冥府

日本陸軍 第二師団 歩兵第十六連隊 新発田 あやめ会 戦記 戦死者名簿 ガダルカナル 雲南 ビルマ ジャワ ノモンハン 遺骨収集 政府派遣

慰霊巡拝 ガダルカナル島の祈り




ガ島慰霊の旅を終えて




安田町長 本田 富雄

(はじめに)

「苛烈千古に輝く」の見出しで「大東亜戦争の最前線西南太平洋ガダルカナル島における皇軍将兵の凄惨言語に絶する悪条件を克服しての挺身、血戦は、日本精神の権化として全世界を驚倒せしめ、一億同胞粛然として英霊に感謝の誠を捧げ我等在天の忠魂に続かん・・・の決意を固めたのであるが、あれから半星霜今ここに武人としての本領を余す処なく発揮、莞爾として散華した本県出身英霊が公表された。思えばガ島作戦が・・・。」

これは、昭和十八年七月六日付新潟日報三面に掲載された「ガダルカナル島で玉砕した郷土出身戦死者名」の公表の前文で、仙台師団長赤倉正三中将の「弔魂の詔」と当時の新潟県知事前田多聞氏の「戦没勇士の忠魂に誓ふ」の談話が二千三百余名の戦没者名簿とともに、三面から四面にかけて発表されています。

私は、その頃、満州国錦州省錦西西方の七老図山脈で石綿の調査に入っており、上手な日本語?より下手な中国語の方を日常会話に使っていた頃ですので、専ら資源開発の第一線でマンガン、アスベスト、石膏、ベントナイト、芒硝、鉛、タングステン、更には土類元素鉱物など、軍需物資の調査・開発に青春の血をたぎらしており、「我々技術屋を召集するようになれば日本は負ける」などと白酒やジンなどの力を借り、大言壮語を吐きながら祖国日本の必勝を信じ、悔いのない日々を送っておりました。

それが、昭和十九年二月に三ヶ月の教育召集を受け、無理矢理幹候試験を受けさせられ、合格のお陰で沖縄移駐の原隊から、関東軍の延吉予備士官学校(六○四部隊)に入校、更に米軍の沖縄上陸のため原隊復帰が出来ず、戦争末期の昭和二十年六月関東軍第五軍司令部付陸軍見習士官から、本土警備要員として中部軍司令部付へ転属した際、ガ島生き残りの軍参謀から血の叫びに似た異常な訓話によりはじめて郷土部隊の壮烈な戦いぶりを知らされ、精強無比の越佐健児を同郷の先輩に持つ誇りとともに戦局の岐路に立たされた下級士官の責務の重大さに身の凍る想いと継志の念に燃えたことが昨日のことのように思い浮かべられます。

このような私は、常に生死紙一重の道を歩み続け、終戦を姫路の中部四十六部隊で迎えましたが、原隊の松山歩兵第二十二連隊は昭和十九年七月六日南下命令を受け「山三四、七四部隊」として十二日東安省西東安を出発、釜山から博多へ、門司から沖縄金武湾に上陸、山谷村附近に展開したのですが、以後、原隊の行動は、僅かに将校集会所における戦訓討議の際に報告される、彼我の物量、制空権などの格差を精神力のみで対峙、奮戦する戦友達の玉砕と言う苛烈な戦いぶりだけでありました。

戦後、米軍占領時代から機会ある毎に沖縄の地を訪れ、戦友の霊を慰めておりますが、ガダルカナル島もまた同級生も含めた郷土部隊の玉砕の地として忘れ得ぬ島であります。

新発田歩兵第十六連隊第一大隊本部付曹長としてガ島で九死に一生を得、ビルマで終戦を迎えられ、陸軍准尉として栄光に輝く連隊の最後を見取った聖籠町長長谷川栄作さんが、時に際し折にふれ、当時を偲ぶ思い出話が、先年のガ島遺骨収集団参加以来一層つのり、兄上をガ島で失われた黒川村長を始め我々もまた、機会を求めて彼の地を訪れ、郷土出身戦没者の勇戦の足跡をたどり、慰霊の誠を捧げたいと念じておりました。

幸い、このたび南冥の地ガ島へ北蒲原郡町村会主催によるガダルカナル島慰霊巡拝、オセニア地方行政視察団が結成され、宿願達成の機会に恵まれたことは、誠に感謝に堪えないところであります。

一行は北蒲原郡内町村長十名と新発田市より市長、観光課長、社会福祉事務所長の計十三名に新発田商工会議所より十四名、更に新潟市の生き残り隊員及び中条町の遺族各一名の合計二十九名の大所帯となりました。

