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暗黒の孤島に遺骨を求めて4
十月二十三日
今日はいよいよ全地域収骨の慰霊祭である。
昨日焼骨をしたご遺体はガダルカナル島関係六千八百五十体であり、タンベアビレッジにおいて祭壇をこしらい二十九年ぶりに拝経をあげ、戦友の霊魂が成仏出来るのである。
今更に思う。
国際情勢、感情もあったであろうが、ここまで日本が経済的にも海外に進出し、国力が恢復し、自他共に認めるまでに至ったのに、なぜ今日まで放っておいたのであろう。
しかも今回の収骨事業にしても決してスッキリとした進め方ではなかった筈である。
政府派遣団長石田さんも、協力団の力なくしては、これだけの事業が達成されなかったと、つくづく感懐を更にして感謝しているが、政府当局者は果たしてどう受けとめるのであろうか。
そんなことを考え、日本の内臓に含んでいる諸般の事件を見ても、何か狂っているのではなかろうか。
国家の意思によってこのような状態になったのだから、当然国家の意思によって最後まで処理をしなければならぬことは当然である。
本日はソロモン政府よりミスターデーアルデリス高等副弁務官、ミスタースミス財務長官、ジョンヅ総務長官、ミスターシイタ(ガ島の現地人での最高位の人)、マリオット報道官が列席し、荘巌裡に挙行された。
六千八百柱の遺骨は焼骨のためタンベア宿舎の広場に集積された。
焼骨は10月22日夕刻、全員合掌読教に点火され、翌日23日昼まで燃え続けた。
線香の煙りが鉄底の海に流れてゆく。
海を渡って故国にゆくが如く。
弔辞となり、宮城県郷内君の遺族代表となると一同慟哭涙にむせぶ。
お父さんの顔は知りませんでした。
お母さんはどん底の生活にあえぎながらもこんなになりました。
安心して成仏してください。
お父さん迎えに来ました、今度こそ一緒にかえりましょう・・・。
と述べる郷内君もまた涙、共に涙、涙。
我々も年来の約束と、想いを果たした。
友よ、これから一緒にかえろう------、父母、兄妹の待つ故国に。
長い間本当にすまなかった、ご苦労様でした。
我々生存者も心に秘めたこの二十九年間の重荷は降りたのだ。
収骨はたた黙々と無言のうちに行われた。
合同慰霊祭を終わってほっと一息の団員。
10月23日タンベア海岸で行われた政府主催の合同慰霊祭祭壇。
感極まって涙、ただ涙。
側面には英文で
『日本の遺骨収集団がこれを建てる。1971年10月国の為生命を失った日本とアメリカ兵氏の記念の為に』と記されている。
宿舎タンベア海岸に建立した慰霊塔(同じ物をムカデ高地にも建てた)
夜は野外において、タンベア料理でお別れパーティーを開催してくれた。
今までに食べたことのない珍しいご馳走である。
椰子の葉をむしろ式に敷いて、木の葉に包んだ豚、とり、魚、タピオカ餅等、蒸し焼きにしたもの、その他タピオカ、サツマイモ等の料理である
。
土人のバンドは夜空にこだまして流れてゆく。
マイクもないが、よく通る声は南国情緒にあふれるものがある。
日頃世話をしてくれたタンベアビレッジの若者達は、実によく意気が合って、日本人、ソロモンナンバーワンと褒めたたえる。
いやタンベア住民だけでなく、ガ島に住む全部の現地人は日本人に親しみを籠めて接してくれる。
これが今次の遺骨収集を成功させた大きな要因でもあった。
室にかえっても彼等の歌と踊りは続く。
踊りはゴーゴー踊りで、日本に見られるものとそっくりである。
いや、こちらが正調なのかも知れない。
