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冥府の戦友と語る
聖籠町苦節四十年の歩み
時代背景
昭和三十年前半の時代どんな時代であったのか。
国家国民の存亡をかけた大東亜戦争に敗退無条件降伏、十カ年の歳月が流れて「国敗れて山河あり」、巷は食うことと住むところを求めて懸命な努力で精一杯であった。
そんな空気が犇々と肌に感ずるものがあった。
暮らしの中には欲しいものばかりであった。
一人一人の生活もさるものながら、村行政も財政力が弱く、特に本村は県下各市町村の中で下位から三番目程度であった。
但しこれには理由があった。
村民全体が他の市町村に比べて貧しかったということではない。
村が村民に賦課をする税率が低かったのである。
税収入が少ないのは当然であった。
この要因がどこにあったのか。
言えることは聖籠村の課税客体は村内の地主を主体とした資産家に必要財源を依存しすぎていた結果、税率を低く抑えて今日に至ったことが原因であったようだ。
戦後は占領政策のしからしむるところ、憲法・教育・国防等がすべて無条件降伏のもとその制度が変わり、国民も従わざるを得なかった。
従ってすべてが未成熟のところであり、過制、不備のところがあった。
地方自治体にあっても所管事務においてもその範疇すら不明確なところがあった。
一方には教育の未成熟と急激な変化によって自由と責任のあり方の明確を失って、役場は何でもやるところ、やらねばならないところというような風潮が強くなってきた。
健全な民主主義が育ってなかった当時は、義務と責任・受益と負担の根本理念が曖昧な時代でもあった。
自治体の財政力を表す尺度に財政力指数がある。
当時は全国的にもその財政力は弱く、大半が三割自治と言われた時代である。
即ち自己調達財源が必要な行政需要に対し、三割の税源さえ無いということである。
それが本村の場合十九・八%であった。
不足財源は国で配分をする地方交付金によって賄なわなければならなかった。
私が議員であった昭和三十五年の予算編成にあたって足りない予算を要求したとき、渡辺得司郎村長は「この財政力では何と言われてもこれ以上捻出することが出来ません。寄り合って協議をするのだが、結局のところお金がないのが話の終わりとなるのですよ」ということが渡辺村長の断りであった。
編成後、私も助役として財政のやり繰りをする立場になって、村長のおっしゃった言葉を現実として味わった。
こんな状況の中、みんな我慢のしどころであった時代である。