ガ島へのコースは、パプアニューギニア経由とオーストラリア経由のニルートがあり、いづれも週ニ便程度で、それも乗客が足りないと欠航することがあると言う最果ての地であり、私達一行は実飛行十六時間半の成田、香港、シドニー、ブリスベーン、ホニアラのコースを選び、現地事情に精通されている長谷川町長さんに一任いたしましたが、公的機関を通じての便宜依頼など、大変ご苦労をおかけしたことを心から感謝申し上げます。


(南冥の地ガ島へ)

出発日も九月二十六日と決定し、現地での慰霊祭執行の準備として、ご遺族を介して戦没者の卒塔婆の準備から始めましたが、遺族会からの報告では、本町出身戦没者は五名であると知らされ、聖籠町長さんにお話ししたら、そんな筈はないとの言葉で再調査させました処、次の十九名の方々でありました。

伍長 石川 竹一  昭17.12.19 小島 太一
兵長 古日山 権志郎  昭17.10.26 久保 勝春
兵長 小野里 幸男   昭17.12.27 六野瀬 孝男
伍長 伊藤 桝蔵    昭17.11.17 寺社 晴司
兵長 井上 春美    昭17.10.25 新保 富太
兵長 井上 作蔵    昭17.10.25 新保 留三郎
伍長 木村 益吉    昭17.11.28 御城町 征一
兵長 笠原 勇吉    昭18.1.15 本町 富久
兵長 月岡 計四郎   昭18.1.15 岩野 計蔵
兵長 石本 留蔵    昭17.10.26 福永 良平
伍長 長谷川 長平   昭17.11.23 野田 香苗
兵長 井上 講一郎   昭18.1.6 上南郷 四郎
上等兵 鶴巻 栄作   昭17.12.24 草水 作治
二等機関平曹 坂詰 富栄 昭17.12.14 新保 寅夫
曹長 石井 重雄    昭17.11.3 五泉市佐取 勘次
伍長 吉田 貫平    昭18.1.18 会津若松市 栄
曹長 星野 隆一    昭17.12.13 東京都 守
兵長 渡辺 弘七    昭17.11.6 五泉市本町 ヒデ

その間にも会議の日程が入り、止むを得ず欠席するもの、延期をお願いするもの、代理で済ますもの等々、帰国後の多忙さが想像されました。
いささか風邪気味でありましたが、集合日時の二十六日午前十一時、新潟駅新幹線コンコース「タマ公」前に集合、十一時三十六分発あさひ三六ニ号に乗車、成田空港の特別待合室で改めて結団、前途の平安を祈念して乾杯した後、一路ガ島へと旅立ちました。

途中三社の航空会社機を四回乗り継ぎ、待機時間と途中泊を含めますと四十七時間を超す、ガダルカナル島への道程は、今もなお南冥の地であり、瘴癘、焦熱の地でありました。
南緯十度、ヤシの疎林に囲まれたヘンダーソン空港は、国際空港とは名ばかりの蒸し暑く冷房設備もX線検査施設もない貧弱な建物で、正にローカルエアーポートでありました。

四十五年前、サツマ芋のように東西に長く、大部分が山岳で、僅かに北部海岸に平地の開けた新潟県の半分程の無人の島を、オーストラリアを孤立させるための米豪分断作戦の要衝として着目、この空港の近くに朝鮮人や台湾人の人力主体により建設された日本軍の飛行場に対し、七万余の米軍と三万の日本軍が七ヶ月にわたり、争奪、死闘を繰り返し、別名餓島と呼ばれた島とは、想像もつかない平和な夕景色でありました。

入国管理手続きは、駐ソロモン諸島日本大使館の林領事の特別なご努力でフリーパスでしたが、税関検査は中々厳しいもので、団員の総ての荷物を手と目によりすみずみまで調べる「何とかのひとつ覚え」的な検査で、しかも超スローモーで、ケニロレア総理代行とウオーレ・ホニアラ市長へのお土産まで立会いの林領事預かりでようやく没収を免れるという一幕もありました。

又供物や伊勢丹で買い求めた漬物や珍味まで総て持ち込み禁止品で若い女性税関史が上司のO・Kサインに不服そうな顔をしながら戻すなど税関検査だけでも大変な時間でした。

出国の場合の持出についての厳しい検査があると聞かされておりましたが、たまたま露天市場の飾り職人に高射砲弾を見せられ、五ドル(一ドル70円)の値段を四ドル二十セントに値切り、三百円足らずですので税関に没収になっても大したことでもなく、試しにとトランクの最上段に入れておきましたところ、早速取り上げられましたので、市場で買った品であると主張しましたが、「上司に伺ってO・Kが出たらお返ししますが、そうでなかったら諦めてください。」と言葉は丁寧でしたが見事に没収され、買ったときの記念写真だけが手元に残った次第であります。






