冥府

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冥府の戦友と語る

聖籠町苦節四十年の歩み


まえがき
静かで長閑かな純農漁村の聖籠村は海の幸、桜桃、桃、ぶどう、梨、稲作等で恵まれた自然にあふれていた。 しかし、残念ながら村行政の財政力が弱かった。
こんな聖籠村に昭和三十六年九月、晴天の霹靂のごとく、全く予期をしない、誰もわからない一大転機が訪れたのである。
新潟日報全県版に掲載された新潟東工業港開発計画案の発表である。
この日を転機として村は全く新しい歯車によって軌道を走りはじめたのである。
必然的に村行政と村民に経験をしたことのない大きな負荷が担わされることになった。
加えて時代の趨勢も追い風となって加速度的に異常な進展発展が展開されて大きな変革を遂げて行くことになった。

茨城県の鹿島港、北海道の苫小牧港と共に我が国の三大プロジェクトとして位置づけがなされて確定的なものとして進められてゆく。
当時これに関わった渡辺得司郎聖籠村長、渡辺浩太郎新潟市長、三林広作豊栄町長、各市町村長の助役、県職員幹部の方々は物故、あるいは転退職等で殆ど現存されていない。
我が町には、当時を語れる人として稲葉市衛代(当時、教育長)、渡辺権一郎(当時、議会議長)で、これらの真相、経緯については一朝一夕に語り尽くせないものがある。
その他の人々については後述する。

これに関わる大綱は将来町誌等でのこされるであろうが、私は退職を機に関わった行政三十五年間における移り変わりを述べ、先人のご苦労と真実を後世へ伝えたいと考えて筆をとった。
後日我々が辿ったこの道を知り、更なる将来への道しるべの一助となれば幸いである。


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