冥府

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続・越佐健児の石碑(いしぶみ) 第四部 さむらい達の片言集(アイウエオ順)

戦中派の私の人間力の芯について


畑山 秀三

今年は、八十五歳を迎えて、人生の終末期を予感し感あり。
人間は生き物である以上、生物的な視点からその本質を捉えなければならない。
従って「人間力」は、その人その人によって生まれながらに授かっている運命的にものと言わざるを得ない。
然しながら生まれ出でて、その人の努力によって大きく左右される後天性によるものであることは、人生を面白くする。

である故に、人生の意義があるものと言えよう。
乳幼児、幼年期には、初めて外界に触れる生命は、自らの力で活きる栄養を摂取しなければならない。
最初の生きるための「人間力」とも言えよう。
自分の意のままにならない時には、泣き叫ぶか、我慢や辛抱をしなければならないと「人間力」の基本を学習する。
一方、母の愛情によって人として一番大切な情緒、感性を感じとり、身につけることになる。

この時期には家族、特に母親の温かいぬくもりが欠かせない。
自然や小動物等との触れ合いの中に、優しさが視覚、感覚の体験が大切となる。
やがて、少年期ともなれば、遊びを通じて友達(人間)関係の中に、身体的な発育とともに社会性について学ぶことになる。
自我意識も目覚め、自立へと成長発達する。
青年期には身体的・知的に活動期に入り、心身の鍛錬という活発に「人間力」が活動する。
感受性の最も強い時期に、それにふさわしい環境(学校)のよき指導者・友人との感作が、「人間力」を高める上に決定的となる。

私の場合には、この時期(昭和十三年)に旧制新発田中学に入学し、大いに青雲の夢をふくらませた。
その前年、中国大陸に「盧溝橋事件」が発生し、日・支事変が本格的になり、学校にも戦時色がジリジリと感ぜられ、制服もカーキ色となり、軍国少年らしく変貌する。
元々芝中は、阿賀北地方の中心校として、質実剛健の気風と、文武両道を重んずる伝統校として多くの俊才を輩出している。
学生帽の白線二本と、アヤメの校章は、誇りある象徴として学友共通の暗黙の意識であったと思う。

昭和十六十二月八日、「真珠湾攻撃」のラジオの臨時ニュースは、少年ながらも当時の閉塞感を吹き飛ばす出来事であった。
然し、当初の勝ち戦も戦力の差から、卒業期の昭和十八年頃からガ島の失陥となり「後に続くを信ず」との学徒出陣となり、憂国の至情に若い血は燃え立っていた。
卒業を待ち切れずに海軍予科練に志願して、戦場へ飛び出して行った学友もあった。
私達は何に迷いもなく戦場へと進む道を選んだ。
当然それぞれ「死」と直面し、戦場で死ぬ可能性を常に意識せざるを得なかった。
勿論、その人によって濃淡はあったにしても、私達はそうゆう立場に立たされ、それぞれの運命に従って行動した。

私はこのような状況の中に、陸士の受験志望を決定づけた。
自分の将来を決めるという「人間力」の最初の決断であった。
昭和十九年二月、「リクシゴウカク」の電報を受け取った時の感動は、人生最高の喜びであった。
士官学校の教育は、国の存亡を賭した戦いのさ中であり、進んで死地へ赴く教育であった。

このような校風の中、士官候補生として常時座臥の間生活に武人としての「人間力」を実践陶冶し、これらの体験的心情は、生涯の後天的な「人間力」の基礎となった。
その志も、終戦によって無念にも破れたものの、昭和二十五年の「朝鮮戦争」によって、職業として警察予備隊(現・自衛隊)に志願して、士官学校で鍛えられた「人間力」を実践の場に生かすことが出来たことは、ラッキーであった。
人生の完成期に、良き上司、同僚に恵まれ「花も実もある武人」として一貫して恵まれたことは、悔いなしと言わざるを得ない。

戦後、価値観の逆転する中、長い間の直線的な生活から、民間人として幅広い多様な職域を体験し、時代に即応する柔軟な「人間力」も身につけ、社会人として適応している現在である。
然し、「いざの場合」には、幼少期、青年期に培った「人間力」が、心の芯となって、生きていることに気付き、戦中派最後の一人として「意地」を貫き通したいと思う今日この頃である。
この度の再生、保存会のメンバーの一人として、最後の人生のライフ・ワークの、その完結を願う一人である。

古諺に曰く、「三つ子の魂、百までも」、阿々。
(平成二十二年八月)