遠くで聞いていると、田舎の盆踊りのように聞こえてくる。
タンベア宿舎のボーイ達、涙を流して別れを惜しんでくれた。
十月二十五日
午前三時起床。
夜未だ明けやらぬタンベアに名残を惜しみながら皈国の途につく。
飛行場で夜が明けはじめ、美しい太陽が輝き、先発は六時、後発は七時三十分、ホニアラ飛行場を飛び立った。
永久に想い出深いガダルカナル島よ、再びまみえることはなからん。
友のみ霊よ安らかに冥福を祈りつつ、離れてゆく"ガ島"に合掌、ポートモレスビーにと向かった。
ホニアラ発 先発 十月二十五日 午前六時 後発 十月二十五日 午前七時 ポートモレスビー着 先発 十月二十五日 午前十二時 後発 十月二十五日 午後一時 ポートモレスビー発 十月二十五日 午後三時 香港着 十月二十五日 午後九時十五分 香港発 十月二十六日 午後三時三十分 羽田着 十月二十六日 午後八時 ツルヤホテルに於いて 十月二十六日午後十時 簡単な乾杯(勇会)
十月二十七日
午前九時三十分 厚生省に分骨受領 午前十時 千鳥が渕参拝 午前十一時 靖国神社昇殿参拝 午前十二時三十分 九段会館において報告会および解散式 午後四時五十四分 上野発 午後十時 新潟駅着 長音寺に遺骨安置
十月二十八日
新潟県護国神社において収骨報告慰霊祭を執行
◎収骨事業を終えて
今次の収骨事業について生存者は勿論のこと、遺族各位が更たな感懐をもって共感下され、同島における戦死者に対する処理の終結について、一応終止符をうつことが出来得たことは誠によろこばしいことである。
勿論残存する遺骨については、今次の収骨について意欲的に現地住民に働きかけたため、我々が同島より引き上げた後も、現地政庁および現地に事務所を持つ三井金属株式会社に情報が提供されると思う。
これらに対する処理については、同社の尾本社長さんが引き受けてくれた。
今次戦斗で海軍少佐として従軍した人であるだけに、非常に理解があり感謝に堪えない。
大小二百以上よりなるソロモン群島こそは、今後日本が意欲的に開発をし、平和的な投資によって進出すべきではなかろうか。
開発国として最も近い距離にあるのが日本なのである。
第二次世界大戦もこれらの資源を手中におさめたかった目的があった筈である。
しかし残念ながらその手段が戦争という武力を使った事に間違いがあった。
彼の戦争に消費された財力と人力を平和裡のうちに、この地域に行使出来ていたならば、果たして今日の日本の姿も別なものがあったと思う。
しかしあの戦争によって、日本民族の努力と反省は、これら南方民族を開眼し、ソロモン群島も近々独立することになっていると聞く。
これら地域で戦歿された戦士の死を無駄にしてはならない。
素晴らしい未来を秘めた西南太平洋諸島こそ、日本に与えられた宝庫である。
あらゆる地下資源をはじめ海洋、木材、農産物資源は無限であり、日本の開発技術を切望しているのである。
これからの若者日本は公害列島から飛び出して、洋上に浮かぶこれら諸島へ行き、貴重な現地労働力を生かし、かつ彼等に文化の恩恵を与え、光をそそいで楽園を礎くことが夢でなく現実として可能なのだ。
その事が戦歿戦友の霊を弔ろうための最善のことでもある。
我々年代の層が駄目でも次代の青年に是非判って貰いたい。
とき既に華僑はぞくぞくと進出しているのである。
このためには国家もこれが施策として考えるべきではなかろうか。
既に現在において、この地域に進出をしている自動車、電機製品、缶詰類等、日本製品は八十%以上を占めている。人も共に進出すべきである。