(南冥の旅籠)

ガ島での宿泊は、第一夜が東端タンベアのタンベア・ビレッジ・ホテル、次の二泊はホニアラのメンダナ・ホテルでした。
空港から六十キロメートル程のタンベアへの幹線道路は、舗装率六十パーセント程度で、日本製中古マイクロバス二台に分乗した我々の行く手には対向車もまれで、時折裸足の原住民を見掛けるだけでした。

途中ホニアラの街並みだけはさすがに街灯もあって、広い歩道と白い花をつけた街路樹が印象的でした。
あとでホニアラ公式訪問のとき、この花のレイを首にかけられ、名前を聞きましたら「フランスパン(フランギパニー)」と聞こえ、花の香りとともに記憶に残る想い出のひとつとなりました。

車のライトに映し出される岩陰や木橋の長さ、或いは海岸沿いに走る車窓をのぞき込みながら、第二師団の中核戦闘部隊として敵前上陸をした歩兵第十六連隊第一大隊本部付長谷川栄作曹長に返った聖籠町長さんから「正確な地図もなく、敵状も不明という最悪の状況の中で、二千五百余の生命をあずかる広安連隊長と先任大隊長源中佐の祖国の究極の勝利とと部下を愛する至情の激しいやりとり」含めた説明には、作戦要務令では時として独断専行は認めても、たとえ同列同級でも一日でも先任の者には従わなければならないしがらみに散って行かれた戦友への思い遣りがひしひしと感じられ、ここはガダルカナル島なんだと身の引締る思いでありました。

沢山の出迎えを受けて下りたタンベアのホテルは、フロントだけは電灯があって、山小屋風に並んだニッパハウスへの通路には空缶にボロを入れてカンテラが灯され、部屋は土間で、ツインのベッドが並び天井からヤモリ除けの蚊帳が下がっていました。
ランプの明かりで先ず懐中電灯を出し、続いて抗マラリア剤などの七つ道具を揃えている間にも天井からヤモリが音もなく落ちてくるなど、ホテルのイメージとは程遠く、何か青春時代の満州における調査行を思い出されました。

別棟の食堂では、平賀大使の言を借りますと、
「ここの住民は、メラネシア系ですので、人喰い人種と違って、明るく素直ですが、ボーッとしており、一度に沢山の用事を頼んでも混乱しますので、一つ終わったら次を頼むようにしてください。」
と言われた。

ボーイやコックが総出で、豚の丸焼きや山海の珍味、珍しい果物、パン、ライスボール(握り飯)と数多くの遺骨収集団の好みを覚えたグルメの大歓迎でした。
食後、ランプの下で鳥鷺を楽しむ団長と富樫ドクターに失礼して、シャワーを浴びたら全くの水で、本来なら気持ちよい筈が寒気に襲われ、早々にベッドへ入りましたが、夜半から寒くなった風で、屋根や通路に落ちるマンゴーの固い音になかなか眠れず、今は亡き戦友を偲びつつ、込み上げてくる感情をおさえ、訥々と語る聖籠町長の言葉を思い浮かべておりました。

翌朝、微熱と下痢のため朝食をぬき、海辺に近いホテルの一隅で収集した遺骨を焼骨した跡に建立された慰霊碑に参拝しました。
廻りには、焼けただれたプロペラや赤サビた大砲などもあるヤシやマンゴーの木立の中でしたが掃除が行届き、ソロモン国やホテルの気配りと開発途上国民の素朴な中にも心のこもった接待には心温まる思いでした。
次の二泊は首都ホニアラの中心部に位置した四階建の近代的ホテルで、冷房はもちろん冷蔵庫に温水バスルームもあるゆったりとした部屋で、室内からは直接国際電話もかけられる、前泊とは対照的で四ッ星も通用する様なホテルでありました。

働いているひとたちの中には英国系の人も見えましたが殆ど原住民で、服装は一応整ってはいましたが、平賀大使の評価通りのボーイ達で、欧米では当然のチップも純朴さを汚すから出さないように・・・、だが、十年たったら変わっているでしょう・・・、には同感でした。
ショウホールの隣が大食堂と総て南国らしく開放的な造りで、庭園は海水浴のできる浜辺へつづき、専用プールもあってバカンスを楽しむオーストラリア人に混ざり団員も波静かな南の海で憩いの一刻を楽しんでおりました。

