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冥府の戦友と語る
聖籠町苦節四十年の歩み
渡辺得司郎村長の英断
(1)海岸砂丘地の開発
金沢第四高等学校から帝国大学校農学部を卒業された渡辺村長は、中央諸官庁、県庁、在野等で多くの人脈をもたれている。
当時農林省から派遣されていた新潟県の松平農林部長もその一人で、後輩であった。
村長は松平部長に対して
「新潟県は米産県を誇示して米作のみに重点を入れているが、畑作を軽視している。これだけ長い海岸線を擁し、これに伴って広大な砂丘地帯がある。畑作振興をはかるべきである。」
と強く発言された。
ある意味ではうるさがられている面もあったが、正論を吐かれる村長の前に、松平部長も肯定された。
そして、旬日ならず実行に移されたのが柿崎町から村上市までの海岸砂丘地をもつ市町村による新潟県海岸砂丘振興協議会の結成である。
爾来、聖籠町役場に事務局を移し、その後いろいろな経緯を経て、現在は新潟県果樹振興協議会の中に併合され今日に至っている。
この間協議会活動によって海岸砂丘地は勿論のこと、内陸の果樹、蔬菜、園芸等広範な振興に寄与した。
特筆すべきことで、本町の海岸地帯での県営開拓パイロット(ビニール水田)の造成事業と、後年新津市より移設の県営園芸試験場が聖籠町・紫雲寺町に実施されたことも、この流れの中に認識があったことによるものと考えられる。
以上二件は別項で詳述する。
ここで渡辺得司郎村長の人物像に触れておきたい。
渡辺得司郎村長という人材はその気宇において国家的頭脳をもって過去に国家の重要な国策に参画してこられた逸材である。
終戦、そして帰郷されたが、再び中央政界に復することなく、村に留まって三期村長を在任し、その能力を村の将来に注ぎ込んでこられた人である。
ある日、暇のある時に、控えめに激動する昭和初期より中期の国家の秘策を口伝えに話されたことは、まさに歴史的証言であった。
そして郷里にのこされた英断、決断、将来を達観した多くの業績は、今日の聖籠町に脈々として生かされ継承されている。