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冥府の戦友と語る
聖籠町苦節四十年の歩み
新潟東港開発の訪れ
(3)新潟東港開発計画の始動と経過
新潟県は昭和三十八年六月十七日の庁議の結果、新潟臨海工業地帯の用地買収実施計画が決定された。
これに先立って関連する県当局・新潟市・豊栄市・聖籠村は本事業の進め方について種種幾度も協議を重ねた。
その第一。
事業実施主体をどうするか。
既に始動着工している鹿島臨海工業地帯も三町村にまたがり、条件が新潟東港と相似点があった。
ここは既に県と三町村が一部事務組合法人の公益企業体を組織して進めていた。
立地の土地条件は鹿島工業地帯の地勢は首都圏に近いが、陸の孤島などと言われ、不毛地帯であって、農地として共用出来ない土壌であった。
新潟東港の場合は、優良農地とは言えないが、平場山林に囲まれて砂丘地の特質を生かして、農耕の用に供していた土地である。
協議の結果、事業主体は県が担当することに決まった。
市町村はこれに協力をしてゆくことになる。
事業実施後における施設管理及び実施に伴う負担金等のことは、それぞれに国が管理すべきもの、県市町村が管理すべきものは法的に定まっており、問題はなかった。
新潟県には知事部局の外局として企業局を設けてあり、初動は国と連動して行った。
事業推進のためには、人的能力・技術・企業誘致のため外部折衝事務・財政投資・用地に関わる制度の制約等々、市町村事務を超える事務・財政力を必用とした。
従って、県が事業主体となったことは妥当性があったといってよい。
ただし、担当する人事部局が一般行政との範疇の中で行われることにより、事業の実施に一貫性を欠き、住民関係との信頼関係においての問題も惹起した。
これも人間という感受性のしからしむところ止むを得なかったことであろう。
本事業の発足当初にあっては、住民の立場で全体像が掴めないために半信半疑で極めて受動的であった。
行政指導や誘致には極めて困難な場面もあった。
移転を予告された関係住民にすれば深刻で不安な日々であったに違いない。
特に農業者の場合は今後の生活設計やら、営農計画については家屋だけの移転と全く違いがある。
一方県当局としては一般行政のように法令に定められてところに依拠しての仕事ではなく大変な苦労があった。
所管の窓口も外局の企業局から知事部局に移されて強度を加えた。
県行政としての重点指向の意欲が伺えた。
そして、人事配置も特殊事務扱いとして優秀な人材を配置する事に意をした。
しかし、残念ながら県行政という枠組みから外すことは出来なく、折角業務に精通し、地域の事情もわかり、人々との調和がとれた頃になると移動で去って行く。
人事管理上例外とすることは出来なかったが、東港担当の県職の方々には敬意を表したい。
この頃県議会発言において「東港事業という特殊性と我が国、県、地方の取り組みについて、厄介払い」のようなことを言ったり、せっかちな事務督促や不認識な発言しきりであった。
一般行政の執行と異なる長期的な先行投資事業であることの認識を欠いたことを残念に思う。
時代は平成となり、平成三年に至って我が国の経済情勢も変わり、重工業地帯を目途とした開発もその体質を変化せざるを得なくなった。
環日本海時代を標榜する商業港として物流・商業生産基地として要請が多くなってきた。
従って急速に船舶・鉄道・自動車・航空等物流輸送集積機能施設の整備が緊急の課題として浮上した。
これら諸情勢によって、君県知事は東港背後地区域の一部変更除外を決定された。
これがため移転を前提として交渉中であった蓮潟山ノ口集落と甚平橋集落の移転は中止いたし、工業地帯よりも除外となった。
事業の認識を更なるものとするため、昭和三十七年七月十一日に戻して述べたいことがある。
この日は新潟市のイタリア軒において新潟東港建設の起工式が挙行された。
この席上、来賓として三宅代議士が次のような祝辞を述べられた。
「本計画は国家的にも、新潟県のためにも誠に時宣を得た計画であり、心から賛意を表したい。しかも阿賀北には無償に近い不毛の砂丘地が茫々と広がっている…」
という冒頭の言葉であった。
祝宴になって私が「先生、本日のご祝辞には素直に頂けないところがありました。」と苦言を言った。
「私どもはあの砂丘地を戦後の食糧確保は勿論のこと、今後も前述のとおり砂丘地農業に積極的に取り組む貴重な土地と考えていました。勿論この計画に反対という立場で申しているのではありませんが」と抗議めいたことを申し上げたところ、先生は頭をかいて「大変失礼なことを申した」と恐縮をしておられた。
たしかに三宅先生のおっしゃることが本音であったかもしれない。
がしかし、あまりの品位を落とされると今後のこともあるので申したところ。
日毎に関係地域は勿論、全村は不安と期待が交錯してゆく。
特に、直接用地買収と共に移転を伴うことになる替地、亀塚浜、別行、長嶺、八幡、網代浜、甚平橋、蓮潟山ノ口。
これらの人々の九九%は移転地を村内に希望をしている。
このような状況においては移転を伴わないにしても、聖籠村全体の問題としての取り組みとその協力が必要とされてくる。
前述のように農村の移転は住居の移転だけでなく、田畑を含めてのことになる。
生産基盤だけに難しい。
同じ田畑といっても土質・水利・作付種目の問題。
今後の営農生活設計、住居によって子供の学区のこと、村の行政施設の対応も加わって複雑になる。
県当局も十分に理解をして対応に懸命な努力をしていることは分かるが、移転をする当事者からすると、そこに微妙な食い違い等があり、村行政も苦しい立場におかれる場面もしばしばあった。
昭和三十八年四月早々になって県企業局より関川企業局長、石栗担当課長、運輸省港湾局第一建設局より綱川参事、県用地担当より湯田課長等十一名の人々が計画説明に来村した。
しかし、説明を聞いても実感として受け止めなれなかった。
関係集落はこれをきっかけとして逸早く七集落が新潟東港対策連合を結成した。
しかし結成はしたが、各集落ごとにその条件が違っており、対応の日時も違っており、委員会は実質機能しなかった。
県当局にあっては早々に具体的事業の取り組みを開始。
実施に踏み切った。
聖籠村のみの対応ではなく、主として代替地の引当にするために豊栄市に対しても積極的用地の買収を行っていた。
以後、港湾掘り込み、背後地必用用地、移転代替地等を意欲的に買収を行ったが、これらの農地は折角準備をしたが、後年不要代替が残り、県の財政負担が加重とのことで、県議会のたびごと論戦の俎上にあげられた。
考えてみればあれだけの大事業遂行のためには、きっぱりと帳尻は出来なかった当事者の立場は理解されてよかったのではないか。
これらの不要地は平成七年において概ね処理されたという。