ところで、この附近が日米両軍がホテルの脇の小川を境に、半年近くも対峙し一進一退の激戦を続けた所で、今も道路を隔てた民族資料館の前庭に、日本軍の撤退した方向に向け十五榴弾砲が展示されており、製造番号や大阪造兵廠の文字も読み取ることができました。






(公式訪問)

今回のガ島視察には、聖籠町長さんと新発田市長さん特別な努力により厚生、外務の両省より、在ソロモン日本大使館を通じてソロモン諸島及び首都ホニアラに対し、我々一行の慰霊巡拝の目的達成の努力要請と友好親善のための表敬訪問の日程が予め組まれておりました。
最初の訪問先、在ソロモン日本大使館は、首都ホニアラ・タウン中心部の五階建ビジネスビルの三階で、窓に掲げられた日の丸の旗で外部からも確認できました。
受付で案内を乞いましたら、早速大使館自ら広い会議室に案内され、外務大臣より予め司令文書で支援申し上げるように依頼されており、夫々手配済みであることを話され、労を労わられるとともに、九年前に独立したばかりのソロモン諸島の現状について詳細な説明をして頂きました。

「ソロモン諸島国は、東からサンクリストバル、ガダルカナル、マライタ、ニュージョージア、サンタイサベル、ショアスールの六島とその間に散在する島々から成り、総面積二万九千八百平方キロメートル(四国の1.63倍)、人口三十万人で1978年七月七日に英国から独立し、ガ島のホニアラが首都になっており、ガ島の人口は五万五千人で、その内二万二千人がホニアラ・タウンに集中し、更に増加の傾向である。

気候は年中摂氏二十六度以上の熱帯雨林型で、数年前までは半裸のその日暮らしをしており、平均寿命も四十五歳から四十七歳という開発途上の国であり、国家財政の四乃至五割が外国の援助で、日本も十億円の無償援助を行っている。
教育は義務制ではなく、年齢も関係ないが、高校まであって特に師範学校と実業高校(農工)に力を注いでおり、大学はオーストラリアに留学しなければならない。
産業としては、タロ芋、ヤシ、バナナ、マンゴーなど自給食糧としての焼畑農業と輸出向けのコプラ、ココナッツ、更に最近ではカカオの栽培なども試みられており、野菜の自給も出来ず輸入しており、優秀な技術を持つ日本の技術指導を期待している。

只、この近海がカツオ、マグロなどの漁業の宝庫で、日本の大洋漁業が現地法人ソロモン大洋漁業を設立、多数の現地人を雇用し、合弁で最新の缶詰工場も稼動している。
鉱石も豊富で、金、銅、アルミ、ニッケルなど多様ではあるが、土地の支配が酋長にあるので、トラブルが絶えず開発の手が伸びていない。
医療関係では、マラリアなどの風土病の撲滅が急務で、このための対策施設や病院などの整備が進められている。
治安については、平穏で軍隊はなく、専ら警察の仕事になっている。

又、午後訪問予定の総理代行サー・ピーター・ケニロイア氏は、前総理で天然資源大臣を兼務しており、マライタ島の酋長を代々勤めている名門である。
現総理は労働組合出身で目下外遊中である。
この他道路など基本的社会資本の整備についても日本に対する期待感が強く、日本政府もまた、建設省の嘱託員や青年海外協力隊を派遣し、それぞれの部門で高い評価を受けているが、日本に対する感謝と期待は、即信頼にはつながっていない。
と、かっての戦いの爪跡やエコノミックアニマル的行為の末風化を感じ取りました。
この他民情などの説明をされるなど、幾度か体験した表敬訪問の内でも最良の一時でありました。
隣室には、原住民の届けてくれた遺骨や遺品が安置されており、明日来島される厚生省の遺骨収集団にお渡しするとのことでした。

午後からは、ホニアラ・タウン・カウンシル会議室にバレンタイン・ウォーレン市長を訪問しましたが、広場に建てられたプレハブ二階建ての庁舎入り口まで市長が出迎え、一人ひとりと握手の上、白いフランギバニーのレイを贈られ、八人の議員と幹部職員も同席しての大歓迎振りでした。
市長は「新潟の皆さん、よくおいで下さいました。日本とソロモンの友好を深めることは大変有意義なことであり、心から歓迎申し上げます・・・」と挨拶された後、手分けをして貝殻細工のネックレスをつけてくれ、缶ジュースやヤシの果汁と珍しい手作りのご馳走を勧めてくれました。
僅か一時間足らずでしたが、議員でもゴム草履にショートパンツ、アロハ姿と服装は立派とは言われませんが陽気で素直な国民性と感じました。

