冥府

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暗黒の孤島に遺骨を求めて3



十月十六日

本日あたりより、どうしても収骨の成果を挙げなければと全員のあせりがありありと見えて、朝の出動もきびきびしている。
新潟班はいよいよ水無川へと向かった。期待が持てるということで政府の石田団長、中野添乗員も通訳として参加した。

部落の土人もギリアン酋長以下十五名、実によく協力してくれた。目指した個所を掘ると地表面近くから深さ二米程度のところまで、沢山の遺骨が発掘された。
あの凄惨な二十九年前を想起しながら、手にする遺骨の一片にもどんなに苦しんで死んでいったことかと想い出される。
本日ここで収骨された数二百体と推定報告をした。

すっかり土人もなついてきた。
実に純朴で善意の籠もった働き者で愛すべき人種である。
この人達を尊い貴重な労働力として利用したら、素晴らしい仕事が出来るだろう。

最初女の人達が近づいて来たが恐ろしがって、私共が顔を向けて見つめると逃げ足で引っ込んでしまった。
男達が怖がることはないとでも言ったのか、その後すっかり安心して、与えたコカコーラを楽しそうに飲んでいた。
酋長の一番末っ子で六才の息子も実によくなついて、終日私共の作業を見ていた。
たばこを与えると悠々とふかしている。

昨日逢ったギターを持った好青年は、約束が一日繰り上げたため来なかった。
ジャングルの中で、どこからともなく響いてくるギターの音と共に、愛想よく「ハロー」と近寄って何かと話しながら協力してくれた青年であった。

皈路は既に夕陽が海に輝き美しい。
サボ島とガダルカナル島の間の海峡をアイアンボトム(鉄底の海峡)と名づけてあるそうだが、数多くの艦船が沈んでいる海ということの意であろう。
それにしても日照のはげしい海の色は青というのではなく濃紺の色となり、夕陽に映えると血の海と言いたいような赤色になる。いかにも血を吸った海のようである。
そもそもガダルカナル島という名称の由来は、スペイン語で、回教の墓ということで、黒人と白人の抗争の激しかったことの意味を含めているとのことである。

本日の収骨結果は五百十七体、うち新潟班二百十体。
発掘場所 丸山道、小川附近、飛行場附近、水無川、その他 となっている。
なお本日、新潟班はマタイ袋に七個分の遺骨を発掘した。
現地において遺族から預かった供物を供え、明かりをともし、丁重な現地慰霊を行った。
汗と涙にむせぶ団員のすすり泣き、再会した逝き戦友もさぞかしよろこんでくれたことであろう。
誰がこの境地になれるであろう。
当時は苦楽を共にし、紙一重で生還した私共でなければ判らない感情である。


子供の瞳は美しい----団員とはすぐに仲良しになった。

ホニアラ港にある市場----野菜類は品種も多く豊富である。

人前に姿を見せぬ娘達も、交換会には揃って姿を見せた。

十月十七日

現地住民の申し入れで、本日の日曜日はデンガル地区の男子学生がブラスバンドをもって、午前十時より民族衣装を着けた男女学生が慰問に来るとのことである。 国際親善も任務の一端であり、我々の事業も現地人の協力を得なければ出来得ないことでもあり、現在収骨実績があまりよくない時点ではあるが、素直に受けるべきではなかろうかということで実施された。 いずれもミッションスクールの学生で楽しく演奏を聞かせ、踊りを見せてくれた。

メラネシアの一家族、九児の母親は貫禄充分。

現地人との交歓会に踊りを見せる小・中学生。


現地人との交歓会を見に来た華商の青年達。

十月十八日


日照時の温度四十度ということで、協力土人のペースに合わせて、あせるあまり劇動することは危険ということではあるが、全員張り切って作業に出かける。
新潟班は再び水無川に作業、我々の現地到着前にギリアン酋長以下三十名程集まって待っているという協力振りである。

本日は、二ヶ所に分散して作業に入る。
日程の関係でここ水無川の発掘は今日で切り上げないと明日からの予定が狂うので、一体でも多く収容しようと休憩時間も惜しんで懸命に掘る、土人も馴れた手付きで能率があがる、昼食時は携行食のサンドイッチやコーラを分けて喰べる。

