたところである。
まさに精神、肉体とともに生命力の極限状態の中で散った、幾万の将兵の血で染めた丘である。
この度の慰霊祭は、特に名刹である新発田下中の常勝寺の栗橋御住職さんが、態態国より正装を準備し、鉦も真証のものである。
各種の壇飾りやら佛具を備えての祭事であった。
三井航空サービスの計らいで、各市町村毎に花環を埋め尽くして下さった。
平賀大使御夫妻、在留邦人御夫妻、子供衆も参加下さった。
しかも大使は、大使館用の大国旗を御持参され、錦上一枚添えて下された。
大使も未だ曽つてない立派な慰霊祭と言われ、感激されたようだ。
流亮たる読経の音は、棚引く線香の煙りに流れて勇魂はよろこび、冥府より英霊は成佛を遂げたと言っていることであろう。
逝って四十四年の歳月は、さぞかし永く寂しかったであろうと思う。
慰霊祭の式次第
1.開式の辞 熊倉中条町長
2.祭 文 団長伊藤黒川村長
3.読 経 常勝寺栗橋住職
4.弔 文 近新発田市長
弔 文 斉藤二郎氏(市遺族会長代理)
5.焼 香 全員
6.閉式の辞 本田安田町長
7.塔 婆 焼却の儀
尚祭文は、記念公園の前側にビニール袋に密封して埋めた。
以上が、私のガ島御案内記の概要である。
我々には、戦争の良し悪しは論ぜられるものに非ず。
戦争は、勝つか負けるかのことのみに戦ったのである。
しかし、今にして顧みれば、作戦指導者たるもの、果たしてその資格を備えたる者であったかどうか。
私が師事した第一大隊長源紫郎中佐の如き指揮官が、全体指導者であったなら、もっと戦友の生存者も多かったのではなかったかと思えてならない。
さて、最後に至らないご案内を申し上げましたことをお詫び申し上げますと共に、実行に踏み切っていただきました団員の方々に、逝き戦友に代わって衷心より御礼申し上げます。
ガ島戦没者慰霊の旅
紫雲寺町長 鬼嶋 正之
南太平洋の島々の中でも知られていない国の一つに「ソロモン諸国」がある。
海外からの観光客も少なく、秘境中の秘境とでも呼べようか。
その名を聞くだけではさしたる係わりも意識しないが、その国に「ガダルカナル島」があると知ったら、われわれ日本人は、特に新潟県人には、忘れがたいものになってしまう。
南緯九度、東経160度の南洋上に浮かぶこの島では、第二次世界大戦のさなか、昭和十七年八月から半年間にわたり日米両軍の死闘が繰り広げられた。
新潟県の半分程の面積で東西に延びたガダルカナル島は、日本軍によってアメリカとオーストラリアを分断する作戦上の要所として位置づけられ、飛行場の建設がなされるが、これを重視した米軍は、七万を超す上陸作戦を展開し、奪取してしまう。
その奪回作戦命令によって福島・新潟の精強部隊などが送り込まれ、悲惨極まる戦闘が繰り返されたのがガダルカナル島ときく。
日本軍は、この戦いで上陸した約三万二千人のうち二万一千人を失った。
"ガ島"といわれるとおり、半数以上が餓死と病気だったという。
新潟県人は、新発田十六連隊を中心に約二千八百人が亡くなり、当町でも二十四人の有為な人材が各家庭のかけがえのない人々が英霊となられている。
われわれ二市北蒲原郡の市町村長は、ガ島の生き残りでもあられる長谷川聖籠町長さんの発起と万般のおはからいによって、懸案の弔いの機会を得た。
昭和十八年二月の「ガ島撤退」以来、実に四十四年ぶりの慰霊巡拝であった。
日本は今、憲法が制定されて四十年、地方自治法施行四十年、不惑の年を迎え、平和を謳歌している。
この平和の礎となられた霊を慰め、祖国日本の現状と郷里の姿を報告し、感謝を捧げる機会を得たことは、この上のないありがたいことであった。
そして日本国憲法とともに戦後の生を受けた小生にとっては、貴くも重い旅であった。
昭和六十二年九月二十六日午後六時四十九分、慰霊巡拝団は成田をあとにした。
香港、オーストラリア、シドニーそしてブリスベーンを経てソロモン諸島の首都ホニアラ市、ヘンダーソン空港に無事着陸したのは二十八日午後六時七分である。
空は赤く染まっていた。
われわれを迎えてくれた滑走路が、四十五年も前に日本人によって建設され、その奪取合戦に数多くの犠牲者を出したなどとは想いもよらぬほど静かにのびている。
乗り継いだオーストラリアでは日差しが強い割りにあまり暑さを感じなかったが、湿度のせいかここはとにかく暑い。
気象観測以来三十三年になるそうだが、今年は最低の降水量とのこと。