つづいてカフェテラスでソロモン諸島総理代行兼天然資源相のサー・ペーター・ケニロレア氏を訪問しました。
平賀大使も同席されましたが、総理代行は
「暑い国にようこそおいでくださいました。
総理は外遊中で不在ですが日本とソロモンは密接な関係があり、特に海洋資源の開発に協力を願っています。独立後、日本の経済協力で個人企業の発展が目覚しく、他の諸国からの協力も頂いているが特に日本の経済協力は突出しており、今後もこの状態を期待しています。ソロモンは天然資源に恵まれいるが特殊な事情で残念ながら開発が遅れています。 あなた方の来島された理由はよく知っています。私の執務室が小さいためお迎えできずに大変失礼しました。 明日の慰霊祭は私も参加させて頂きますが、日本人の国に対する忠誠心や人に対する信頼感などよく学んでいますし今後とも貴国に学んでゆきたいのでよろしくお願いします。」
と話され懇談に入りました。
途中から平賀大使も同席されて、来日二回の知日派らしく、日本の驚異的な発展ぶりに感心されるとともに日本に対する開発途上国の熱い期待が感じられ、第四次全国総合開発計画の指針であります「世界に開かれた日本」の重さと「世界に貢献する日本」の責務を痛感しました。


(慰霊巡拝1)

正味二日間の滞在の中には、公式訪問などもありましたので、中古バスでの移動にも窓外に望まれる山、川、森そして海と眼前に展開する総ての事物が、もし口をもっていたら、どのように先の戦いを物語ってくれるであろうかと感慨深く胸に焼き付けて来ました。
特に、戦史に残る奇蹟の撤退作戦と讃えられたエスペランス岬の砂浜では、飢えや病或いは傷つき、僅か数キロメートルの距離を敵機を避けながら地を這い、草を分け、一週間もかかった末、武運つたなく散華された方々の話。

又、そこから二十キロメートル程西のタサファロングの砂浜には、輸送船月山丸の残骸が静かに波の洗うにまかせておりました。
この船は、新潟・羅津を結ぶ日満航路の花形客船で私も利用した事があり、第二中隊を乗せたままの強行座礁で、沈没を免れた痛ましい姿は、粛然胸を打たれる思いでありました。 碧く澄み、湖のように波静かなこの海が、別名「鉄底の海」と呼ばれるほど激しい消耗戦が行われたとは想像もつかない光景でした。

ふと足下を見ると郷土部隊見敵必勝の信念に燃えて敵前上陸した浜辺に、人骨に似たサンゴの遺骸が打ち上げられており、ご遺族への土産にと拾い集めましたのは私だけではありませんでした。
師団の糧秣基地があったと言うコカンボナは、この浜から約二キロメートル南になつており、河原のように殺風景なところでしたが、そのため一層目立つ白く美しい三角形の慰霊碑が建立されていました。

アメリカ在郷軍人会がガ島で相対した日本軍将兵の悪条件に屈せず敢闘されたことを讃えて1927年に建立されたものだそうで、香華を捧げている間にも原住民が供物欲しさに集まっていました。
この脇の枯川が水無川と呼ばれ、近市長さんの一族が病院長をしておられた、第二師団の野戦病院と言ってもこの近くの二つの洞穴を利用したものだそうですが、余りに多い傷病兵のため収容しきれず、この上流の河原に、食糧も医薬品も事欠く悲惨な状況の中で寝かされていたそうです。
又、ここから程近いヤシ林の中に原住民の家屋が点在する何の変哲も無い田舎道が「丸山道」でありました。

ここから約十キロメートル東方を流れる勇川流域は米軍の隠しマイクの犠牲となった第一大隊長源紫郎中佐戦死の地であり、第二師団最後の防衛線でもあったようですが、長い年月とホニアラの街並みが伸びて跡形もなくなっていました。









(慰霊巡拝2)

翌九月三十日は、いよいよガ島訪問最大の目的でもあります戦没者の慰霊の式典を標高四百十メートルのアウステン山の一角で、最も激しい戦いの続いた「血染めの丘」と呼ばれる台地に建設されたソロモン平和公園内に、財団法人南太平洋戦没者慰霊教会とソロモン諸島戦時戦友会が主体となって建立した慰霊塔の前で実施することになっていました。

