冥府

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冥府の戦友と語る

聖籠町苦節四十年の歩み


新潟東港開発の訪れ
(1)新潟東港開発計画誕生の真相

昭和三十六年九月十六日、新潟日報の紙面全県版を見て驚いた。
新潟東港開発計画の構想が掲載されていた。
しかもその地域には聖籠村の地籍が六十%も含まれていた。
村長以下、村の執行部も勿論、村民も事前に知っていた者は誰もいなかった。
衝撃が走り、問い合わせがしきり。

しかし、このことが聖籠村に大きな転機をもたらすことになったのである。
この頃の聖籠村は前にも述べたように脆弱な財政力の体質を向上させねばならないことは、行政に課せられた絶対使命であった。
さりとて村民所得に依存をするということは、百年河清を待つに等しいことだ。 考えの果てなんとか特定財源を呼び込む以外に方途は無しとして企業誘致条例を制定し、条件を整えて、その反応を待つことにした。

この時代の地方自治体は全国的に企業誘致によって税収を図ることに奔走していた。
しかし、条例を制定したからといって、企業が進んで立地するとは考えが浅かった。
かといって座して待っているだけでも何も得ることは無い。
村民の多くは農外収入を求めて、家族と別れ県外に出稼ぎに出掛けたのもこの時代である。
各自治体は労働対策委員会を構成して、村民の出稼ぎ先における労働状況について適正な労働条件を得ているかどうか、留守家族の状態はどうなっているかに配意をした。

我が国も漸く諸外国に伍して資源の導入が軌道に乗り、重化学工業への道を進みはじめた。
表日本一帯の工業立地が目に見えてきた頃である。
裏日本といわれる日本海側はこれら開発が遅れ、企業の目立った進出はなかった。
しかし、この頃になって日本全域の経済が好調を辿って、一般家庭にもようやく自動車・バイク・テレビ等の電気製品を手にすることが出来るようになった。
このような社会情勢の中で、前述のような新聞報道が村を走ったのである。

しかし、発表された構想はあまりにも規模が大きく、新聞社の一記者の発想にしては越えているし、県国の間題としては唐突であり、行政ルールに乗っていないところである。
これ程の事業計画ならば当然として事前に関係自治体及び機関に協議がなされねばならぬところである。
もしも戦国の世であったら、人が一城一郭を築いているところ、勝手に図面といえども侵すことになれば、戦争になったはずである。
しかし、日時が経つに従って単なる予想や安易な言い訳では済まされなくなった。
行政の立場もさることながら、村民の驚き、不安、期待、戸惑いが交錯して広がった。

後刻解明されたことであるが、出所は新潟市長であった。
その端緒となったことは新潟市のK旅館の次男の人が新潟港のスケッチをしていた時、新潟沖に大型船が錨をおろし、そこから艀船で積荷を港の岸壁に運搬をしている様子を見て、渡辺浩太郎新潟市長に新潟港がこのような状態では将来性が懸念されると進言したことが刺激となったらしい。
しかし、新潟市長は自らもこのことについて懸念されておったことは事実であった。
渡辺市長は早くから財団法人・全国港湾協会の会長をされており、港湾関係のことについては造詣が深い方であり、誰よりも認識をしていた方であった。

この後、渡辺市長から県当局に対して強く進言をしたことが発端の真相である。
後刻、渡辺市長にこのことを聞いたら「あれは私の発想でしたよ」と恐縮したような答えであった。
いずれにしても時代的な要請もあり、その取り組みは実に迅速であった。
そして東港の位置をどうして現位置として選んだかについては、新潟空港における飛行機の発着と船舶機能との因果関係があり、専門的な図式が基本と聞いている。
歳月が経つと、後世においてここに港ありで、問いただす人もいなくなるので、敢えて経緯についてふれた次第である。

あのような聖籠村に神が成したかのように国家的計画が飛び込んできたのである。
さて、これを受けての渡辺得司郎村長は、我が意を得たりとこれに輪をかけたような気有の雄大な先見性のある人だった。
我が村としても貧困財政に心を砕いていたところであったが、あまりにも大きな事業であり、村民と村の将来を考える時、その諾否の判断に苦慮をした。

まさに聖籠村にとっては維新前夜の様相であった。
大きく国家的な政策であり、県の進運をかけた事業でもある。
当然村としては五臓六腑の手術をされるような事業である。
一方にあっては千載一遇の好機でもあるのだ。
頂上は見えないが、登り口は見えた。
この際登るべしと渡辺村長は決断をされた。

ようやくして新潟東港及び後背地開発計画は村民と一体となって進めることを行政指針として意思決定されたのである。
その後村民も理解協力体制を整え、意識統一のもと順調に進展をし、町制も施行され、行財政も一変した。




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