振武台での思い出


藤原 晴和

昭和十九年十一月一日は私が陸軍予科士官学校、第六十一期(甲)生として入校式を迎えた日であった。
私共の期は二つに別れ(甲)は航空兵科(乙)は地上兵科であった。
振武台上の生活は今迄、夢見て来た憧れのものだった。
そこで受けた将校生徒への教育は、厳しさそのものであった。
まずその将校生徒としての立ち居振る舞いを教え込まれた。

その基本は校歌にある、全国から選ばれて君の御楯となることの出来た誇りであった。
言葉使い、歩き方、敬礼の仕方、服装について。
特に厳しく教えられたのは整理整頓の仕方である。
衣服は羊かんを重ねたように置く事。
整理整頓の出来ぬ者は大きな仕事は出来ないと区隊長からよく言われた。

次に食事の作法である。
一つ、目上の人より先に箸をとってはいけない。
二つ、食器をカタカタと音を立ててはいけない。
三つ、食べる時は口の中の物を見せてはいけない。
四つ、食事中目上の者から声を掛けられた時は箸を置いてから答えよ。
等、細かいところ迄教え込まれたものである。

振武台上の一日は、ラッパの音ですべて進められた。
中でも忘れられないのは毎夜の消灯ラッパである。
あの音を床の中で聞くとしみじみああ軍人になったのだなあと思ったものである。
我々六十一期(甲)は入校時の訓示から、特攻隊として死ぬことは全員覚悟はしていたが、本当に心から納得したのは中隊長の講話の中で、お前達は七度生まれて国を護ってくれと言われた時だ。

七生報国という言葉が落ち着いた感じで受け入れられた。
その頃、寝台戦友同志で生爪を集めて封筒におさめ、遺言のような手紙を書いて置くことが多く見られた。
二十年三月中旬より東京周辺への爆撃が激しくなり、振武台にも三発の爆撃を受け、六十一期も二名の戦死者を出した。
五月に入って長期野外訓練として(甲)の全員と(乙)の一部が郊外に分散し国民学校校舎を長期夏休みを利用して宿泊し訓練を続行した。
私の二十七中隊の第一区隊と二区隊は合併して第二十二中隊第三区隊となり区隊長もかわられた。

五月二十九日午後十一時に振武台を完全武装で出発、翌日午後六時長休憩を重ねつつ、寄居国民小学校へ歩き通し到着した。
思い出の一つである。
七月頃になると六十一期(甲)は十月に航空士官学校へ行くという話が流れ始め、八月十五日を迎えることとなった。
八月十七日頃だと思うが、航空士官学校六十期の方が一人来られ、本土決戦をやる。 この寄居中隊は横須賀に集合せよ。
二十五日迄にという事だった。

又花園中隊はすでに放送局占領に出発している。
と言われて行った。
翌日陸軍省の参謀が説得に廻られた。
そして八月三十日朝、各地へ解散復員となった。
その後一回も懐かしい振武台へは行ったことがない。
弾尽き、武器も飛行機も尽きて、敗れはしたが、世界最強の日本陸軍の指揮官達が未だ多く居た事を信じているし、将来の日本に我々の時代にの時のように日本の山や川を、日本国民を命をかけて護ってやるという男達が大勢居ることを信じている。


第六十一期生歌『陸士最后のつわものぞ』

一、 芙蓉の峰を仰ぎては
コンロン山に夢を馳せ
七の海にひろめんと
六十一期おおわれら
君の御楯と選ばれぬ

二、 忍び難きを忍べよと
玉音山にこだまして
野は伏し海は黙したり
鬼神も哭けと号泣の
六十一期おおわれら
陸士最后のつわものぞ



あとがき


私達の世代にとって懐かしい、海の「ゼロ戦」、陸の「隼」の活躍は青春の血を沸かせたものである。
その「隼」が戦後半世紀を経た今日、最近のビッグニュースとして、小惑星探査機「はやぶさ」として、さまざまなトラブルを克服して、平和の宇宙を飛翔し続け見事小惑星「イトカワ」のデータを採取し、地球に生還したことである。
チーム日本の科学陣の諦めない粘り強い探究心によってもたらされた誇りある快挙である。

私達戦中派も平成最後の軍籍に在った者として、この度同志相謀って、郷土部隊の戦跡記念碑を整備して、戦没者の「悲しみの心」を平和の礎の記念碑として残さんとする試みは、我等の最後の意地としてご理解を願って止みません。
尚、本誌発行に際して、島津印刷渇長の格別のご協力と、菊水酒造会長高沢英介氏のご好意に対し厚く感謝するところであります。
(平成二十二年八月二十三日 畑山 記)


続、越佐健児の石碑
平成二十二年八月二十三日

発行者 新発田西公園
再生戦没者慰霊塔・碑保存会

印刷 島津印刷株式会社






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