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慰霊巡拝 ガダルカナル島の祈り
===南十字星に祈る===
新発田市長 近 寅彦
--- 帰国報告(1) ---
ガダルカナルでの平和の誓い
九月三十日、雨で明けたガダルカナルの朝、平賀駐ソロモン大使の電話は「日本人は島の雨に濡れると直ぐ風邪をひくので、慰霊祭は午後の晴れ間に」とのことでした。
午後二時ころ、私たちは大激戦地アウステン山麓「血染めの丘」に立つ記念碑の前に、島で咲くブーゲンビリアやハイビスカスの花で埋めた祭壇をつくり、遺族から托された灯明や線香、水や食物を山のように供えました。
現地の大使ご夫妻や日本人会の家族のかたがたも多く出席され、私たち巡拝団三十人による慰霊祭は厳かに挙行されました。
常勝寺ご住職の朗々たる読経の声と打ち鳴らす鐘の音は、島の隅々までも届くが如くまた、こみ上げる涙で絶句する祭文や慰霊の言葉は、戦争の悲惨さが将兵の無念さと共に、胸にひしひしと迫り来るのでした。
日本を遠く離れて六千キロ、南冥の果てにあるこの孤島が、太平洋戦争勝敗を決めた戦場となったことも知らず、制空、制海権も失い、全く我が軍に不利な地形と比較にならぬ劣勢の兵力に補給もつかず、餓えとマラリアに耐えながら阿修羅のように戦った将兵に深く頭を垂れ、霊の安らかならんことを祈るばかりでした。
いま、日本は敗戦の焦土から不死鳥さながらに復興し、世界の奇蹟と云われながら繁栄しています。
生命をなげ打って、ひたすら祖国の繁栄と家族の幸せを願って散華された将兵の尊い犠牲を忘れては、これから日本に将来はないでしょう。
私たちは、英霊に、市制四十年で大きく発展した郷土を心からの感謝を込めて報告し、戦争の愚かさを二度と繰り返さない平和の誓いを捧げ、日本人であることの幸せをかみしめながら帰国いたしました。
(広報しばた 62年10月25日)
--- 帰国報告(2) ---
日米戦争のゆくえ
○ ガダルカナルの戦場
ガ島の戦跡を訪ねて以来、私の脳裏を去らぬことは、なぜ、わが十六連隊を含む日本陸軍の精鋭三万人からの兵力を投入しながら、僅か半年にして撤退しなければならなかったかの疑問である。
日米両軍の将兵の血で染められたという丘から眺めた戦場は飛行場の周囲四〜五粁ぐらいて゛、殆ど木もない丘の起伏した草原であった。
僅かな弾薬と糧秣しか持たない日本軍は敵陣の情報も、その周辺の地形も知らず、マラリア、赤痢、脚気に苛まされながら、繰り返し、繰り返し自刃をかざして夜襲をかけた。
最後の総攻撃に参加した十六連隊など第二師団の将兵は、低いが嶮しいアウステン山の密林を切り開き、連日の熱帯豪雨で川と化す泥濘の道で疲労困憊し、一斉攻撃の態勢は整わない。
飛行場を守備する米軍の陣地は、密林を出て草原を突撃する日本軍の夜襲に備えて、幾重にもめぐらした鉄条網と地雷、トーチカに塹壕、その後には砲台が構築されて、密林に仕掛けられた集音装置により集中砲火を浴びせることのできる要塞でもあった。
いかに大和魂とはいえ白兵戦などで勝てる筈のないガダルカナル戦を日米決戦の天王山とした日本軍の動きは次のようであった。
真珠湾奇襲の半年後、日本海軍はガ島に航空基地の建設をはじめ、その完成の直後の昭和十七年八月七日に米海兵隊一万九千人が上陸し基地を占領した。
日本海軍は直ちに上陸援護の米艦隊を急襲(第一次ソロモン海戦)し勝利を収めたが、揚陸中の数十隻の輸送船団を全く攻撃せずに引き揚げた。
