冥府

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冥府の戦友と語る



ノモンハン事変に出動

ホロンバイルの草原に出動。
昭和十四年七月十六日早朝応急派兵が下達される。
渡満後二回目の出動、ノモンハン事変、ホロンバイルの草原へと出動。
北支事変を大原攻略で反転して穆稜站で兵力を補充しこれを訓練しての出動である。
若干の残置人員を除き全員甲装備(実弾・手榴弾・擲弾筒・携帯食糧・医療品等・規定の装備)約20sを身につけて営前に集合した。
事前の訓練によって迅速な対応であった。

連隊長、宮崎繁三郎大佐は馬上の人となって隊列中央に位置して出撃命令を下達した。
「命令」
「連隊はこれよりホロンバイルの草原ノモンハンに出撃をし暴慢ソヴェト軍を膺懲(ようちょう)する。前進」
前代未聞の出撃命令の下達である。
通常は各隊の命令受領者を集め、連隊副官より下達される。
必要によっては大・中隊長を集め連隊長が下達する場合もある。
おそらく連隊長はノモンハンの戦況が容易ならざることを知って異例な命令下達により兵員に対し心を伝えたのであろう。
万言を尽くしたよりも明確に将兵は事の重大さを知った。

北辺の地に駐屯した意図は何がしかのことはある筈と考えられてはいたが我々には軍の意図はわからなかった。
この事変は「ノモンハン・ハルハ河戦争」が正式名簿として用いられた。
我々には戦争の要因・経緯・顛末はわからない。
しかし戦後の記録によれば一人の参謀がポイントになっていた事は事実であった。
辻政信参謀である。
参謀の独断、独裁、栄誉心は日本の十五年戦争に大きな過誤と蹉跌を与えた。
本事変は日本・ソ連・中国・モンゴルという国家間の問題であり終結してからも意慾的に「国家シンポジウム」として開かれておりその記録もある。
ここで是非を記さないが、あまりに唐突で短時日の間に尊い多くの犠牲者を出した我が連隊として釈然としないものがあった。

我が部隊の行動も命ぜられたところとは云え異常を極めた。
人員資材が穆稜站駅に集結されるや寸時を惜しむかのようにモンゴル国境ハロンアルシアンへ向け出発をした。
中国、満州を横断し各駅停車なしの直行である。
終着ハロンアルシアンまで長い距離であった。
あわただしい輸送は即戦闘行動であった。
ハロンアルシアン駅に着くや寸時の休憩もなく目標ハンダカヤへ向かって前進である。
落伍者が出たら後から追及せよ。
一人でも二人でもよいから一刻も早く戦線へ到達せよとの厳命である。



異常な空気を感じた。
さすがの兵達も重苦しい雰囲気に押されて喋る者も居ない。
疲労と睡眠不足もある。
連隊長の命令からしてソ連軍の行動は余程許し難い急迫した戦況となっているのであろう。
歩いた。
歩いた。
道無き草原を。
大隊長の馬も、通信隊の犬も早々に体力が消耗した様子、兵達は甚だしい疲労で落伍者が出始めた、休憩後の出発のとき眠りながら別の方向へ歩き出す者も居る。
大隊長も馬上で眠るが、眠ると馬も脚を止める、後を歩く私は馬の尻によくぶつかった。

佐渡郡姫津出身の島倉辰二君は私の部下で日頃の訓練・体育何をやってもみんなに従いてゆけなかった。
しかし人間としては典型的な佐渡人気質で柔順で思いやりのある好男子であった。
それが射撃・銃剣術・鉄棒等はどうしても駄目であった。
その島倉がこの難行軍を黙々と堪えて先頭を歩いた。
この場合どんなに技術能力があっても戦場の目的地に立たなければ戦力にはならないのだ。
島倉のようにおとなしく人の後ろにおって目立たない者であっても必要なときに必要な能力を発揮出来る人材が尊い。
教育訓練には人の持てる潜在能力を見い出すことが求められる。
日常生活では現れることが少ないが生死の極限状態での戦陣では人間の持てる能力・行動・精神力等が異常さをもって発揮されて感動する。
そこには自己犠牲が伴い、常人の及ばない冷静沈着捨身の行動は神秘的な力となる。
人間は宇宙の分子細胞で進化し構成されるものとか、神に近い文化構造を備えているようである。
人間の不思議さを感じさせた。