切り上げ時間ギリギリまで作業をし、終わって全員に日当を支払い宣撫品の数々を呉れてやると真っ黒い顔面から真っ白い歯が現れる、本当に好意的な協力振りで助かるのは我々のほうである、作業終了後は二キロの石原を遺骨袋や器材をかついで本道上の車にのせ我々の車が見えなくなる迄全員手を振って送ってくれる誠に純朴な原住民である。

本日の遺体二百三十体、本日も現場で丁重に心の籠もる慰霊行事を行った。
杉林清蔵、吉井邦夫、長谷川榮作の三名は、二十九連隊、四連隊、十六連隊合同での飛行場夜襲陣地確認の為、むかで高地附近に出かける。

三十八師団はコカンボナ地区マコラ河地区を収骨する。
他の混成団員は、三井金属の尾本氏(尾本社長さんのおい)の案内でアウステン山北側地区の探索に出かける。
現在のヘンダーソン飛行場(ミッドウェイ海戦で戦死されたヘンダーソン中佐の名称をつけたという)南側より東南に侵入して行くと「むかで高地」(血染めの丘と呼称されている、岡部隊が全滅に等しい打撃を受けた丘)に出る。

途中米軍の戦斗指令所であったというトーチカがそのまま残っている。
間もなく血染めの丘に到達すると、昨夜訪れた西南太平洋慰霊巡拝団の建てた木碑があった。
ちなみにアウステン山を含めたこの地区一帯は、ソロモン政府が国定公園として指定してあるそうである。
"血染めの丘"の突端に自動車を降りて下ると、約百米にわたり鉄条網がはりめぐらされており、当時の防御陣地がそっくりしている。

なお急峻を下ると、当時我々が味わった苦しいジャングルに入る。
風は当たらない。
"蚊の大群"が押し寄せて来る。
トゲのあるつるが行手をはばみ、一進一退である。

ジャングル内を探索してゆくと、岡部隊の攻撃のときに掘ったと思われる個人壕が点々と発見された。
しかし、遺骨は依然として発見されない。
ジャングルを過ぎると背高もある草原に出る。

高い丘の草原に上ってみると、これほど攻撃するに不利な地形はないことが今更のように判った。
防御する側はジャングル内に銃弾を射ち込めば、絶体間違いなく打撃を与えられるのである。
しかもジャングルは凹地になっているところだけである。

我々はよい遮蔽場所と思っていたが、敵からすれば網の中に入った魚のようなものであったことである。
我々は偶然ルンガ河に添った右岸地区に添って道路のあることを発見し(戦後開発されたものと思う)これに添って上流へと進んだ。
遂にルンガ河渡河点まで到達した。

この渡河点で、今でも忘れない師団長命令の一節がある。
即ち「我が軍は神明の加護により企図を秘匿して敵の側背に進出するを得たり・・・」として、敵飛行場攻撃日のX日を十月二十四日と決定された地点である。
暗夜のルンガ河(川巾約百米、相当な急流で川底の状況は不明)をそれぞれ腕を組み合って渡河した当時の思い出がまざまざとよみがえった。

渡河点直後に師団の戦斗指令所であった九百三高地がそびえ立っている。
あの険峻さは、今でも人を寄せ付けないものを備えている。
この行程の地形を、よくあれだけの装備を背負って、火器を手に進めたものだと、人間業でない程に思わせられた。

今の土人でさえ行ってくれと言っても駄目だという。
目前に見るアウステン山東側も赤い肌を見せて急峻で、実にきびしい容貌であった。
本日の収骨結果、一千六十三体、昨日、今日にかけての成果に一同よろこぶ。
収骨作業も軌道に乗る。

夕食は"濠州米"であるが、新潟米よりずっと美味しいと評判がよい。
専門家の佐藤典夫団長も、こういう味の米がどんどん生産されている今日、日本の農業、特に米作農家は、やはり考え直した農業経営が必要になったと、つくづく話をしていた。
相変わらず南国情緒ゆたかな黒人バンドが響いて、夜は更けてゆく。