八月十八日、一木支隊九百人が上陸して攻撃するも全滅。
九月十三日、川口支隊五千四百人による夜襲、血染めの丘で三千人戦死。
十月二十四日から二十六日、第二師団による総攻撃(夜襲)では戦死と負傷で五千人以上を出したが残念ながら成功しなかった。
十一月十四日、第三十八師団が上陸したが、輸送船の全滅で戦意あがらない。
十八年一月十四日に矢野大隊が上陸して撤退作戦を行い、二月一日から七日までに一万六百余人の将兵がブーゲンビル島へ撤退した。
○ わが歩兵十六連隊の戦斗と「餓島」の撤退
総攻撃のため投入された第二師団は、ジャワ攻略で意気いよいよ高まっていたが、重砲三十八門など戦力源を満載した輸送船団が米機動隊の猛攻撃を受け、その殆どが沈められ、初めから大きな戦力差がつけられてしまった。
しかし第二師団の夜襲は壮絶で、とくに十六連隊の戦斗ぶりは、土田兵吾、坂井正義氏が詳しく記述し、その栄誉を讃えているが、要塞化した敵陣地からの集中砲火により広安寿郎連隊長以下各大隊長は相次いで戦死し、飛行場奪回の望みは絶たれた。
如何なる犠牲を払ってもガ島奪還を貫徹せんとする大本営は第三十八師団と十一隻の大輸送船団を送り込んだ。
護衛の第二艦隊は米艦隊と凄絶な乱斗演じ大勝(第三次ソロモン海戦)したが、目的の飛行場砲撃は挫折する。
このため重砲五十余門、弾薬七万発、糧食一ヶ月分を満載した輸送船団はガ島基地航空隊の猛爆で全滅した。
その後、連合艦隊による大兵力投入の企ては二度となく、飢えと病気に蝕まれ、戦斗能力も喪失し、ガダルカナルはまさに「餓島」と化してしまった。
翌十八年二月の撤退でガ島戦は幕を閉じた。
太平洋戦争で日米両軍が四つに組んで戦ったのはこれだけで、その以後日本軍は敗北の急坂を転落してゆく。
両軍の投入兵力は米軍が六万から七万人、日本軍が三万三千六百人。
艦船の損害は両軍二十四隻づつ。
日本軍の航空機とパイロットの損失は甚大で想像をはるかに超えていた。
○ガダルカナルで尽きた日本の戦力
日本の戦力は連合艦隊司令長官山本五十六が近衛文麿首相に予言した通り、開戦から一年半、ガダルカナルの莫大な消耗戦で尽きてしまい、しかも山本長官はガ島撤退の二ヶ月後、ブーゲンビル島で戦死を遂げた。
海軍軍令部長永野修身は、開戦の年の九月六日の御前会議で「米国の主張に屈服するも亡国、戦うも亡国、だとすれば戦って護国の精神に徹したい。徹すれば、たとえ敗れても祖国護持の精神は遺(のこ)り、我が子孫は必ずや再起、三起するであろう。」と奏上している。
近衛文麿の手記は、陛下は飽くまで太平洋の平和維持を意図され、前途見通しのつかない戦争は回避したいと念願しておられたと述べられておることからも、日米外交の難航も、ガ島攻防戦での大量消耗も統帥部(大本営)の責任とみることは言をまつまい。
○日本軍の敗因
長期戦ともなれば世界中を敵としての戦争に勝算はある筈はないが、開戦一年で、むしろ戦力の優っていた日本がガ島でなぜ敗れたのであろうか。
その敗因は、いわゆる攻撃週末点を見失ったため、制空、制海権を米軍に握られ、食糧、弾薬の補給が絶たれてしまった。
米軍の戦力を甘くみていたうえ、米豪遮断の方針に固執しすぎ、兵力の逐次投入の愚を犯し、莫大な航空機、艦船、輸送船、油槽船を喪失し、圧倒的優位にある米国の工業生産力の前に自滅してしまった。
戦火を意識してか、輸送船を攻撃の対象とせず見逃し、その結果、陸上戦で日本軍は米軍の物量の前に屈服せざるを得なかった。