そのためかもしれない。
あまり立派とは言えない税関の建物で検閲を受けること約二時間半。
荷物のチェックが厳しくて仲々順番が回ってこない。
出迎えてくれた現地大使館の林領事や青年海外協力隊員の説明によると、最近銃の持込があって、特に厳重になっているのだとのことであったが、それにしてもスローモーで手際が悪い。
古びたマイクロバス三台に分乗して一路タンベアへの宿へ向かう。
街灯一つない暗闇の中、砂利の凸凹道を約一時間、十六年前、日本政府遺骨収集団が宿舎にしたというタンベアビレッジホテルに到着。
出迎えの黒い顔は皆やさしく親切であった。
ホテルの一角を金網で区切り、山小屋風のニッパハウスが二十棟程も並んでいる。
聴いてはいたが、電灯のない薄暗い世界は精神を緊張させる。
子供のころわずかに体験したことのあるランプ生活を思い出さずにはおかなかった。
運悪く、持参した懐中電灯もつかない。
戦士の苦労を想いおこすには最適の条件かも知れないと、覚悟をきめて遅い夕食を済ませる。
蚊の襲来に備えて蚊取り線香をたき、高ぶる夜を長谷川聖籠町長さんの体験談に耳をかたむける。
明日以降のことを考え、蚊帳につつまれたベッドにもぐり込むが、キーキーと枕下でかん高く鳴くヤモリの声に強風と波の音が重なって仲々寝つかれない。
それでも少しは眠ったであろうか、午前五時四十分目覚ましにさそわれて起床。
まだ薄暗い中、海岸に出てみる。
昨夜は暗黒の中で何も見えなかったが、波打ちぎわは、わずか三十メートルの先。
昨夜来の強い風で岸辺のヤシの実がいくつも落ちている。
しばし美しいビーチサイドを独り散歩して、もの想いにふける。
海辺には福島県部隊の慰霊碑が建立されている。
周囲には、焼けただれ、錆び付いた当時の大砲やプロペラが無造作に置いてある。
ただ黙ってぬかずき冥福を祈る。
小雨降る中を戦跡を訪ねてバスは走る。
---エスペランスの岬---
撤退作戦の際、舟艇で転進したという地点である。海上には駆逐艦が待機していたという。サボ島が浮かぶ。
---タサファロング---
日本軍が上陸したという地点である。波打ち際に赤錆びた日本の輸送船が無残にも骨だけの姿でわれわれを迎えてくれた。
海浜にあるサンゴ礁片が何故か人骨片に似て無意識に手にする。
見渡せば参加者全員が思いをこめて拾っている。
ご遺族へ、せめて一片たりともと小生も二十四個の小片をカバンに詰め込んだ。
マイクロバスの現地運転士氏には、この光景はどのように映ったのであろうか、興味深そうに眺めていた。
---コカンボナ---
日本の糧秣、弾薬集結供給基地があったという。
近くにアメリカ在郷軍人戦友会が建立したという三角形の白い慰霊碑が建てられている。
その碑文には、「日本軍将兵の敢闘をしるすために建立した・・・」と明記されてあった。
敵ながらあっぱれであった、との賞賛であろう。
---飛行場東側の高台(名前は不詳)---
ここに登って聖籠町長さんから飛行場攻撃の迂回作戦の話を聴く。
敵のマイクロフォンに行動を察知されていることも知らずに夜襲を開始した地点だという。
頂上に香華をたむけ、煙草を供え、酒を地に吸わせ、経を唱える。
オースティン山(410メートル)の一角に血染めの丘がある。
ここからは、美しい海や市街地、歴史的な戦地が見渡せ、真っ白くモダンで大きな慰霊塔が建てられている。
遺族や戦友の多くの浄財によって建立されたというこの塔からはガ島の最も美しい姿を見渡すことが出来る。
何の関わりもないのに戦場にされて多大な被害を被ったであろう現地の人々が、この景勝の地に建立を許してくれたことには頭が下がる思いであった。
現地の美しい花を調達して祭壇をしつらい、花で囲んだ中央にはご遺族個々からお預かりした卒塔婆を並べ、トランクいっぱいに持参した郷土の供物を捧げた。
平賀臨時大使夫妻、林領事、青年海外協力隊員とその家族らも参加しての本格的な慰霊祭が荘厳に執り行われた。
灯明の炎が丘全体を包む中、伊藤団長(黒川村長、郡町村会長)の祭文が読まれた。
慰霊と感謝の心に満ちた丁重なものであったが、いつもの張りのある声量の団長の言葉も詰まって聞こえたのは私一人ではなかった。
きっとここで失ったお兄さんことを偲んでのことであろうと皆の胸に痛く伝わり、しめつけられる思いであった。
