冥府

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冥府の戦友と語る



北満駐屯地に戻って

北支戦線から離れて前駐屯地延壽に戻り、旬日をおかず珠河(尚河)に移動した。
ここは鉄道沿線であり最初渡満したとき延壽にゆく為の下車地であった。
しかし、ここからもすぐの移動である。
次の移駐地はソ連と指呼の間にした穆稜站であった
穆稜站はロシア革命から逃れた白系ロシア人の住む街で郊外は美しく整備がされている街である。

牡丹江の東北地方に位置しており、この周辺には各種兵科の日本軍が駐屯していた。
これが作戦目的は何を狙え予測していたのか微妙に国際情勢を反映していた。
ここ穆稜站は仮想敵国を目前にしてもっとも激しい実戦に迫るような訓練の日々が続いた。
移駐後、間もなく北支事変による減員の補充が行われた、補充員として将校・下士官・兵の補充であった。

昭和十年召集以前の召集兵も入って来た。
昭和十三年徴集兵を主体として多彩な兵員であった。
これらの補充員は社会性に富み、人間味も豊かな者が多く兵営生活や訓練になんとなく潤いが出てきた。
軍隊としての秩序規律は勿論必要とするが、こうした異郷の地での生活にあっては階級や序列を越えた人間愛そして和合が欲しいところである。
それらを満たしてくれて家族的な雰囲気が漂った。

ここ穆稜站は大東亜戦争の末期にソ連軍が日本と締結していた不可侵条約を一方的に破棄して、終戦処理において発言権を得ての領土的野心を剥き出しにして日本人開拓地を襲って不法行為をした。
突破口がこの穆稜站であった。
穆稜站兵舎のすぐ裏の台地であったと聞く。
我々が練武台と呼び演習地としていたところである。
この事を知り、我々の陣地を蹂躙されたように覚えた。

召集兵・初年兵・補充兵・現役兵等多彩な編成となり教育訓練は一層激しさを加えた。
満州で最も暑い七月中旬大規模で旅団演習が行われた。
特殊訓練と呼稱された。
一兵の落伍者を出してはいけないという団体訓練である。
訓練競技のようなもので定められた荒野のコースで行われ過酷激烈を極めた、これが為三名の犠牲者を出した。
戦場でない平時の訓練で貴重な兵員を犠牲にすべきでないという師団長の厳命により演習は中止された。

体力の限界を試されたもので戦場行動とは違った苦しさがあった。
入隊の初年兵は若々しく隊内に新鮮さと活力をもたらした。
私の同郷聖籠町から斉藤俊二と大谷道雄の二人が入隊して来た。
学生時代から熟知の仲である。
二人とも下士官候志願をしたいと云って来たが家内事情もよく知っていることと、先の事情が分からない情勢のもとで私は許さなかった。
後年ガダルカナル島で二人共戦死をした。
二人の希望通りにしてやればよかったのかと後悔をしている。

銃後は戦時意気が昂まって慰問袋や芸能人の陣中見舞で国境の街、穆稜站まで来てくれた。
人気歌手の音丸一行が穆稜站の野外ステージ公演をしてくれた。
久しぶりの故国の音楽や歌を聞き心が和み、夢の世界を彷徨っているようであった。
我々には二度とめぐり逢えない青春を荒野に置き戦陣に消えてゆくのだ。
故郷から送られてくる慰問袋は無差別に配られる。
我々は徴兵されるばかりでなく故国・家庭を離れて特殊な任務を遂行している。
こうした環境で敢えて堪えに堪え凌いでいる。

その背景は何か使命感・責任感・全国民的な絆・期待等であろう。
銃後から心を籠めての慰問袋は心に響くよろこびがあり、あの状況下でなければ味わえないことである。
これが縁で文通となり淡い青春の血潮を佛き立たせ、遠い故国の未だ見ぬ人を偲び儚い夢、あこがれ唯一の待ち遠しい便りであった。
一輪の花として胸に臓った(しまった)、しかし中には見事に稔って花が咲きゴールした戦友も居る。

戦陣に咲いた花とゆうか。
折角咲き始めた花も蕾のままで消え去った者、銃後と戦地で若者達のわびしい胸の中に慈雨のように滲みこんでいった。
こうして僅かながらもあの時代それなり青春はあったのだ。
穆稜站は我々の青春を思いきり大地に吸わせたところであり、青春の故郷として想い出の大地であった。
異国とは思えない暖かさが溢れた大地であった。



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