生憎、当日は夜半からの雨で予定通り実施できるかどうかで心配していましたら、大使館からの電話で「ガ島は風邪をひきやすいので注意してください。私共も、ここには気象台がないので科学的な判断に頼ることはできませんが、古老の話では午後になれば晴れ間もあるだろうと言っていますので午後にしてはどうですか」というお話に、いささか心もとない古老の御託宣に従って午後二時に変更して模様を見ることにしました。

幸い、次第に雲も晴れ、九時頃には雨も上がったことから、本来午後の予定でありました飛行場南方の郷土部隊玉砕の地を巡拝することにしました。

途中、ホテル附近のヤシ林の小道にジープを止めて旗を立てている警察隊に会い、事情を聞きましたら、この奥に不発弾が発見され日本の海外協力隊員の指導で海岸に運び出し処分するとのことで、改めて戦争の傷跡の深さを知らされました。

私達を乗せた車は、ヘンダーソン空港東側のテナル川の左岸を迂回し、両側ともよく手入れをされたヤシ林の中に、カカオやパパイヤを混植した農道を通り標高六、七十メートル程の独立した丘の麓で下車、一面採草地のようなゆるやかな斜面を牧道づたいに進み、郷土部隊が精強ぶりを遺憾なく発揮された主戦場の一角、テナル山頂に立ちました。
ガ島の大地に直接香華を手向け、栗橋師による鎮魂の読経が捧げられました。

粛然襟を正している眼の前を飛び立つ小型機に、あの飛行場が目標と祖国の必勝を信じ散華された英霊に対し、郷土の首長として、戦友として、又遺族として合掌、ご冥福を祈り続けました。
高く低く静寂を破って流れ行く読経の声・・・・、私は胸中しずかに「海ゆかば、水漬くかばね、山行かば、草むすかばね、大君の辺にこそ死なめ、かえりみはせじ」の歌詞を思い浮かべておりました。
周りの山波は疎林あり、草地あり、更に赤土のむき出しなど、丸山道の開削をしていた工兵隊がジャングルのため方向を間違ったなど想像も出来ない光景で、山野も変わる激戦の後遺症と理解でき、長谷川町長さんの状況説明が一層実感として受けとめられました。

特に広安連隊長の最後の模様は、同行された青木氏から詳細をお聞きしましたが、指揮官としては当然の行動であったとしても、最後まで部下を気遣いながら受傷し、従容として悠久の大義に生きられたことは武人の本懐とは申せ、目頭が熱くなりました。
終戦直後、姫路市で編成準備中の那智部隊要員で、静岡県大井川附近に展開予定の私は、連隊砲小隊の指揮官として兵庫県下で繰上げ召集された十九歳の初年兵教育をしており、水際作戦の防禦陣地を死守することは文字通り死ぬことと覚悟しておりましたが、命長いて戦友の霊を弔う運命の奇異に、今はただ、安らかなお眠りを願うのみでありました。

ソロモン平和公園における慰霊祭終了後、新発田市主催で、お世話になった大使ご夫妻や海外協力青年隊との昼食会が、お天気の関係で逆順となり、しかも不安定な空模様から、一部団員からは昼食もそこそこ準備に先発して頂き、私たちが到着したときは、青年協力隊員のご協力ですっかりでき上っていました。
慰霊塔前に設けられた祭壇中央に「空ガ島戦没日米病疫者諸英霊」の御位牌をたて、その奥に二市北蒲原郡戦没者全員の卒塔婆を並べ、周りには施餓鬼旗とソロモン国総理代行、在ソロモン日本大使館を始め市町村長、新発田商工会議所、遺族会、あやめ会などから花輪を飾り、青木隊員が、一番食べたかったのは都屋の羊かんでしたと話されていました甘い物も含め数々の供物を供えていましたら、小さな男の子を連れた協力隊員の奥さんか゛「その水は飲めますか、ここでは生水は飲めないので、少し分けて頂けるでしょうか」と話しかけられ、なみなみとコップで供えるつもりが遂つい半分くらいに止め、これも供養と残りをお分けして喜んで頂きました。
諸準備を終え、宿願のガ島戦没者慰霊際は、熊倉中条町長の司会で始められました。
この日のため、わさわざ京都で新調されたという法衣をまとわれた栗橋師の極限の緊張が団員に伝わったか、肉親、友人、知己、先輩の御霊をお慰めできる団員の感動が伝わったのか、参列された大使のご夫妻、青年海外協力隊やその家族、そして到着したばかりの厚生省遺骨収集団の飯島事務官や旧第一大隊長の勝股氏等から供物のお下がりを期待して周りを囲む原住民まで、緊張のため微動もできない一時間でありました。
私の横にお立ちの平賀慶暉大使が感動に満ちたお顔で「いやァ、立派な慰霊祭でした。感動しました。過去に沢山の団体が来られて、慰霊祭を行ってますがこんなに荘厳な慰霊祭は初めてであります」と感動的に話されておりました。