常時死と近い環境、即ち戦場という特異な場では常識では計り知れない現象が現れることがしばしば起こる。
既に先陣部隊は壊滅に瀕していた。
我々に事変の発端はわからないが、戦力、装備等近代化において敵は勝り我が軍は依然として変わらない前時代的な三八式歩兵銃と大和魂で戦えということである。
本戦場は緒戦から我々の頭上スレスレに地を這うようにミグ戦闘機がしきりに飛来した。
こんなことで勝てるチャンスはあるのだろうか。
九月四日には全員到着して最初の攻撃目標である九〇四高地裾に終結をした。
緑の地平線に真紅の太陽が沈み大地は黒く陰り夜に入って来た。

夜間攻撃の命令である。
初年兵は初めての戦争体験である。
我が軍には昼間戦える近代兵器がない。
九〇四高地の麓で関東軍司令官よりとのことで焼酎とイワシの味醂漬けが配られた。
思いもかけない配慮である。
激励の意味か餞別の意味かわからない。複雑な思いでいただいた。
九〇四高地にはどんな敵が構えているのか間もなく死闘となるのだ。
異常な闘争心が昂まる。

闇夜である。
登る高地は急峻でである。
少量ではあるが酒が入っている。
吐く息が荒い、敵に察知されないよう静粛に進む。
今夜の攻撃方法は接近と同時に腰溜射撃をしながら突入する白兵戦である。
敵はおそらく銃の台尻をふり回す戦闘方法で闘うであろうと云われていた。
今夜の合言葉は「山」「川」と決めてある。
日本古来の戦法がどこまで通じるのか、中国北支戦線、白水村で突撃経験をしたが流石の槍紅兵も闘わずに逃げた。

愈々頂上敵陣に着いたが、敵は既にいなかった。
張りつめた気が抜けていく。
敵は日本軍の攻撃方法を知っていて犠牲を避けて移動をしたのであろう。
後日彼等は近代兵器を駆使しての攻撃に遭ってむべなるかなと思った。
夜明けと同時に次なる九九七高地布陣した。
ハルハ河を眺望出来る高地である。
遮蔽物や障碍物もない岩山が露出して短い芝草が生えていた。
たこつぼを掘るスコップも十字鋤も使えない板状の岩盤である。
手で岩を取り除くしかない。

この高地の条件が後刻、敵戦車の進行を拒んだのかも知れない。
兵達は黙々と壕を掘った。疲労と初めての戦場の雰囲気に黙りこくって静かに作業をしている。
低空で飛び交うミグ戦闘機、異様な雰囲気が漂っている。
時々、我々をめがけて銃撃を加えてゆく。
我々の顔が見える低空である。
手も出ない悔しさ、我が軍の飛行機はどうなっているのだろう待てども来なかった。
後日談であるが関東軍には航空兵力として敵対するだけの戦力はなかったとのことだった。
こんな広野では敵陣までの飛距離さえ危ぶまれるが明治三十八年に製造された三八式歩兵銃ではM4戦車をはじめ近代兵器に立ち向かうことは児戯に等しい作戦計画であった。

ホロンバイルの草原は九月初旬ともなると日没は早く夜は寒い。
九月八日のことである。
各人毎の壕に暖房用の木炭が配られた。
この戦場は突撃前の酒とか何かと気配りが過ぎるところがあった。
当時連隊の戦闘詳報に次のことが記載されていた。

軍では戦闘状態に入ると次のように戦時事務をとる。
1.陣中日誌・日々の行事・人事異動等隊務に関わる事項。
2.戦闘詳報・作戦行動・命令・指達・戦力の詳細・戦闘経過の詳細・功績人事。
3.担当者は連隊本部付、甲書記、乙書記があたる。

ノモンハン戦闘詳報抜粋
当夜雲多ク暗黒咫尺ヲ辧セヌ剰ヘ小雨ヲ交ヘ秋風頬ヲ撫デ寒威梢々身ニ秘ム戦場寂トシテ聲ナク 以上のように当時の軍隊には熾烈を極めたあの戦場の情景を情緒豊かに表現していた、よき時代でもあった。

