冥府

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慰霊巡拝 ガダルカナル島の祈り








ガダルカナル島慰霊祭に参列して




水原町長 吉川 正夫

昭和六十二年九月三十日この日のために巡拝団はガダルカナル島を訪ねた。
美しい海に囲まれたこの島は、今を去る四十五年前、国の命運をかけての大戦最大の激戦地となった島である。
首都ホニアラ市ヘンダーソン空港上空から、この島を眼下に望んだ時静かな緑美しいこの島が、激戦の地であったとは想像もできないことであった。

二十八日夕同島に入り、既に二泊して郷土部隊の悲惨を極めた苦闘の跡を訪ねた。
昭和十七年十月十四日夕から翌十五日にかけての上陸地点、タサファロングの海岸、巨大な赤錆びた鉄塊が海岸にそそり立つ。
七千トン級の輸送船月山丸の残骸と聴く。
郷土部隊歩兵第十六連隊の将兵が、どんな思いでこの地に上陸したであろうか・・・。
断崖がそそり立つ撤退地点エスペランス岬も訪ねることができた。

生き残った将兵の撤退は、昭和十八年二月四日とのことである。
上陸から撤退までの百日余りにわたる苦闘が、この島に展開されたのである。
勇兵団の名をとった勇川、師団長の名をとった丸山道、糧秣弾薬基地コカンボナ等の戦跡を訪ね、往時を偲び感涙に咽んだ。

昨夜は今日に備え、早めに就寝したが、暑さとクーラーの騒音で寝付かれない。
私自身昭和十七年召集現役兵として、二年余大東亜戦争に従軍、大半の同年兵諸氏が大陸に、南海の孤島に、千島の海域に散華している。
散華した戦友の面影が、次々に走馬灯のように脳裏をよぎる。
夜半を過ぎて漸く眠りについたが、午前五時過ぎに目を覚ます。
午前七時(日本時間午前五時)に起床、慰霊祭のために持参した卒塔婆、供物等の準備を整える。
窓外は雨の気配で御霊の啜り泣く声にも聞こえる。

午前七時三十分、三三五五朝食の食卓へ歩を運ぶ。
現地駐在の平賀代理大使からの電話連絡で、雨中の慰霊祭は見合わせてはとのこと、なお午後には雨もおさまる見通しとの付言があった旨伝えられる。
折角の来島も、慰霊祭が斉行できなければと憂慮したが、天は巡拝団の心中を察してか空模様は次第に回復し、急拠予定を変更し飛行場攻撃地点での慰霊祭に出発。
ガ島作戦の目的は、米軍に奪取された飛行場を奪還することで、郷土の精強部隊が総攻撃を開始した地点テナルヒルという小高い丘を目指す。

海岸線の帯状の平坦地を東に進みやがて山地に入るが、道路両側には椰子の林が一面に続く。
椰子の林の途切れた前面に雑草の茂る小高い丘が視野に入る。
伊藤団長さんを先頭に、頂上を目指して隊列が続く・・・。
頂上からは椰子の林に覆われ、飛行場は望めないが、その方位は確認できる。

午前十時過ぎ、各自持参の蝋燭、線香に火を点じ、供物を献じ読経、鐘の音が山に谷に響く。
周辺には、携行食糧の缶や防毒マスクの一部と思われる金具、発條等赤く錆びたまま地上に露出しているのが散見される。
突撃直前の十月二十五日夕、故郷に思いを走らせ戦友と最後の水杯を交わしたのであろうか・・・。
ガ島作戦に参加され、九死に一生を得て帰還された長谷川聖籠町長さんの戦況説明に耳を傾ける。

上陸地点から丸山道を経て、アウステン山を迂回、ルンガ河を渡り、苦闘の末この地に到着。
この間、空からの爆撃、海上からの艦砲射撃、地上からの砲火、さらに炎暑や飢餓と風土病との闘い、正に凄惨を極めた奮戦の跡を偲び胸を打たれた。
改めて御霊の鎮り給うことを念じ、平和を誓った次第である。
午前十一時、感涙に咽びながら丘に別れを告げメンダナホテルへ。
心配された天気も、もう心配はない。