読経、祭文、慰霊の言葉、焼香と続く中で僅かに動くのはカメラマン役を願った添乗員のみで、閉式の言葉を申し上げた私自身、緊張の余り論旨不明ではなかったかと終わった時には、熱帯の蒸し暑さも手伝って汗ビッショリでした。
閉式後、余りにも立派な慰霊塔に、背後へ回って見ましたら、建立者名の銅版がはめ込まれており、財団法人南太平洋戦没者慰霊教会会長竹田恒徳とあって外に亀岡高夫、瀬島竜三など二十三人の名前がありました。

又下段にはソロモン諸島戦時戦友会、W・ベネット更に建設協力団体名が印され、宮城、新潟、福島など関係各県を始め、第二師団、第三十八師団、一木支隊、川口支隊などの戦友会、全国ソロモン会、福島民報、河北新報、岐阜日々等の新聞社、米国戦時作戦在郷軍人会、王立英連邦在郷軍人会などと続いておりました。
そしてこの塔の手前左側に裸身の男性像があって台座には、「愛情、信頼、結城、知恵になぞらえた、四基の柱、この地球で東西南北あらゆる地点に等しい門を開け遠心的な力を秘め、国家や人種や宗教の枠を超え、心をこめて愛と安らぎの復活を祈る」と日英両文で印され、設計、河野廣男、施行大成建設と判読されました。

血染めの丘は、当時は原始の密林と想像されますが、激しい戦いで山谷正に改まり、今では、激しい戦いの続いた山河や海が一望の内に見渡せる景勝の地で、日露戦争の二百三高地にも匹敵できる要衝として、彼我争奪の尊い血潮に染められたことに由来する俗称であり、慰霊塔建立にも意義深い地と提供されたソロモン国のご厚意ら深く深謝申し上げる次第であります。








(慰霊巡拝3)

供物の食べ物や酒タバコを原住民の子供たちにやり卒塔婆を一ヶ所に集積して焼却し、すべてが終わった時、大役を果たした開放感は虚脱感さえ覚え、法衣をたたむ栗橋師の労をねぎらう言葉にもお互い充実感と安堵感が先にたちました。
二度と訪れることのないであろうガ島の風景をカメラに納めながら「もとの木に、生いや茂れる 枝はなお 影をやなせる われもまた 渚を枕に 孤身の 俘寝の涙」と望郷の思いにかられて唱ったであろう椰子の実の歌を思い出しておりました。

少憩の後、オンバ附近の職業訓練校を訪れ、銅板や鉄木を使った土産作りを見学しました。 構内には米軍機の残骸や、未だ使用できる日本軍の三十七ミリ速射砲などが無造作に放置されておりました。
又この近くに全寮制の高校もあって開発途上国の意気込みを感じました。 全日程の終了を祝してガ島最後の夕食会を計画しておりましたら、正副団長と近市長、長谷川町長の四名に対し、大使の招待があり全隊員から防虫剤やツマミ類、酒、タバコ、週刊誌などを提供して頂いて、いくつかの買物袋に分けて持参しましたが最良のお土産と大変喜ばれました。





林領事の車で案内された中華料理店では、大使夫妻はじめ、慰霊祭でお会いした飯島事務官、郡山市の官野喜広氏、八日市場市の勝股治郎氏、更に現地法人の大洋漁業の土居マサアキ総支配人、中田正夫販売支配人、及び海外青年協力隊員の皆さんがお待ちでした。
持参の日本酒で乾杯の後、四方山話に花が咲き、私は夫人と飯島氏の間でしたが、夫人からは、数年前までブリスベーンの総領事として三年間勤務されたことから、夫の勤務の都合でバンクーバーなどにも住みましたが、「生活費が安く月十一、ニ万円で充分豊かな生活を営めるブリスベーンは余生を過ごしてもよい街のひとつです。」と話しておられ、私も日本円一千万円の利息で優雅な生活のできるリスボン、或いは少し高いがスペインの地中海岸でも二千万円の利息で楽しく暮らせるなど話が弾みましたが、師弟の教育にはご心配の様子で、ご長男は既に大学を卒業され商社に勤められたが、長女の大学進学で今年も帰国して来られたそうです。