貫通重傷?の椰子の木もそのまま育って沢山の実をつけていた。至る処に昔の傷跡が見られた。


水無川第一野戦病院入り口の目じるしになっていた洞窟は昔の面影そのまま


日照40度近い炎天下の強行作業


車の入らぬ2キロの河原を発掘現場に急ぐ新潟班


第一野戦病院遺体投棄場所の発掘は現地人の協力を得て新潟班が二日間、全力を挙げて作業し、530体の遺骨を収容した。


水無川の発掘場所中央に艦砲射撃の直撃弾を受けて切断された大木を利用して、碑を作り英霊を慰めた。


水無川の収骨作業に部落をあけ゛て協力してくれたボロスグー村のギリアン酋長とその息子

十月十九日

本日は現在まで団の統一行動のため重点を飛行場攻撃地区においたため、十六連隊としては次の主戦場であった小川、沖川陣地に行くことが出来なかった。
本日ようやく行けることになっり期待を持って赴く。

しかしながら、残念な事にクルツ岬の見えた小川、沖川陣地は、もっとも意欲的に市街地開発をされた地域となっていたため、我々の布陣した地点は住宅地として発掘され収骨は出来なかった。
しかし沖川の分岐点上流部、おそらく三十八師団陣地附近は未開発のため八十五体の収骨をした。
三十年の歳月がなした業、平和とはこういうものなのか、あれ程砲煙と死臭を漂わせた小川、沖川の谷間はジャングルこそ残っているが、白人、中国人の色とりどりの住家が建ち並び、子供と子犬がたわむれて遊んでいる平和郷そのものである。

陣地前面の椰子林はすっかりビジネス街、或いは公園として利用されている。
これらの造成される過程において発掘された遺骨はどこかに一括埋歿されたものと思われるが、今やそれを知る術はない。残念なことである。

沖川陣地での想い出は多いのである。
寸前まで押し寄せた敵の攻撃に全員玉砕の決意をしたことは数度、十八年一月元旦の想い出、次々と餓死をしてゆく戦友の姿、顔、この谷間に立つと、ありありと当時のことがよみがえってくる。
概ね連隊本部位置と思われる地点を発見、昨日来島した矢嶋氏の鳴らす鐘の音と共に全員読経供養をした。
英霊よ、安らかに眠れ、この平和郷に。

二十九連隊は丸山道、四連隊は勇川附近の収骨に出掛ける。
夕食は沢山の米食とビーフンのようなものを食べさせてくれた。
食堂の現地人もすっかり意思が通じて「待て待て」「水」「ありがとう」等、そろそろ日本語を覚えて来た。

夕食後の打合せで、昭和三十年に南東方面英濠地域遺骨収集団が来島した際、当時対日感情が悪く、折角持って来た石碑の建立が許可されず埋歿して行ったものを是非探し出して欲しいとの福島、河北新報よりの依頼があった旨の話があり、折を見て計画することにした。
本日の収骨数 一千三百七十体。



米軍輸送機の残骸も観光コースの一つに入っている。(コカンボナ附近の部落にて)


生々しい弾痕を見るにつけ、当時の凄惨さが蘇り、あの顔この顔が瞼に浮かぶ。


タサファロング上陸地点で米軍機の爆撃により擱座炎上した輸送船も、30年間波に現れて、船首の一部を残すのみ。


至る所から色々な遺品が見つかったが、所持者の判るものは一つもなかった。 30年の月日は長過ぎた。


丸山道2キロ地点の小部落で民家の床下に保存されていた92式重機関銃、殆ど完全な姿であり貴重な遺品なので譲り受け、輸送船にて持ち帰った。
(新発田陸上自衛隊内の資料館に保管展示しあり)



十月二十日

僧侶矢嶋聖阿氏の到着によって、本日は一昨日、アウステン山山頂において約束した土人との遺骨受取にゆく。
これを機会に十六連隊、二十九連隊、四連隊を主体とした編成で慰霊行事を行うこととして出発した。 杉林、吉井氏も同行した。

新潟班は前記団員を除き、タサワロング、カミンボ、コカンボナ地区の収集に出発、延々と続く椰子林の中で有刺鉄線の張り巡らされている土地は、戦後白人によって所有された土地の由。
しかも全然文明の世界を知らなかった土人は、空きびん、びんの蓋等、つまらないものと物々交換をしたとか、植民地政策とはここまでガメツクやらねばならぬものらしい。
日本人等は良心すぎるのではなかろうかと思う。