午後はいよいよ代理大使ご夫妻や、現地在住邦人参列のもと、血染めの丘慰霊碑前で慰霊祭が厳修される・・・。  
 合掌







遺族の皆様方に




笹神村長 五十嵐 利彦

皆様方の肉親が亡くなられたガダルカナル島は、南太平洋に浮かぶ孤島で、日本から六千キロメートルの距離です。
ただ日本から直接ガダルカナル島へ行くことはできませんので、成田空港から香港経由でオーストラリアのシドニー、更にブリスベーンと大きく迂回し、実に二十時間に及ぶ空の旅でした。
現在島の人口は約五万人、面積は新潟県の半分、佐渡島の約七倍の島です。

島は今から九年前、イギリスの保護領から独立したソロモン諸島の一つですが、ここに住む人たちはまっ黒で、誠にのんびり、はだしでどこまでも歩きます。
正直で、人なつっこく、自然の恵みの中でのんびり暮らしていますが、衛生思想がないのか平均寿命は四十五才位だそうです。
この島に三万人の兵を送り込んで空港を造った日本軍も、七万人を超す米軍の上陸で空港を奪われ、更に奪われた空港を奪取しようと会津と新発田の精強部隊が送り込まれたのですが,そこに待ち受けた運命は余りに悲惨なものでした。

炎暑の中、水もなく、食料も薬もない、平気や弾薬もなく、病害虫とマラリアにさいなまされ乍ら、近代科学の装備を誇る米軍に対し、素手同様で立ち向かったのであります。
それは第二次世界大戦の中で最も悲惨な戦いであり、新潟県人を最も多く失った戦いでした。
皆様方の肉親はどんな気持ちで亡くなられたのでしょうか。

前掲の略図をご覧ください。
皆様方の肉親はタサファロングの海岸へ上陸し、テナルヒルという地点で殆ど全滅しました。
最も激しい戦場となった血染めの丘に白い慰霊塔が立っています。
この塔はガダルカナルの生き残りの人や皆様方遺族の浄財によって建てられたのですが、ここで慰霊祭を行いました。

「・・・私達は北蒲原郡の市町村長の一行です。大東亜戦争が終結してから、早や四十二年の歳月が流れました。皆さんは、ひたすら祖国の平和と安泰、そして家族の将来に思いを残し、越佐健児の真髄を遺憾なく発揮し、その楯となって壮烈、華と散ったのであります・・・」

伊藤会長の弔辞がとぎれがちに続きます。
手を合わせた私たちのほほにはとめどなく涙が流れました。
私は持参したすべてのものを捧げました。
お預かりした卒塔婆、線香、ローソク、新米のこしひかり、岩瀬の清水、酒、煙草、ライター、せんべい、塩、こしょう、箸、ミルク、コーヒー、のり、梅干、手袋、ボールペン、日本のお金、五頭山のお守りなどです。

戦争は多くの人命を奪いました。
戦争とは一体何なのか、今一度真剣に考えなければなりません。
しかし、平和を願うあまり、戦争のことにふれないことが、語らないことが、忘れることが健全な社会思想だと私は思いません。

我々の幸せを願い、散華した人達の犠牲によって新しい生命が誕生し、経済も復興した日本は、いまや世界の平和と発展のため懸命の努力を重ねています。
御英霊の御加護の賜であります。
私たちは、これらの尊い犠牲を一刻も忘れる訳にはまいりません。
私達の今回のガダルカナル巡礼を契機に遺族によるガダルカナルの慰霊祭が二年後をめどに考えられているそうです。

二市北蒲の遺族会からそのような連絡があると思います。
もし皆様方の中で参加する方があれば村としても出来るだけの御手伝いをさせていただきたいと考えています。
袋に入れた石は、血染めの丘から持ち帰ったものです。
そして果物は私の心ばかりの気持ちです。
御佛前にお供えいただければ幸いでございます。
御一家皆様方の恩幸せを心よりお祈りします。

 合掌

昭和六十二年十月三十一日

ガダルカナル島戦没者名簿
身分  住所     氏名    戦没年月日
兵長  赤水305  宮島 儀作  昭和18.1.6
伍長  野村67   野村 巌   昭和17.11.25
伍長  野村96   田代喜太郎  昭和17.10.26
兵長  須走530  関川喜太郎  昭和17.12.15
曹長  金屋123  五十嵐幸男  昭和17.10.26
伍長  大室1855  五百川 進  昭和17.11.10
伍長  湯沢146  石塚 兼治  昭和17.12.27
伍長  小栗山690 堀 長松   昭和17.12.1
伍長  上高関838 磯部 正雄  昭和17.12.6
伍長  高田17   松岡 松次  昭和17.11.18
伍長  下福岡216 角山友太郎  昭和17.11.30
曹長  下福岡209 田川 正一  昭和17.12.6
伍長  榎舟渡266 大野 清一  昭和17.12.10
伍長  上飯塚872 金田 亘   昭和17.12.23