又、飯島氏からは遺骨収集の裏話を聞かされ、担当官の厳しい悩みに、隣で話し合っている長谷川准尉と勝股少佐の越後と会津部隊の優劣に感情のもつれを生じた過去の話と合わせ、英霊の知らない現実に頷かされるものがありました。
又、土居氏からは、今日総理代行の話されたことは事実かどうかお聞きしたら、確かにその通りで、今晩の料理に出ている魚も全部大使夫人が慰霊祭のあとで釣ったものと話され驚くとともに、大人の足の親指程も肉の詰まったハサミなどグルメが総て油で炒めてあり、我々日本人には本当の味が消されており惜しい気がしました。

ソロモン大洋漁業では、各地で一万三千余の現地人を採用しており、普通の労務者でも月額三百ソロモンドル、技術者で千ドル前後だそうですので日本円に直すと二千百円から一万円足らずだそうで、五年前までは半裸にハダシ、生活だけならニッパハウスにタロ芋と働く必要のなかった島々にも、開発の手が伸び文明の光が差し込むにつれ発展途上国の厳しさと、この純朴なメラネシアの人々に対する日本の貢献の重要さを痛感させられました。


梅干と 世界の酒で 話し合い


十月一日午前八時、僅か三泊四日の短い期間でありましたが充実したガ島訪問の旅を終えてホテルを出発しました。
丁度、出勤時間となりホニアラ市内に通勤する車が意外と多く、その上ハダシで歩く人、自転車を乗り廻す人々で渋滞寸前の状態で幾度となく通ったこの道を懸命に脳裏に焼付けました。 九時三十一分、いったん海に向って離陸したエア・パシフィック機は、大きく左旋回して昨日まで巡拝し続けた野山や街並みを見下すことが出来ました。

ふと私の耳元で「戦友!!安らかに眠ってくれや。又来てやりたいが俺も歳だしなア。勘弁してくれや。」とささやくような声が聞こえてきました。
青木上等兵でした。
私も思わず胸が熱くなり、涙を見られないように雲海に消えて行くソロモンの島々をいつまでも眺めていました。
目的達成の気安さから、ほぼ満席の後部座席に屯むろした私達は、機内サービスの麦酒、ワイン、ウィスキーなどで歓談しましたが、ツマミが少なく、鞄の底からカリカリ梅干を見つけて勧めたら、結構行けると評判でした。
団員の富樫先生が俳句の師匠で、旅行中も時折愛弟子の近市長を指導されていたことから、この道には全然門外漢の私もつれづれなるままに五・七・五と文字を並べてみました。


「梅干と 世界の酒で 話し合い」


季語もない代物ですがオーストラリア東海岸の美しいリーフの眺めも手伝って心地よい旅人の気分を味わいました。


(おわりに)

ブリスベーン、シドニー、香港、成田と逆コースで帰国しましたが、早速公務出張が待ち受け、年の暮れので休養をとる日もなく、倒々四ヶ月カゼ薬を飲まされるハメとなり目下好きな酒も慎み、専らウーロン茶で我慢させられております。
最後になりましたが、先年南米移住地の視察をした際、日系コロニアの皆さんが市場から遠く、輸送がネックであると嘆いておられたことを思い出しましたので、ヤセニア農業にも強い関心を持っておりました。

ソロモン国における、指導的農業技術者の待望、オーストラリアの広大な土地と安い地価、更に安定した物価と治安を考えたとき、私は農産物自由化の深刻な影響を悩む先進中核農業家が今こそ発想の転換を図るチャンスであろうと考えました。 十月から三月まではオーストラリアで畑作経営を行う位の規模雄大な通年営農構想はは如何なものであろうか。

当然のことながら、資金、語学、技術などの難問もあろうが、市町村と農協の協力態勢が整えば不可能事ではないと考えられます。
幸い、同経緯度で時差もなく、夏冬反対の気候と、安い人件費のオセニアは、円高ドル安と相まって青年農業士諸君に限りない夢と希望を与えるものと信じ、粗案を提起します。

ここに祖国再建の礎となられた諸英霊のお陰で築かれた日本の繁栄を感謝し、これからも二十一世紀に向けて確かな歩みを続けることこそがガ島血染めの丘に建立された「四基の柱」具現の道であり、ガ島戦没者日米戦死病疫者鎮魂最大の供養と考え、わが道を歩み続けることをお誓い申し上げ所感と致します。








  • 前のページ


  • 次のページ




  • トップページ