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冥府の戦友と語る
聖籠町苦節四十年の歩み
東新潟火力発電所第一号機の着工に関わる紛争
問題が提起されたのは昭和四十八年三月二十六日、東北電力株式会社が基本調定に基づいて十月着工を予定して、第一号機建設の申し入れによってであった。
東北電力としては四号機までの基本調定も得ていることで一刻も早く管内の需要に応えて供給したいとの計画であった。
時あたかも表日本の工業化によって、特に四日市公害問題をはじめ騒然たる社会状況にあった。
本村もその状況は十分に認識しており、無節操な条件のもと受け入れるとすえことではなかった。
事前に十分な審議をするために公害対策特別委員会と専門諮問機関である公害対策審議会を委嘱し、県当局の協力を求め審議を重ねて、建設の受け入れに備えておった。
しかるところ、思い出したかのように沛然として受け入れ反対の声が出た。
反対の主力は勤労、電電等の半公共団体の労働組合、社会党が加わり社会党県議や安部国会議員まで加わって役場前に気勢を挙げている。
公害阻止連絡会議という傘下のもとに、村内よりも同調する一部の人々の顔があった。
新潟火力発電所建設の中止と東港開発計画の中止も含め、反社会活動的な様相を呈して、執拗に審議会の会場に詰め寄って、審議の妨害にまでエスカレートしていった。
あの時代、人それぞれに思想信条があったとしても、村の将来をと村民の幸せに想いを込めて進めてきた大事業を遅疑逡巡してはならないことであった。
住民の健康を害し、生活を阻害するようなことは誰よりも当事者が認識しているところである。
ましてや多くの住民の方々が協力をして困難な移転に踏み切ってくださった。
そして今後東港の発展に期待をかけている多くの村民がおられるのだ。
村外から入り込んで混乱を起こしていることに我慢がならなかった。
しかし、村長は毅然として立地証人の意志は不動のものとしておった。
このような状況の中、昭和四十八年十一月二十四日臨時議会の召集をおこなった。
臨時議会は一般議案を主体として渡辺特別委員長より立地に関する審議結果を報告することになっていた。
当日は早朝より不穏な人々の動きがあった。
役場前に集まったのは反対派の一団である。
議会の開会直前になって、相当人数が役場庁舎に侵入をして、議会入口の階段を占拠して、ついに議員は議場に入れず、議会は流会になった。
この場合、公示要件を満たし一般議案も上程されることになっていることで、正規の公務である。
不法な占拠をした集団に対し、司法権を発動して公務の執行妨害として司直の入手も出来たのであったが、敢えて行わなかった。
無用な混乱を避けて、後日を期することにした。
集まった顔を見ると、村民より村外の人が多数であった。
新発田市より来た一人がいきなり村長の机に腰をかけた時、脇におられた三賀の藤井栄一郎氏が激しい声を張り上げて「神聖なる机は村民の机である。腰をかけるとは何事か」と叱り飛ばした一幕もあり、安部代議士も聞こえていたはずであった。
これらの人々の発言を聞いていると、その根本に東港の開発事業そのものに反対しているのだ。
前述の通りそこまで反対をすることになると、単に電力だけのことでなく、村の政治介入であり、挑戦でもあり、対応を変えねばならなくなってきた。
後年になって東港地帯の成果を目にして、その状況を昔日彼等の無節操な議場占拠という非民主的な行動についてどのように考えているであろうか。
しかも国会議員までも同席しての行動においてである。
その後、旬日をおかず対応をとった。
村外からの不純な政治色を一掃して、真に村民の意を掴みとるべく公民館において村民大会を開催した。
討論方式により意見を開陳された。
当日は相当な混乱が予想されたので、十分な配慮のもとに実施をしたが、極めて整然と進行した。
結果は反対者一人にとどまった。
この結果を踏まえて、村長は同意書に調印をした。
電力側としては、期を失せず工事着工に入った。
着工時に亀塚浜磯山地域においては反対者の実力阻止行動が憂慮されたが、平穏理に着工できた。
もっとも着工前、今後火力運営については低公害燃料への努力をするという合意があったことを付記しておく。
そして現時点全計画の四号機を含めて総発電量四六五万キロワット。
液化天然ガス年間導入量二九〇万トン(四号機を除く)
石油備蓄一〇四万二三〇〇トンという大規模エネルギー基地の基礎が出来、可能となったのである。
尚ここで特記しておくべくことは、石油備蓄基地の造成にあたり、網代浜集落としての協力である。
あまりにも集落に近接して、懸念があった。
いろいろな災害発生を想定。
危険を訴える地域外からの声もあったが、あえて安全性の説明に信をおいて承認を願ったことの集落の誠意を忘れてはならない。
以上が海岸地帯におけるエネルギー基地の開発事業に関わる経緯と紛争であるが、その後何等トラブルもなく、順調に事業は進捗し、運営がされている。
ただし、後年新潟軽金属株式会社が操業を断念、撤退したがために共同火力は全面的に東北電力に委嘱された。
昭和五十年に至り、東北電力の努力によりインドネシア国アルペック社より液化天然ガスの導入に成功して発電所全体として低公害燃料に切り替えられた。
さて余談になるが、あれほど熾烈な運動があったが、電力立地によって多くの雇用が村民にプラスになったこと。
それに社宅の新設によって同社の社員が入居した。
これらの人々はそれぞれに異文化を持ち込み、村民に同化していった。
それに加えて児童の学区が山倉小学校のために当該校気校風が変化し大変喜ばれた。
また府警の方々も村の文化は勿論、各種の生活に活力を与えてくだされた。
電力の立地はこのように思いもかけないところにその影響があったということも申し添えておく。