巡拝を終えて




京ヶ瀬村長 米山 俊彦

「ガダルカナル島」この地名は、戦中派の私にとって生涯忘れることのできないものであります。
第二次世界大戦に於いて、連戦連勝の大本営発表、日本の必勝を信じていた子供心に最初の撤退が知らされた地名であります。
しかんし、今回のガダルカナル島慰霊巡拝の話が出るまで、この島で戦った将兵の中に新発田十六連隊が入っておったことは知りませんでした。

帰って早速役場の資料を調査したところ、村内でこの島で戦没された方々は十八名、その外ソロモン海域で戦死された方々を加えると二十数名にも及ぶことが判りました。
戦後四十二年を経過し、敗戦の傷跡も忘れ去られようとしているとき、その地を訪れ、当時の御苦労を偲び、その霊をお慰めすることは、現在の繁栄を享受している私どもの責務であるとの見地から、村遺族会々長を始め関係遺族方々に連絡し、大きな期待のもとに寄せられた卒塔婆、供物を携え、慰霊巡拝に参加しました。

九月二十六日出発、実は京ヶ瀬村にとって大変名誉である保健文化賞受賞の光栄に欲し、九月二十四日贈呈式、二十五日皇居参内の日程を消化し、家に帰ったのは二十五日夜と云うことで準備した荷物を確認する暇もなく、役場から届けられていた遺族からの御供物をトランクに詰めての出発でありました。
香港を経由してシドニーそれからブリスベーン、どちらも私にとっては初めての土地でありますが、印象に残ったのは飛行機の窓から眺めた香港の夜景とオーストラリアの湿気の少ない爽快な気候であります。
九月二十八日、夕闇迫る目的地がホニアラ空港へ到着、蒸し暑い中でノロノロした荷物検査には閉口いたしました。

空港から乗り込んだ車もルームライトも無い窮屈なボロ車、簡易舗装と砂利道を一時間余り走り薄暗いタンベアに到着した時に、「遂にガダルカナル島に着いた、第二次世界大戦で日本軍がよくもここまで進攻して来たものだ」と感慨無量でありました。
タンベアでは現地の人達が道路添いに点々と火を灯して迎えてくれました。
しかし何を意味するのか翌朝まで分かりませんでしたが、それが慰霊碑に続く道であったとは、現地の日本に対する好意が感じられます。

宿舎の屋根が飛ばされるのではなかろうかと思われるような強風、そんな中でも疲れていたためかグッスリ眠り、翌朝目を覚ますと早速浜辺へ行き遺族の依頼で持ち帰るため砂をビニール袋に詰め込みました。
砂鉄の混ざった黒ずんだ砂、この砂の上を四十五年前、何人かの招聘が足跡を印されたのではなかろうか、そんな思いで近くにあった慰霊碑に参拝いたしました。
慰霊碑にも「平和よ永遠に」の文字が刻まれ、建立された方々が、この地で亡くなられた将兵に対し御冥福をお祈りする気持ちをよく現していると思われます。

九月二十九日、昨夜と追った道を引き返し、暗くて見えなかった現地人の簡素な家、車に手を振る大人、それに手を振り返しながら日本大使館に向かいました。
全島密林に覆われた島と思っていたのに道の両側には椰子が植えられ、山裾には焼畑が見られ、草しか生えていない山や丘など、こんな地形の中で戦った将兵の苦労は現地を見なければ理解できないと思われます。
日本大使館、ホニアラ市で一番立派と思われるビルの三階の窓から国旗が出されており、これまた大使館としての私のイメージとは大分違っておりました。