序として地域状況の一端を所感としたが、再び遺骨収集に戻る。
本収骨事業の成功は、ある面では戦歿遺家族に対し、再び悲しい想い出を与えたような感があったが、しかし決して遺族の人々はそのために悪感情はもっては下さらなかったものだと思う。
新潟県護国神社に集まったご遺族数実に八百余名、同神社開所以来のことであったとか。
私共は心から、生涯のうちで一番よいことをしたのだと、つくづく感を新たにした。
最後に、これが事業遂行のためには、各層より物心両面のご協力をいただいたことに、心より感謝申し上げ擱筆したい。
昭和四十六年十二月二十五日 ガダルカナル島遺骨収集新潟県派遣団、団員一同
「ガ島」収骨報告慰霊祭
十月二十八日(木)慰霊祭
夜来の雨も晴れ上がり、雲一ツない絶好の秋日和。空を仰ぎ、之も「ガ島」帰還英霊の加護と感謝致しました。
本日の準備に当たり、各担当委員が一日の仕事を終了しての夜間の会合を重ねる事数回、日増しにふくれ上がる参加者の数に喜びと不安の忙しい式典準備の日が続きました。
六十才前後の大店の主人、社長、部長が式場其の他万般の準備に夫々の担当任務に従い、往時の使役兵に帰り、立ち働く姿、全く戦友とは良いものだと、心から感謝せずに居られませんでした。
御陰様を持ちまして、当日は八百余名を越える参席者の下、盛大厳粛裡に式典を終了することが出来得、委員各位の御苦労に改めて感謝致しますと共に、昭和十八年二月上旬、当時惨憺たる死斗の「ガ島」撤退より三十年近く、予想もしなかった収骨団の努力に依り、戦友に抱かれ帰還致しました亡き戦友を偲び、感慨一入のものが御座います。
人間のいんねん------、生存戦友のつとめを果たし、ホット一息と云う思いで御座います。
亡き戦友よ、英霊よ。
故郷の山、川に抱かれ、安らかにお眠り下さいと、心から祈るものであります。
「ガ島」遺骨収集報告慰霊祭 委員長 宮川 三四二
ガダルカナル島遺骨収集報告慰霊祭役員表
十月二十八日(木)慰霊祭
昭和四十六年十月二八日 於 新潟県護国神社
一、祭 主 堺 吉嗣 (あやめ会 会長) 祭主(副) 野田 孝次 (ガ島収骨実行委員会 会長) 二、委員長 宮川 三四二(第二師団司令部) 副委員長 勝沼 勝 (県連合遺族会事務局長) 小柳 正一 (歩兵団司令部) 市島 仙三 (歩十六) 坂井 正義 (歩十六) 三、総合司会 ◎市島 仙三 四、総務係 ◎小林敏夫、井川 徹、山田幸一、中俣正義 (小沢義雄)(窪田三郎)(小林直寿)(大野 清) (石井茂雄)(高波光男)(後藤豊吉)(大平 _) 五、式典係 ◎勝沼 勝、後藤豊吉、樋口清五 六、会場係 ◎小沢義雄、吉村 実、宮村 博、細貝金栄 畑山千之助、大黒達雄、原 吉衛 七、受付係 直轄部隊 ◎安達収作(工兵) 林 建作(野砲) 田中 清(捜索) 平林一太郎(衛生) 根布長蔵(兵器勤務) 松沢利一郎(師団通信) あやめ会本部直轄 江口史郎、矢野徳平、小山梶夫 T 坂井正也、石川信次 U 青木丈夫、山田幸一 V 志田小太郎、芳賀和幸 来 賓 ◎味方恭一(輜重)、赤塚克己、広田明節 遺 族 ◎大平 _、大野 清、山田美雄、田中熊一 本間敏英、山崎専一 八、直会係 ◎小柳正一、小林直寿、高波光男、筒井竹治 浜倉義郎、細川真一、石田甚一、高田 博 田村収二、金子健造、近藤平輔 九、救護係 ◎清水 洵(防疫給水部)、連絡係 中野清蔵 十、会計係 ◎窪田三郎、井川 徹 (註)◎・・・担当係長 ()・・・兼務者とす。
郷土部隊が上陸したタサファロングの海岸、”死の島”への第一歩とは、誰が予測しただろうか。