危機意識の中にも自己満足的な楽観もあった。
九月九日は郷土、一の宮の宵宮秋祭りである、稲も稔り果実も香る初秋である。
しかし戦場であるここホロンバイルの草原は既に冬である。
降雪を予想して壕の中に炭火をとの心遣いはうれしいが、何か気味の悪さも感ずる。
予測予感通り夜半になって白雪粉々と降り積もって十五糎にもなった。

夜半になって歩哨の交代要員が来ないと云ってきた。
各壕に行ってみたら眠っているようだが呼んでも返事が無い。
タコツボに天幕を張って炭火をおこした為に全員が瓦斯中毒症状になっていたのである。
早速全員の天幕を剥ぎ取り、壕から引張り出して胸をあけ人工呼吸をして全員正気に戻した。 心配りが仇となるところであった。
このとき佐渡郡出身の後藤俊策が正気に戻ると同時にさけんだ言葉は、「お母さん」であった、大きな声で呼んだ。
本人は死の縁からさけんだと云った、よい夢を見たことになる。

このあたりに兵の真髄を垣間見たような気がした。
戦後、後藤君の故郷を訪ねお家をおとづれたとき、彼のお母さんにお会いして、成程日本の母だという感じを受けた。
あのとき分隊員は全員が仮死状態を経験した。
もしも数分発覚が遅かったならばあの厳しい気象条件の中で生き還えれなかったと思う。
私も分隊員に対し、お前達は一度死んだ経験をしたのだ、誰も行ったことのない冥土の陣地を覗いて来たのである。
尊い命が蘇ったのだ、今後の戦場で生かしてほしいと云った。
あのときの分隊員はその後幾度かの戦場に参加して戦死をして、敗戦によって故国に帰ることが出来たのは私と前記の後藤俊作君の二人のみであった。
九月八日正午頃、敵の戦車群は既にハルハ河を渡って大轟音を立て第二大隊正面に向かっていた。




この数、数百台を超えていた。
我が軍には反撃するに1輌の戦車もないのである。
銃砲撃をもって我が軍を渦中にとり巻いた。
その様相はもうもうと砂塵を立て敵味方共姿は見えない。
銃砲撃が雷鳴のように地響く立てている。
この猛攻に対し第二大隊は我々の眼下に素手同様に立ち向かっている。
我々は見守るばかりである。

その距離約二キロ程度である。
こんな戦争があってよいものか戦車群に踏み躙られっぱなしである。
あの地獄絵は誰が下絵を描えたのか。
大本営か関東軍か無責任な修羅場である。
一方的に攻め殺される、人身供養何等抵抗する術もない。
戦争ではない。
戦争とは戦って争うことなのだ、争う手段のないのは戦いにはならない。
さりとて無条件降伏とはゆかない。

武士道という道義がありとせば相手が抜刀しない限り剣を合わせないであろうに。
そんな仁義は勿論ない、悲惨な限り、怒りがこみあげてどうしようもない。
この戦場は筆にしたくない。
我が身を刻まれているようだ。
第二大隊長、尾山少佐以下の悲憤や如何に、今でも思い出す度身震いがする。
そのときの犠牲者が五〇〇米程離れた同集落の実家前に碑が立っている。
「陸軍歩兵伍長、横山悟の墓」であり通る度毎思い出し合掌する。

日没後銃砲撃がやみ、ハルハ河畔に静寂が訪れ物音一つ聞こえない、悲劇の幕は閉じられた。
いずれ第二大隊の戦線を突破すれば我々の陣地を目指して来ることになる、既に飛行機によって敵は偵察すみである。
ところが以外にも敵は反転をしてハルハ河を渡り対岸の外蒙ら去った。
何故かわからない。
我々が布陣した九九七高地は戦車が登れば攻めて来れる地形である。
想えばこの悲劇の戦闘前日九月七日敵戦車群が渡ったハルハ河南渡橋を我が軍は事前に爆破するという計画であった。
その爆破の命令が我が分隊に下達された。
これを知った佐渡郡豊岡村岩首の中村諦一郎軍曹は私に対し、お前は退院直後で無理だ、俺がやると強引に中隊長に話をつけた。
中隊長も了承そのように準備を進めたとき敵は既に戦車群を連ねて続々と橋を渡り前進中であった。