大使館の一隅に安置された戦没者の遺骨、外交荷物として持ち帰りできるまで安置してあるとの平賀臨時代理大使の説明、厚生省から遺骨収集の団らが来島するとのお話、ガダルカナル島での戦後処理は未だ終わっていない感じが致します。
ホニアラ市長を表敬訪問、プレハブに毛の生えたような庁舎でしたが、盛大な歓迎を受け、政庁においても副大統領にお会いでき、親善の一翼を担うことができたと思われます。
九月三十日、日本の梅雨末期を思わせるような蒸し暑く、そしてシトシト振る雨、現地での慰霊祭の執行も危ぶまれるような天候でしたが、ホテルを出発する頃には雨も上がり予定通りの慰霊祭ができたことは幸いです。

最初は、テナウルヒル?と呼ばれる小高い丘の頂上、十六連隊将兵が飛行場奪回目指して進んだ場所、布陣した密林、それらが遠くむ望まれる地点での読経、白鷺に似た大きな白い鳥が数羽鳴きながら舞うようにゆっくり飛んでいったのが印象に残っております。
さて、血染めの丘での慰霊祭、サボ島、フロリダ島が遠く望まれるところに建てられた立派な記念碑、そこは既に大使館の配慮並びに海外協力隊の方々の御協力により花輪が飾られ準備が整えられておりましたが、その中に昨日表敬訪問した副大統領からのものも見られ、平賀臨時代理大使御夫妻も果物籠を供えて参列頂いたことは、英霊もさぞ喜んでおられたのではなかろうかと思われます。

読経並びに慰霊の言葉、参列している間に見も引き締まり万感胸に迫るものがありました。
「この地で散華された多くの方々の御冥福をお祈りすることができ、喜んで頂けたであろう、これで今回の任務を果たすことができた。」と満足感のようなものに浸ることができました。
あたら、こちら戦跡を訪ね、説明を聴きながら困苦の中で戦い、そして再び故郷に帰ることなく、この地で果てられた方々を偲び、飛行機の窓から飛行場の滑走路を眼下に緑の山々を越えて、ガダルカナル島を後にした十月一日、この日をこれからは忘れることはできないでしょう。
今回の慰霊巡拝に参加し、自分で感じたまま書き記しました。

最後に、帰りのシドニーのホテルの売店での出来事ですが、オーストラリア式計算方法を一つ紹介させて頂きます。
ホテルの売店で土産を買おうと思って目にとまった貼紙、そこには「外国人旅行者30%引き」とありました。
パイポート、航空券を呈示し、書類を作って土産を買い代金支払いになって、どうしてもこっちの計算した金額と合わない。

言葉が通じないので紙に計算方法を示しましたら、向こうも紙に30%引きの計算方法を書いて頑としてこれが正しいとの主張です。
それが何と最初の値段から10%引き、その金額から10%、10%とひく。
10%づつ三回引いたのだから30%引きであるとのことです。
言葉もよく分からず最後は相手の主張の通り代金を支払って来ました。







巡拝に参加して




中条町長 熊倉 信夫

ついにガダルカナル島に来たという実感はタンベアのランプのついている宿舎に案内されたときだった。
真暗闇をすかしてみると、すぐ近くに海はありそうである。
マンゴか何かの落ち葉をカサカサ踏みしめながら、じっくりと実感をあじわいつゝ宿舎に入る。
我が国の歴史の中には、学ぶべき数々の戦訓があるが、特に顕著なものとして、長篠の戦いがある。

三十数年前に一回、この古戦場の跡を汽車の中から眺め、ああここだったのか、有名な戦いにしては規模の小さい、兵隊ごっこに丁度良い規模だったと思った位だった。
後で気づいた事ではあるが、このガダルカナル島もあんまりにのんびりしていて、島の自然も穏やかで、まさかここが壮烈無比な激戦のあったところだなんて全く考えられず、長篠と同じ感じを持った。

折々長篠の戦いを振り返ってみるとき、我々越後に生まれた者は、かの川中島の戦いで、鞭声粛々と押し寄せた越後の上杉謙信が、甲斐の武田信玄に切り掛かって行くさまが、いろいろな絵になって見せられているので、謙信のほうが遥かに信玄より上であると思っていた。
しかし時間がたつにつれ、それがだんだんあやしくなりつつある。
勿論昔の事であり、お互いに主観もあるので、どっちが偉いとは一口に言い切れない事だとは思うが、近頃は何か信玄という人のほうがスケールも一回り大きく、信長、家康、義元等に食い込む機会を窺い、力を蓄えていた人のように思える。
その信玄が、武田節に歌われるように、「己々馬は飼いたるや」とあるように、殊の外馬を愛し、騎馬を編成し、その運用は絶妙であったと言われている。
信玄堤の名もあるように、治山治水も行い、文武にもたけた名将である所以である。
ところが、この名将が何故長篠で織田信長に破れたのか、それが正に、キリシタンと共に入ってきた鉄砲を利用した鉄砲隊の編成によると言われている。
馬と鉄砲の対決は明らかである。
これ以後日本の国内の戦争の仕方が大きく変わっていく。
何回かガダルカナル島に遺骨収集等に来られ、戦後の処理状況にも詳しい聖籠町の長谷川町長さんが熱っぽく訴える当時の状況を聞くと、益々無念さが募り、ここで亡くなられた方々にも、さぞや残念だったろうなあと思わずにいられなかった。

