冥府

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冥府の戦友と語る

兵隊さん


軍隊とは軍律のもと国家意志によって国家形成の四大要素である国防を担う組織体であった。
我が国の軍隊は明治維新後、国民の三大義務として満二十歳で徴兵検査により、頑健な体位、健全な思想をもった者を地域社会から選び抜えorい?た中堅青年の集団であった。
これらの青年に対し入隊後暁みない切磋琢磨をして心身ともに鍛えた。

専門的な各様の知識・技能を取得すると共に精神面にあってもあらゆる局面に対応出来る教育がなされた。
これらが結合されて特殊な集団組織体となった。
特に新発田歩兵第十六連隊は伝統的に越佐健児をもって結成され、県民性の誇りと家族的で豊かな郷土色に包まれ強い絆で結ばれていった。

従って大衆からも親しまれ"兵隊さん"の愛称で呼ばれていた。
この兵隊さんが本然の兵士としてあの凄烈過酷な戦場に立ったのである。
戦線に立った瞬間、孤独と自己犠牲のもとで自分自身の戦いでもあり、人間が人間でなくなる局面が展開された。

あの戦争が終結して六十余年の歳月が流れ去った。
歳月は人々の記憶や事象を消し去ってゆく、一方では新しい時代が呑みこんで忘却へと導いてゆく。
しかし当時戦列に加わった者、戦場の様相は鮮烈に脳裏から消えることはない。
生きとし生きる者死に勝る大事はない。

命をかけて修羅場につき進む姿は神秘的と云うか崇高に輝く様相としか表現する他の言葉はなかった。
死を目前にした兵の行動は無心の極致であり、その場面は如何なる名監督でも表現することは不可能である。
昭和十五年十一月連隊が満州駐屯を解かれて原駐地新発田に帰還をして実家に外泊をしたときのことである。

私が負傷してハルピンの陸軍病院に入院をしたとき第一報(危篤電報のこと)が留守宅に届き村葬の準備がされて、新潟日報社が恒例によって葬儀用に引き伸ばした私の写真が飾ってあった。
これを見て私は既に死の洗礼をうけたのだと悟った。
我々は常に強靭な肉体と精神力に加えて死に際し動じない達観を得ておかなければならなかった。
この時点では既に鬼籍にはいっているのだと覚悟をしていた。

本稿はこの鬼籍を遡っての記録である。
人の命は誰も予測は出来ない。
生者必滅わかっていながら人間誰しも生きることにこだわりを持っている。
ガダルカナル島戦に壕の中で毎晩のように明日の命を考えた。

人間の存在は宇宙的に考えれば超矮少なもの、大河の流れの一滴にも満たないもの、その原子構造で成立し循環を繰り返し消えてゆく果敢(はか)ない細胞の存在と聞く、そんなことを考えながら走馬灯のように過ぎし日を追い、或いは明日の日消えるかも知れない生命に侮えない諦感を求めた。
我々は大正、昭和の初期に生まれ、我が国が永い鎖国の夢から醒め明治維新後の新国家建設の揺籃期に育ち適齢期となった。

日本が国際社会に伍して近代国家を築いてゆくには資源もなければ技術技能もない、目を開けば欲しいものばかり、加えて封建的で閉鎖性の社会は若者に多くの悩みと試練を与えた。
若者は国家を信じ、国家の発展を優先して生活の基盤つくりに進んだ。
こんな時代を背景に徴兵制度により多くの青年は国防の担い手として隊列に加わった。
兵役義務を果たした者は社会的にも成人として評価された。

平時における軍隊は集団組織の中で心身を鍛えられ社会性を見につけ人生の前進に自信と自負をもつことが出来た。
入隊をする人の職業、環境、能力等は千差万別である。
お互い未知同志の集団である。
入隊後は同一線上において構成され、同一の目的に向かって画一的な教育訓練を受ける。
しかし軍事目的に向かっての教育訓練ではあるが必ずしもそれのみではない。

一般社会人として或いは集団生活における必須の教育内容もあり、また各種各様の人達の集団でありお互いの切磋琢磨によって人間性が培われた。
軍隊についてはいろいろ中傷や批判もあったが、前記したように各種各様な人々の集合体であり、これが軍事という特殊目的を達成するには超人的な鉄則と訓練が求められるのは当然である。

一方にあっては郷土色や人格能力が不文律の中で交錯流合して友情が育ち、服従、尊敬等、人間性によって運命共同体としての流れは軍隊という組織の構成を強固なものとしてその機能を発揮されていった。







仙台第二師団・戦時編成兵力表  総員13,775名
 
師団司令部        305名
歩兵団司令部        93名
歩兵連隊 仙台 会津若松  新発田  8,157名
        一個連隊約2,700名
         
砲兵連隊        1,738名
工兵連隊         872名
捜索連隊         439名
輜重兵連隊        381名
師団通信         182名
衛生隊          491名
野戦病院          731名
病馬廠           47名
兵器勤務隊        123名
防疫給水部        196名
合計                  13,775名
 




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