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冥府の戦友と語る
故国にかえる
昭和二十一年五月十二日、遂に帰った。
大竹港に上陸。
上陸するや敵で進駐軍である兵が、通訳を介してこの部隊のオフイスは誰だと叫びながら呼びかけた。
「私です」と云うや、持っている書類を出せと云った。
書類行李を五ヶ出すといきなり封印をした。
どうするのですかと聞いたら押収だと云う。
ここで初めて無条件降伏の実体を味わう。
尓今この行李は返されることはなかった。
あの行李、書類を守れなかった責任を今でも唯一の悔いとしている。
平成五年防衛庁を通じて行方を調べて貰ったら米国に保存してあり、来れば見せられるが返すことは出来ないという。
敗戦の惨めさは一生あの行李の中に閉じ籠められている。
五月十三日復員完結となり免職。
昭和十二年一月一日以来の軍籍は閉じられた。
極めて事務的な別れであった。
お互いに別れを惜しんでいる時間さえもなかった。
貨物列車に乗りそれぞれ運命の赴くところ故郷へ向かった。
連隊は最後まで整々と秩序を乱すことなく解散をした。
これには郷土部隊としての同郷意識と、連隊長、堺吉嗣殿の人格と統率力によるものと万腔の敬意を表したい。
国敗れて山河あり
奇跡の生還
昭和十一年徴集兵、昭和二十一年五月三日在隊約十ヶ年、終戦、復員完結、退役となった。
負傷二回、病歴第一報(危篤電報村葬準備となる)
生きては還れない日々であったが、思いもつかない故郷への帰還となった。
十九歳から三十歳のでの青春はどこへ消えたのか空白の歳月となった。
逝くなった戦友から贅沢を云うなと叱られるだろう。
しかし自分自身にどう納得させたらよいのだろう。
これからの人生どのように生きるべきか、全くわからない。
その為の勉強や準備は何もやっていなかった。
人生の彷浪者にはなりたくない。
こんな不安を胸に汽車は刻々と故郷へ向かっている。
人生の振り出しに戻った。
あの頃の人生は取り戻すことは勿論出来ない。
郷里はどうなっているのか全然わからない。
生きて故郷に帰れるというよろこびはない。
足取りは重く先は眞黒である。
軍隊生活から得た処世技術は何もない。
ただ一つありとせば死んだと思って「無」から出発することだ。
なんの確信もなく思いに耽っているうちに故郷である。
駐屯地新発田に駅についた。
故郷はやはりなつかしい。
すべてはここからの再出発だ。
故郷の茅屋についた。
年老いた両親、弟、妹達は健在であった。
国敗れて山河あり
この山河を基点として第二の人生をスタートするのだ。
よわい三十歳これからだ。
戦争後記・余話
インドネシア義勇軍
インドネシア国民は、アジア民族として同系同種という関係において或いは明治維新後我が国が欧米に追いつくには必要な資源国である等から以前より親近感を同国に対する宣撫工作を行って来た関係で特別に尊敬と信頼を示してくれた。
これらの条件が見事にみのりジュワ占領後インドネシア義勇軍の徴兵が見事に実現した。
ほとんどメナド人青年である。
結成入隊後即日より起居、規律、訓練、食事等の日常生活も含め差別無く扱った。
言葉も早く繋がり日本人の初年兵と見分けが難しい程に立派な軍人としての役割を果たせる迄になった。
連隊には三十名を編成した。
ガダルカナル戦出発の際全員故郷メナドに送り届けた。
軍の機密もあり別れを惜しむ暇もなかった。
善良な彼等はトラブルもなく我々との生活を楽しんだ。
戦後、公私の要件で十数回インドネシアを訪れたが、彼等と会う機会がなかった。
現在も揺れる政情の中で彼等はどんな活躍をしているのか、繁栄と幸せを祈ってやまない。
彼等の意思の一貫も我が国の中に流れているのだ。
歴史は尊し。