とても爆破に近づくところではなく中止となった。
それにしても中村軍曹をここまての心境に駆り立てたのか。
当然、決死隊である。
決して手柄争いどころではないのだ。
人間が自分の命をかけても友達の盾になるということは尋常なことでは出来ない。
彼とは初年兵として入隊以来、そして下士官候補生として最も信頼し尊敬し心の通い合った仲であった。
彼は無頼の善人、温厚な性格で彼と向かい合っていると自分が浄化されるような心境になる。
目を細めた彼の温顔に接するとどんなときでも安堵感を持つことが出来た。

剣道を試合するときの手法として「見せ突き」という方法がある。
要するに騙し突きとも云う。
突くふりをして繰り出して突かずに別の箇所を突くことを云う。
彼と試合で向き合ったときはこのような剣は使いたくない。
堂々の直突でのみ勝負をしなければという良心に責められるような人柄であった。

その人柄は戦後彼の実家を訪れたとき知った。
あの前佐渡という土地柄、新潟に面した字名のような岩石の連なる海辺で景勝豊かな環境に育ったのだ。
戦場と云う異常な状況の中で示してくれた、生と死を超越しての友情は心の中から消えることはない。
彼は昭和十七年十月二十九日ガダルカナル島戦飛行場攻撃に失敗し海岸線に移動したとき不覚にも突然迫撃砲により戦死をした。
そのとき私が身替りになれたらと思い込んだ。
さてノモンハンの戦場は全く釈然としない無謀極まる戦闘何ん?の為に闘って何を得たのであろうか。

単なる国境紛争でなぜあれ程の犠牲者を払って、その代償で何を得られたのか、逝くなった戦友、御遺族、我々にも説明してほしいところである。
しかしそこに国際信義があり、国家存亡の為に是するものがありとすれば納得もしたい。
それに本事変に伴って連隊の戦闘詳報は将来の国軍として考慮すべき極めて重要な示唆が書きとめてあった。
軍備全般・資材・兵器特に陸軍における戦力強化対策・戦車の構造機能整備の劣勢・作戦指揮・訓練等八項目にわたり詳述してあった。
この詳報は書記の発想ではなく、日本の名将と云われた当時の連隊長、宮崎繁三郎大佐が所見として述べてあった。

当然後年度における大東亜戦争に生かされるべき教訓であった筈であるが、二ヶ年後のことで時日的に余裕が無かったのであろう。
或る誌上に次のことが書いてあった。
「九月八・九日の戦闘における宮崎部隊の損耗は戦死一八八名戦傷九九名にのぼり第二師団全損耗三〇四名の大部分を占めている。戦う必要のない戦いでこのような大きな損害を出した」 九月十七日十七時ノモンハン△九三二側における「片混作命第十一号、混成第十五旅団命令は左記のとおり下達された。 第一旅団ハ軍命ニ基キ八八五高地方面ノ攻撃ヲ中止シ概ネ現態勢ニ於テ爾後ノ行動ヲ準備セントス。」

と命令されたが事実は九月十五日既に休戦となり、十七日の旅団命令は休戦命令であったのだ。 作戦に終止符をうつには随分と彼我の交渉過程があったようである。
この終戦協定が少なくとも十日早かったならば我が部隊の悲劇は避けられたと思うと残念でならない。
終戦後満州里とチタの中間附近にあるソ連領マツイエスカヤに於いて捕虜の交換が国際法に基づいて処理が行われた。
これに関わる詳細は我々には発表されなかった。
遠くに狼の吠える声が聞こえ冬が迫ってホロンバイルの草原は寂寥たる荒野となった。
多くの遺体を凍土に残しさらばとなった。
あの惨状を旬日を出ずに休戦、この終末の実情を逝き戦友にどのように説明報告すればよいのかわからない。

この地ハンダガヤのパオで暮らしているという新潟県中条町出身で遊牧の父娘が居ると聞いたが話す機会を得ることが出来ず残念であった
余程のドラマがあったのであろうに。
ノモンハン事変それは瞬間の悪夢であった。






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