近新発田市長さんのご配慮で同行された僧侶・栗橋同市社会福祉事務所長さんの全身全霊を込めての読経は、島全体に響けとの深い想いが込もっているようであった。
ただただ無心に『ありがとうございました。お蔭様で国も郷土も立派になりました。
ご家族の皆様も元気で頑張っています。どうぞ安心してお眠りください。
今後共皆様の死を無駄にしないよう平和の維持発展のため精一杯の努力をします。』をくり返すのみであった。
気温三十六度の中、正装をしての慰霊祭は閉じた。
緊張の一時間が終わった時、全身の汗とともに大役を果たし終えた安堵感と満足感に浸っていた。
十の主島と無数の小島から成るソロモン諸島は、1978年7月7日に155番目の独立国としてイギリスから一人歩きを始めた。
人口は約三十万人。
首都をガ島ホニアラ(人口五万五千人)に置く。
国民の96%がメラネシア人。
住民のほとんどがカトリック系のキリスト教を信じ、一夫一妻制を堅持している。
とにかく陽気でのんびりしており、素足でどこまでも歩く。
人口の90%の人々が農業に従事し、油脂原料であるコプラは主要な輸出品ときく。
最近は、油ヤシや米のプランテーション経営も加わりつつあり、観光面の施策にも力点がおかれるようになってきているとのこと。
日本からは大洋漁業鰍ェ進出し、ソロモンとの合弁会社ソロモン・タイヨーを運営してカツオ・マグロ漁の操業をしている。
専管水域二百カイリ時代を迎えて国際的に難しい局面にある我国水産業にとって、高級魚の回遊路にあるこの地における安定操業は今後の国際漁場市場に大きな役割を果たすことになるだろうとは平賀大使の弁。
鉱物資源も豊富だが、土地が各酋長の所有になっている関係から地下資源開発はトラブルが多く難しいとのことである。
ピジンイングリッシュといって、なまりのある英語を話す正直な国民は、まだ毒されていない。
ホテルのまくら下に外国旅行の常識のつもりで小銭を置いても決して持ってゆかない。
お礼のつもりだからと言って直接手渡すとお礼を言ってもらってくれる。
教育の普及はまだまだのようだし、公衆衛生も遅れが目立つ。
ほとんどの住民はマラリア持ちで平均寿命が四十七歳というのもそのせいかも知れない。
風土病、マラリアにかからないための対策を講ずるところまではまだ手がまわらないらしい。
現在は、すべての住民がマラリアを持病として持っているという前提で対策が考えられているようだ。
公立病院もあり、薬も不足していないが、それを投与・指導する人材が絶対的に少ないところが泣き所。
公立病院は無料、プライベート病院は有料である。
気候は一年を通じ高温多湿。
時差は日本より二時間早い。
通貨は時刻のソロモン諸島ドルを持ち、一ドル八十円弱であった。
山野の果実や海の幸も容易に手に入るし、暑いから衣服も多くはいらないようだし、住居も簡単な造りのようだからあまり働かなくても生きていけそうだ。
そうした彼らから幸福か、そうでないかなど我々の物差しで勝手に測ることは禁物だが、創意工夫をする必要のないところには創造力がつきにくいのは自明である。
現在は良いとして、今後どんどん人口が増加していくことは、目に見えている。
自然の恵みでまかないきれなくなる前に自力で生きられる術を援助してやる必要があると感じた。
国の財政の四割は他国からの援助で、日本も約十億円支援をしているというが、そうした物質的な援助と併行して人々の身につく技術の援助がもっとあっても良いのではないか、と痛感した次第である。
青年海外協力隊員をはじめとする多くの人々の努力によって対日感情は年々良好になり、わが国に対する期待も高まっているとのことだからあらゆる分野に援助の手を差しのべるべきであろうと思う。
政府も現在の十六名の協力隊員の外に、さらに十五名程増員して三十名くらいにしたい意向だそうだから大変結構なことだ。
空港に出迎えてくれた上越出身の協力隊員横山氏は警察で空手の指導をされているそうだが、現地の評価は非常に高く、大使からおほめの言葉があった。
国際的に日本の地位は向上したが、批判もまた多い。
地球運命共同体の一員として、果たさねばならない役割は大きいし、力を持っていると思う。
当町の青年の中に長い人生の一コマを彼らのために捧げてくれる元気を持った人がいてくれると頼もしいのだか・・・・。
聖籠町長さんの周到な準備のお陰で日本の外務大臣から現地大使館に指令文書が届いていた。