などが挙げられるが、戦争指導の最高責任者東条英機は日米戦の敗因として、
@米軍の「飛び石作戦」
A米海軍の「高速空母」の威力
B日本の輸送船団の壊滅
を述べていることからも、日本の戦略・戦術で敗けといってよいのではないか。
ところで本土空襲で逃げまどいながらも国民に神国不滅を信じさせていた大和魂と神風はどういうことであったか。
ガ島で飢えに堪え、病に蝕まれながら勇敢に戦っていた日本将兵の大和魂は遂に集中砲火の中に潰えた。
飛行場奪回は大和魂だけでは奏功しなかった。
また神風も広島や長崎での原子爆弾の前に吹くことがなかった。
日清、日露戦争を通じて磨き上げてきた指導者の「勘」は緒戦の成果に酔い、自信過剰となって迎えた太平洋戦争のガ島攻防からは与えられなかった。
○日米開戦の悲劇
ガ島撤退後、間もない昭和十八年の帝国議会で戦況を報告した政府委員「ルーズベルトは日米戦争の目的をデモクラシーの擁護と云ってみたが国民の戦意が燃えないため、米国生存の為の戦争とこじつけただけでなく、さらに開戦前の十一月二十六日に日本に挑戦状をたゝきつけておきながら、真珠湾の奇襲を種に国民の敵愾心を扇動している。
米国の政治のどこに正義や人道があるのか。たゝ゛暴挙の一言に盡きる」と述べている。
この挑戦状とは日米交渉に終止符をうったハル・ノートといわれる最後通牒を指すのだが、その内容は、日本は中国・仏印から撤退せよというもので、東京裁判のインド代表判事のパール博士は、
「これは日本に全面降伏を迫ったもので、このような最後通牒を受ければ、モナコやルクセンブルグのような国であっても武器を持って立ち上がるであろう。」
と証言し、さらに博士は「この通牒はこれまでの日米交渉にもなかったものをもり込み、日本が承諾するとは考えられないので、日本の回答を待たず、前線の指揮官に戦争体制に入ることを命令していることからしても、日米開戦は真珠湾の奇襲ではなく十一月二十六日の最後通牒である。」と述べている。
米国でもハミルトン・フィッシュ下院議員は、「米国を第二次世界大戦に参加させるため、日独伊三国同盟を利用し、太平洋の真珠湾という「裏口」から戦争に介入した。」とルーズベルトの陰謀を批判している。
しかも日本にハル長官が最後通牒をたゝきつけていた事実を、当時米国の議員の誰ひとりにも知らせなかったと大統領の責任を追及し、開戦に至った真実を隠して、それまで戦争介入に反対であった国民を駆り立てたという。
第一高等学校の校長であった阿部能成は開戦の翌日、都新聞に対米英戦に臨みてと題して、国民に「かくなるうえは国民全部が平常心を以って非常時に沈着に活発に順応してゆく工夫をすることである。また最後に当局に要望することは、本気になって本当のことを国民の前に示すことである。正直に本当のことを言わねば、有史以来未曾有の国難に、国民を率いて行くことはできない。」と訴えている。
まさに有史以来の大国難に際して、戦争を指導した大本営は、本当に勝つ気で戦ったのかどうか、ガダルカナルを見れば、また国民に真実を知さなかったこと等を考えれば考えるほど疑問は深まる。
陛下も、有力な指導者も、ほとんどの人が反対であったのに、日米戦争が起き、ガダルカナルの悲劇をみたことは、今考えても大きな謎としか云いようがない。
太平洋戦争の敗因は日本人そのものにあるのかも知れない。
二度とこの愚かさを繰り返さないことが、祖国の繁栄を祈って散華して逝った多くの戦争犠牲者の方々に報いる唯ひとつの道であると思う。