新潟班は昨日約束をしておいた土人を案内として、テナル河東側地区の収骨を行って、飛行場附近一帯の戦死者に対する現地慰霊行事を行う。
大地松蔵氏のお経で弔う。
本職の僧侶と同じありがたさがあり。

皈路ホニアラで要件を足していた大地松蔵氏と渡辺和春君が太平洋漁業の漁船(母船)がホニアラ港に入港していたのに逢って「カツオ」十本をいただいた。
小林誠司氏の料理でおいしく食べた。

本日の打合せ事項
佐々木団長より我々の任務は皆さん認識されているとおり、収骨を一体でも多く発見することであるので、二十四日皈国ぎりぎりまで全団員一致して全力を挙げて貰いたいとの要望があり。
しかし、団員も連日の作業と馴れない気候のため、いささか疲労の兆しが出て来たようである。
二万一千名の戦友の遺骨を探し求めて、故郷に待つご遺族と私共を送ってくれた生存者戦友に対し、出来るだけの安堵をしていただくために一生懸命なのである。

登山靴が重く感ぜられる今日この頃になった。
やはり年齢は争えないようだ。
今日はコカンボナで、土人が椰子に登って新鮮な実をとってくれておいしかった。
丸山道以南は、十六連隊としては後方作戦地域であった。
コカンボナ地区は、行李班をおいて食糧供給基地とした。

また全線において疾病或いは軽症者が水無川の師団第一野戦病院に行く程度のものでない練兵休患者が休憩所として足を休めた地点である。
従って比較的遮蔽度のよい山すそを伝って、牛歩のように杖を頼りに歩いて後方へ向かう患者が絶えなかった。

道端に発見される遺骨は、これら患者が木にもたれて、そのまま息を引きとったものである。
後方に退いた者はむしろ部隊にいるときと違って、食糧は自分で探して生きねばならないので、むしろ力のない者は死期を早めた結果にもなった。
本日の収骨成果、二千六百三十体と大きい成果を挙げる。
主としてアウステン山北側のルンガ渡河後、飛行場以南地域のものである。



十月二十一日

今日は、前記の埋歿された碑の探索に出かける。
飛行場の正面玄関に立って真北に約八百米附近を中心とした約一キロの範囲ということで、三井金属の上田氏が土人の情報をもとに八名で捜索をするも遂に発見することが出来ず、あきらめてかえる。

該個所は岡部隊が飛行場東北海岸に上陸をして、多くの戦死者を出したところである。
午後四時、私共が将来ともガ島に建立しておきたい記念碑について、英国の内務省役人であり、英国在郷軍人会の支部長でもあるミスターローが「血染めの丘」において場所を示すとの事で、これが建立の為出かける。
碑は三〇糎×三〇糎、高さ三米のラワン材で、碑文は表を日本の方向にして、

ガ島戦歿英霊各精霊
 昭和四十六年十月二十二日建
     勇第二師団

英文で、
「日本の遺骨収集団がこれを立てる。一九七一年十月国のために生命を失った日本とアメリカの兵士の記念のために」

今後、幾多の日本人もここに訪れる日のあることであろう。
全員が矢嶋氏の読経に合掌して御霊の冥福を祈った。

建立を終わり皈路につくとき振り返ると、夕陽に映える碑が私共をいつまでもいつまでも見送っているかのように屹立していた。
南冥の果て永久に消えることなく、友の御霊と共に安座することを希う。
なおパンタビレッジ前にも「むかで高地」と同じ墓標を建立した。

一方残留団員は午前中墓標建立用の石集め、午後は昨夕焼骨を行った戦友の遺骨拾い、一昼夜燃え続けた遺骨は収骨時の茶褐色から白色に変わり、三十年近く風雨にさらされた為か半分が灰となっていた。
全員が捧持する分を白い袋に納め残りは船輸送するため大きな麻袋に詰め十八個を数えた。
灰はタンベアに建立した墓標の下に埋めて遺骨の処理を終わり、いよいよ慰霊祭を待つばかりとなった。


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