その功あって、慰霊祭も順調に進んだし、ソロモン諸島副大統領への表敬訪問、首都ホニアラ市の市長はじめ市議会議員との交歓会もまことスムーズにはこんだ。
それぞれ実に有意義に終えることができたのも伊藤団長、本田、近両副団長、長谷川事務局長の采配の賜物と心から感謝している。
巡礼の任を終え、ご遺族への報告も終わった今、あらたなる安堵感とともに大いなる責任感を感じ始めている。
それは、血染めの丘で英霊に誓ったあの言葉であり、どんな困難な状況下にあっても判断を誤らないようにしなければならないということ、そして、力による問題解決の手段を選んではならないとの不退転の決意である。
最後に今回の旅を快く許してくれた町議会をはじめ町民各位、職員同志に心からなる感謝を捧げる。
"十字星 御霊の想い君知るや 戦後生まれは、唯々合掌"
慰霊巡拝にあたり
豊浦町長 芹野 秀夫
私達オセアニア視察団一行二十九名が、ソロモン国ガダルカナル島への慰霊の旅に出たのは、昭和六十二年九月二十六日午前十一時三十六分新潟駅発の新幹線からである。
今回慰霊の目的地であるガダルカナル島は、ブーゲンビル島を北西端とし、サンクレストバル島を東南端とする南北約千百キロの線上に点在するソロモン諸島の南の端にある島である。
島の長さ一三七キロ、島巾南北に四五キロの小さいところであるが、かつての大東亜戦争で日本軍がガ島に上陸させた総人員が三万一千といわれ、そのうち戦死者六千を数え、戦病死者が一万五千の多くに達している。
この大戦が小さいガ島においてさえ、いかに多くの生命を奪い、その戦いがいかに凄惨なものであったかは、多くの戦史や遺族の言葉を借りるまでもなく、過去の事実として吾々は厳粛に受けとめねばならない。
我々が今回訪ねたガ島巡拝団の中には、かつてガ島の生き残りの戦士であった聖籠町長長谷川栄作氏も同行された。
遠くなった過去となったが、かつて生死を境にした戦場の地で当時の戦況を詳しく説明してくれた聖籠町長の声は、かすかに涙でかすんでいたように思えた。
筆舌に言い表せない苦労と、死との対決を強いられ乍ら参戦し、一緒に寝食を共にした戦友の死を冷厳な目で直視しなければならなかった同胞の悲しみは、戦争経験のない我々にも想像できる。
山上から遠い戦場の状況を指を指し乍ら説明する長谷川町長の一語一語が、当時を偲ばせてくれた。
わが豊浦町からも、このガダルカナル島の戦いに参加され、悲しくも戦死された人が十七名もあり、その英霊の卒塔婆を携えて私も巡拝団に参加したのである。
オーストラリアのブリスベーンを経て到着したガ島のホニアラ空港は、すでに暮れかけており、タサワロングを過ぎ宿泊地のタンベアについたのは、現地時間で九時を過ぎていた。
夜のガ島は未開発国の特徴であろうか、発電も充分でないのか暗黒の世界に近かったが、迎えてくれた現地人の笑顔は、明るく人なつこく、現在の島の幸せと平和をわれわれにおしえているようでほっと安堵を覚えた。
大戦当時はジャングルに蔽われた島であっただろうし、現在もまだ未開の島であることに変わりはない。
しかし、この狭い島に当時の戦略上とはいえ、日本海軍が昭和十七年七月はじめ、第八艦隊編成下で、第十三設営隊、第十一設営隊の二千五百余名を投入、飛行場建設の為の上陸作戦をしたことが、この島での緒戦のきっかけとなったという。
遠く祖国を離れ、たヾ一途に祖国の安泰と家族の幸せを願って、潔く国の礎となって散華された英霊の御霊を慰めるにしては、戦中はあまりに遠くなったように思える。
せめて、今の日本の平和と遺族のしあわせを心を込めて報告することが、今出来る私たちの精一杯のことである。
ソロモン国臨時大使を迎えての慰霊祈願の声は、粛然とガ島の山々にしみわたる。
慰霊祭の姿を発見して近づいて、もの珍しそうに遠巻きにみつめる現地人の子供達は、服装は粗末だが、笑顔が明るい。
言葉が通じない異民族同志であっても、笑顔一つが無言の外交となる。
笑顔一つで結びつけるということは、お互いの社会が平和である証しである。
知らない者同志が笑顔で手を取り合える社会には、平和が育っていると思うし、お互い平和を大切にするということは過去の冷厳な反省と民族それぞれの糧としているからにほかならない。
今回の巡拝団の尊い意義を噛みしめ、共に行動してくださった巡拝団の皆さんに心から感謝を申し上げ、参加の弁としたい。