最初海軍の陸戦隊が上陸して、アメリカとオーストラリアの連繋を断つべくここに飛行場を建設し始め、ほぼ完成という時点にアメリカ側に占領されてしまった。
悲劇はここから始まる。
当時日本の海軍は夜戦に於いてはどこにも負けないと自負していた。
猫の目といい、夜でも訓練し、目をならし、獲物を発見する。
その効果があり島の隣ツラギ夜戦には赫々たる戦果のあがったことを記憶している。
ところが或る日突然優位にあった日本海軍が、姿も全く見えないアメリカ側からポカポカと打ち込まれ、死闘を強いられて来る。

この闘いでかってのケネディー大統領も負傷するというすさまじいものだったようだ。
かの辻参謀がこの指揮にあたられたとのことだが、話によれば、二万とも三万ともいわれる援軍をあげながら、補充を繰り返すという最も懸念すべき兵の運用と、今一つ決定的なことは、兵隊の集結しているところに僅かの音でもたてると、砲弾が飛んできたということである。
集音装置が全島に張りめぐらされ、日本軍の行動が手に取るように探知されていたことである。
新発田の部隊も飛行場奪回を目指し、集結している間に幹部がやられたそうである。

迂回を重ねて近づいて行くが、食糧もなかったということを思うとき、本当に大変だったと思う。
しかもこの期間が昭和十七年十月から翌十八年二月までの間と、戦争が始まってまだ一年も経っていない時期であり、日本国内では戦勝気分で溢れていたとき、最前線では飢餓の戦いに挑んでいたわけである。

日本軍隊は進むことはあっても退くということは教えられていなかった。
然し、近代戦争のはしりとも言うべき電探が、このガダルカナル周辺の陸、海の戦場に取り入れられ、その様相を変えてくると、日本としてもここを放棄せざるを得なくなって、考えられた言葉が「転進」である。
昭和二十年八月十五日には敗戦と言わずに「終戦」と言った同じ発想であろう。
この一角が崩れてからの日本軍の態勢は、正につるべ落としの落日のようである。

大和魂と文明のとの戦いの犠牲として、ガ島の戦没者は散華された訳である。
慰霊祭の折、たまたま居合わせた方で、遺骨収集に来られた旧大隊長の勝沼氏(勝股氏)の話では、ツラギ島は慰霊碑に向って右稍後方にあり、あれだとと言われたとき、この島とこの静かな海、ここから日本の命運が決められたことを思うとき、あまりに穏やかなので全く信じられなかった。

それに加えて原住民の人々の人なつっこさ、我々を歓迎してくれるあったかい笑顔には、好感が持てると同時に、戦没者をよろしくお願いしますという気持ちで一杯だった。
肉弾肉弾又肉弾と、今は静かなタサハロングの海辺には、片道切符を覚悟したのか、はたまた空襲を避ける為か、浅瀬いっぱい乗り上げて擱座した船の残骸は、往時を偲ばせるにはあまりにも空しい姿であったし、撤退を予定され、集結地にあてられたエスペランスの周辺は、船を見ても歩けない人や、傷ついた人々の思いが海から寄せる浜風によってささやかれているようでもあった。

現世の同世代に生きる者として、亡くなられた人々の生き様に接したようで、ただただ厳粛そのものであった。
そして又、今日まで生きてこられた限りない喜びと、自分だけがこんなに幸福を享受しても罰があたらないものだろうかとさえ考える程、有難かった。
長路の旅ではあったが、特別に参加された新発田市商工会員の方々の随所におけるご親切で楽しく過ごすことのできたことを感謝して報告を終わる。




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